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物理の教師はもういらない?


■物理を学ぶ生徒がいない→物理の教員はいらない!

 文部省などの統計によれば、高校で物理を学ぶ生徒は極端に減っています。日本全国にはおよそ5050校近くの高校があります。それらの高校に在学する高校生の内、物理を学んでいる生徒は、多くて3割ほど(実態はもっと少ないはず)でしょう。当然、学ぶ生徒がいなければ、物理の教員は必要ではありません。現在、物理教員の新採用はほとんどないため、物理の教員はどんどん高齢化し、しかも人数も減少の一途をたどっています。需要がなくなったために、必然的にリストラがおこなわれているような形になっているわけです。でも、本当に物理は不要になってしまったのでしょうか?物理の教員はもういらないのでしょうか?

■具体例(私の勤務校の場合)

 私が現在勤務している高校は、いわゆる「底辺校」です。学区内にあってもっとも学力の低い生徒が集まるところです。中学校からの調査書や入学試験の結果から見ても、学力の低さははっきりしています。学力は生徒のもつ能力の一つでしかありませんから、それですべての能力を判断することなどだれにもできません。ただ言えることは、学力とその他の能力にはかなりの相関関係があることは確かでもあります。この傾向は経済的な事情で進学できないというような生徒がほとんどいない現在ではより顕著になりつつあります。

 2000年4月1日現在で、私の勤務校には684名の生徒が在籍しています。この中で2・3年生次に履修する物理TB(必修選択)と物理TB&U(理系必修選択)をとっている生徒は合計37名です。これ以外の生徒は中学校の理科1分野で勉強した物理の内容をもって終了となります。かろうじて物理を少しでも学んで卒業する生徒は在校生の5%ほどだけです。この傾向は%は少し多いですが数学でも同じです。生徒の選択にすると、物理や数学は予想するまでもなくその選択からもれていきます。

 今年度は勤務校に物理の教員は3名います。その中の私ともう1名の教員で物理を教えることになりました。私が2年生の24名を、もう1名の方が3年生の13名をという具合です。この人数も毎年減少の一途をたどっています。それでも、物理を選んでくれる生徒がいる内は授業を続けていきたいと考えています。しかし、この先どれくらい続けられるかは予断を許しません。私の勤務校で物理を選択する生徒は、この学校の中では多少は勉強をする生徒なのですが、それでも家で勉強したりする生徒はほぼいません。学力が低く、意欲も乏しい生徒たちを毎時間(週4回)それなりに指導してゆくのは仕事とはいえ苦労も絶えません。

 物理の選択は2年生からはいってくるのですが、1年生の2学期頃には2年生での選択科目(理科は生物と物理から1教科。1年生では全員化学TBを履修する)を決めることになっています(この時期はほぼ10月上旬です。なぜか?それは教員の転勤希望を出す時期がちょうどこの時期だからです。くわしくは後述)。まだ「物理」とはどんなことを勉強するのかもわからない状態での選択になるのです。しかも中学校での理科の成績はほとんどの生徒が5段階で1か2なのです。これでどういう選択がなされるかはおおよそ見当がつくでしょう。


■神奈川県の例

 これから述べる内容は神奈川県の場合です。ですから他の都道府県にも該当するのかは自信をもっていえません。しかし似たような状況になっている可能性は高いと思われます。最近、『学力崩壊』とか『算数軽視が学力を崩壊させる』『分数ができない大学生』などの本が次々と数学関係者から出されています。これらは正確には「理数教育崩壊」というのが適切ではないか、と毎日現場で教えていて感じます。その中でも「高校物理」はほぼ崩壊し終わったというのが、私の印象です。かと言って、だから「物理」を復権しないといけないなどと論じるつもりはさらさらありません。ただ、「高校理科」全体の実情を知っていただき、さらに「物理」という科目の現状を知っていただければとおもうだけです。今後の科学教育全体の問題は、そういう事実認識のうえにたってかんがえる必要があるでしょう。

 神奈川県はご存知のように東京都のすぐ隣にあり、横浜市・川崎市などの大都市もある全国的にも開けた(?)場所のようにおもわれています。私も教員になってはじめて横浜市に住むようになりました。そして、それまで「横浜」や「神奈川」に抱いていたイメージは住む年数が経つにつれてくずれていきました。「都会のようで、じつに田舎」というのが、現在の印象です。「全国でも先駆けて…」というのが好きなようで、その実は、中央にこびへつらっている度合いがとても強い土地柄なのです。教育政策にしてもほとんど文部省のいいなりです。おそらく地方よりも場所が近い分、返ってその影響力を受けやすいのかもしれません。ですから、現在、神奈川でおこっていることは、遠からず地方にも波及してゆくという意味では、ひとつのモデルを提示しているようにおもうのです。

■神奈川県立高校の教科カリキュラムから

 現在、神奈川の県立普通高校では「理科」の履修はほぼ次のようになっています。

1年:化学TBまたは生物TB(全員必修)
2年:物理TB・生物TB・化学TB(選択必修…どれかを必修選択する)
3年:物理U・化学U・生物U・(地学TB・U)(自由選択)

高校により多少のちがいはありますが、ほぼこの形になっています。高校には厳然と学力のレベルの差があります。そして、上位のレベルの高校へあがるほど、この形がとられていると考えていいでしょう。反対に下位のレベルにさがるほど、この形はどんどん崩れていき、「理科」の他の科目(たとえば、環境問題などを扱う等)で代用されていく傾向が見られます。理科だけでなく、数学にも同じような傾向があることは容易に想像がつくとおもいます。上にあげた理科の履修形態はあくまでも平均的なものであることがすぐにわかるでしょう。

