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物理室からインターネットへ


■物理室準備室(以下、物理室)からインターネットに

 今年(2001年)の夏休みに、勤務校の主な準備室等にインターネット接続用の配線が職員有志の尽力で回ってきた。これでCATVを通してのブロードバンドでのインターネット接続(1.5MB)が可能になった。これは、10BASE-Tケーブルを用いて、ルータ・ハブなどを連結しながらの配線を体育科のS教諭などが部屋や廊下の天井を這いずり回っての奮闘をしてくれたおかげで、夏休み明けに学校に行ってみると、物理室にも配線が来ていて「ようやく来たか…」と、暑い中、配線をしてくれた人たちに感謝した。

 物理室に来たケーブルはあと3mほどほしかったのだが、端末が来ただけで十分だった。あとは、使う私が自分で必要な器具(ハブ・ケーブル・LANボード)を\3000ほどで購入して来て、接続した。接続して最初はなかなかつながらなかったが、「パソコン師匠」の佐々木君に聞いた通りにやったらすぐにできた。彼は毎日のようにやっているのでLAN配線などお手の物なのである。いつものことながら、彼にはお世話になっている。

 さて、実際にインターネットに接続することができるようになったら、今までのようにフロッピーディスク(FD)でデータやダウンロードした修正プログラムなどを自宅から職場に運ぶ必要もなくなり、大変重宝している。自宅に来たメールもプロバイダーのメールサーバーに残したまま読み取りだけできる設定にしたので、職場でメールもチェックできるようになったのだ。回線の容量はもう少しほしいところだが、それでも常時接続でインターネットが使える(けっこう頻繁にルータがハングアップはするが…)のは、ありがたい。自宅ではやはり時間を気にしながら使っているため、自分の専門(物理)の海外の資料などをゆっくり目を通すことはできなかった。今度は自分自身の研修として学ぶこともできるようになったのは、うれしいことである。図書館にゆくのもおっくうだし、それほどの勉強家でもないから、物理室で空き時間などに気軽に資料など(日本語ではそれほどではないが、英語では貴重な資料はいくらでも出ている)を参考にできるのは、まるで夢のようである。

■いいことばかりでないのがインターネット

 何でも便利になれば、それにともなっていろいろな問題も付随しておこってくるもの。常時接続になったのをいいことに、インターネットに接続した状態でいることが多くなったせいか、ウィルス問題が浮上してきた。先日も、Idea Treeで文章を書いているときに、突然「ウィルスバスター2001」が起動してウィルス検出をはじめた。こんなときのためにインストールしておいたのだが、実際にはじまってみるとおどろくものである。19000ほどのファイルを検索した結果、1つのウィルスを発見したのだ。それは、トロイの木馬型といわれるウィルスで、「Book2.xls」というExcel形式のファイル名で入り込んでいたもので、メールを通して入ってきたらしい。しかし、自分ではそのようなメールを受け取った記憶は全くないのだ。おそらく多数送られてくるオンライン広告の中にまぎれ込んでいたのかもしれない。私は、そういうメールはすぐに削除してしまうが、削除したといっても「trash」の中に移動するだけなので、そこもきちんと全部削除してしまわないとファイルがHDDの中に残ってしまうことになる。「ウィルスバスター2001」は、結局ウィルスの「駆逐」には失敗したようで、「隔離」という形でそのファイルを処理してくれた。この手のウィルス対策ソフトが相当に売れているようだが、たしかにインターネットも常時接続となると、需要は増す一方だろうとおもわれる。

 私の好きな本に諏訪邦夫『情報を捨てる技術』講談社ブルーバックスがある。もう何度も読んでいるが、「処理できる情報には限度がある」という実にシンプルな基本的なコンセプトがある。インターネットを使って無限に近い情報を手に入れて・・・というような「うまい話」を信じている人には、ちと辛口の本かもしれない。しかし、この本に書いてあることに私は全面的に賛同している。インターネットもダラダラやっていてもなんにもならない。ほぼ80%はどうでもいい内容だ。あとの20%でインターネットの価値を作っていると私はかんがえている。私のこのHPにしても別段読むに値する内容かと問われれば、作っている本人としては「そんな内容は何もない」と自信を持って答えることができる。自分のかんがえなどを人に聞かせてみてもそれでどうなるのか?自分でもよくわからない。書くと自分のかんがえなどがまとまってくるような気がするので書いているというのが、本当のことかもしれない。以前『インターネットは空っぽの洞窟』というような本を読んだが、その通りだと素直におもえる。

 しかし、ただ1つだけいいとおもうのは、「インターネットは世界を変えつつある」ということだ。これは誰が何と言おうと確実であると断言できる。というより、現在に生きる人々とのかんがえ方にしかと影響をおよぼしているということである。それは、好きだとか嫌いだとかのレベルを越えて、浸透しているようにかんじている。技術はそれが浸透すればするほど空気みたいに当たり前になってしまうが、それだからこそ、確実に誰にとっても必要不可欠なものになってしまうのだ。そして、「情報」というものの意味を根底から変えてしまっている点でも大変なことになっているとおもうのだ。これまでの「上から下へ」の流れに加えて「横から横へ」あるいは「全方位へ」とその流れが変わってしまったのだ。もうこの流れを誰も止めることはできない。情報の発信などとよくいわれるが、本当に読む(聞く)に値する情報を出せる人などそうはいないのだとおもう。ほとんどは、その真偽のほどもわからないことをよく調べ、考えもしないで、次から次へと発信しているのが実態だろう。でも、それだからこそ、生身のダイレクトな意見やかんがえの発端に触れることができるのかもしれない。そういう意味では、何度も草稿に手を入れる本などとはちがう種類の媒体(メディア)なのかもしれない。

 インターネットに過大に反応するつもりもないが、これほどの繁盛をみせているものに背を向ける必要もないだろう。要するに「私が処理できる情報には、限界がある」という単純な事実さえ押えておけば、むやみやたらに「青い鳥さがし」のように「情報、情報、・・・」と騒ぎ立てる必要などないのはだれにでもわかることなのだから。

■しばらくは携帯なしでも

 先週、娘が九州に修学旅行に出かけた。いつものように、授業の空き時間に教材研究をしながら、メールのチェックもしていたら、娘の携帯からメールが入ってきた。飛行機も予定通り着いて、別府の「血の池地獄」などを見学しているとのこと。20数年前に別府には行ったが、その当時はSFのようなことが今では現実になっている。旅行中に何度かメールのやり取りをしたが、まったく時間的・空間的な隔絶感がなかったのが、何とも不思議なことである。もう、すれ違い、すれ違いで一世を風靡した「君の名は」の時代ではなくなっているのだ。時空間のすれ違いを極端に少なくしたした世界は味気ないが、安心感はある。どちらがいいのかは、わたしには判断がつかない。

 離れて暮らす息子とも、ほとんどメールで連絡しているだけである。こちらは、まったくの「梨のつぶて」で一方的に私がメールを送っているだけ。夏に「体調を崩さぬよう・・・、などなど」細々としたことを書いて送ったら、本当にめずらしく返信が返ってきた(ふつうは1度も返信はない)。返信の内容は「うん、わかった」だけであった。いくら、文章を書くのが面倒でもあまりの明快さにガクッときた。昔の学生の定番であった「カネオクレ」と同じようだと苦笑してしまった。若い頃から文章などを書くのに凝っているのは、私自身はいいとはおもっていないが、あまりに単純なのも困るだろうとまたしても、その旨の返信を出してしまったのは、ちとやりすぎだったかもしれない。

 というわけで、今のところ、電子メールがあるために息子・娘とはかろうじてメル友みたいな細い糸でつながっている状態である。電話での会話があまり好きでない私としては、携帯に電子メール機能をつけたエンジニアに敬意を表したい。メールならば、気のすむまで書きつづける私なので、いいストレス発散になる。携帯で、あの小さな画面を見ながら、こちょこちょメールを書くのは私には無理かもしれないが、パソコンと携帯でメールをやり取りできるので、今のところ携帯の必要はほとんど感じていない。上に書いた「君の名は」ではないが、だれかと待ち合わせていて、なかなか出会えないときなどには役立ちそうにおもえるが、残念ながらそんなこともめったにない。そんな場面の主役にはなれそうにもないし、それ以上に、そんなことは面倒くさくてかなわない。時間通りに来なければ勝手にはじめてしまうし、来ない人のことなど心配することもめったになくなってしまった。これって、「わがまま」で「年取った」ことだよね。

 悲しいな( p_q) シクシク。

 2001/10/21(日) 14:55

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