 高校への進学率も95%をこえるようになりました。中学校での理解度がそのまま高校へ(それも同じレベルの生徒が団子状に固まるように)持ちこまれるようになっています。同じ「高校」という名前はついていても、大学教養レベルの内容を教えるところから、それこそ小学校レベルの内容を再度学びなおすところまで、その差は非常に大きいのが現状です。

 「理科」も高校で学ぶ多くの教科の一つにすぎません。そして、「物理」や「化学」「生物」「地学」などはさらにその理科という教科の中の一分野(科目)です。私は物理の教員として採用されましたが、正式には高校では「理科教員」という大枠で採用されています。大学あるいは大学院等で物理を専攻した人が、「専攻分野…物理」という形で物理を教えるようになっているのです。「高校物理」を教えるのに、物理専攻でないと教えられないかというと、じつはそんなことはないと私は考えています。ただ理科教員のほとんどの方は、自分の専攻した分野を教えるのが楽ですし、自信をもって教えられるというので、現在のような形になっているのだろうとおもいます。不思議なことですが、同じ理科教員でも化学・生物・地学(天文学専攻はそうでもない)の方は「物理」を教えることにかなり抵抗があるようです。反対に、物理専攻の方は持ち時間が上で述べたように少ないため、仕方なく他の化学や生物そして地学などを掛け持ちで教えていることが多いのです。私も今年度は物理のほかに化学TBと総合情報基礎Aという科目を教えています。

 このように物理教員の居場所はどんどん少なくなり、他の科目を掛け持ちで教えることが年々多くなっています。転勤してすぐに物理を教えることができることも稀になり、まずは化学などを教え、年度変わりの転勤がらみで物理にもぐりこむというのがパタン化しつつあります。私の前任校での物理の同僚も神奈川県でも有名な進学校へ転勤になりましたが、転勤して2年間もっぱら化学を教えています。はたして3年目の今年物理をもつことができたか?不明です(これを書いたあとに確認できたところではまたしても化学だけでした)。何といっても物理の前任者が優先なのですから(これも考えると不思議な慣例ですが)、じっと時期を待つしかないのです。しかも、物理を選択する生徒は進学校をのぞけばどこも減る一方です。物理の教員はますます需要がなくなっているのです。

■物理は物理教員のためにあるわけではない(建て前)

 高校の科目としての「物理」はだれのためにあるのか?といえば、それは言うまでもなく生徒のためです(とふつうは言われるがはたしてそうか?わたしは疑問をもっている)。ですから、生徒が選択しなければ物理はないも同然です。「なぜ物理は生徒に嫌われるのか?」は、いろいろな意見のあるところです。「教え方が悪い」「数学をよく使うのでむずかしい」「計算ばかりで面白くない」「何のためにやるのかわからない」「役に立たない」などなどいずれも生徒の口からじっさいに聞いたことのある苦情です。それなら、物理以外を選択した生徒が生物や化学をよく理解して面白がって学んでいる(あるいは成績がよい)かというと、そんなことは全くありません。物理でも面白そうな実験を工夫して興味を引くなどの努力をしている教員も数多くいます。しかし、それが「物理を学ぶ生徒の減少」の歯止めになっているかといえば、それほど効果があったとはおもえません。

 物理はこの科目の性格上(数学が頻繁に使われる、論理的な思考力が求められる等々)、まず生徒が自分で自主的に選択して学ぶという構図はどうにも考えづらいのです。高校に入って科目にあるから仕方なく勉強したという人がまずほとんどだと断言できます。その中のほんの少しの「物好きな」生徒が物理を勉強してみようかと取り組んできたのが今までの流れだったとおもうのです。理工系の大学を目指す生徒がみんな「物理」を積極的に選んで学んできたなどという事実はないと言ってもいいでしょう。受験科目にあるから仕方なく、というのが一般的な姿であったのです。

 もうおわかりのように、「物理」という科目はある程度はカリキュラム的に「学ばないといけないように(つまり必修にして強制する)」もって行かないと、ほとんど成立しない科目なのです。これは、何も日本国内だけに限った話しではなく、他の先進国でも事情はおなじです。アメリカ辺りでは、生徒が自主的にどんどん学んでいるようにレポートされたりしていますが、あれはハイレベルの高校などほんの一部のことを大げさに宣伝しているとおもってまちがいないのです。欧米でも、生徒の「物理離れ」は深刻で日本と同様に苦境(?)に立たされているのです。なぜもこのように「物理離れ」がおこるのか?はむずかしい問題ですが、ちょっと観点を変えてみると、日本の高度成長時代(バブル期まで)には理工系の勉強(物理も含めて)は、進学・就職ともに「旨味(うまみ)のある」勉強だったことがわかります。これは、他の欧米においても同じです。現在はどうでしょう。もうその「神通力」は失われています。勉強したあとの「旨味」がなくなった科目を一体だれが選んで学ぶでしょうか?「勉強はそんな目先のことのためにするものでない」などと御託を並べる人がいるでしょうが、そんな仙人みたいな人は少ないに決まっています。「目先の利益」これが勉強を促す(仕方なしでも)起爆剤なのです。

 「物理」を選んで学ぶ生徒を増やす方法は、ですから、「物理」を学んだ人が優遇されるような社会的なシステムを作ってしまうことです。生徒は放っておいてもどんどん選択して学ぶようになるでしょう。でも、「物理」を学んだことだけで社会的にも経済的にも優遇できるような「職とか仕事とか役職」なんてあるのでしょうか?どう考えてもないですね。物理の学者といってもどうにも精彩を欠いてしまいます。つまり、物理を学ぶ動機はほぼないというのが現実なのです。よく「人間の知的探究心」などを持ち出す人がいますが、そういうもので学べる人がどれほどいるというのでしょう。「物理」では、旨味がないのがふつうだったのです。バブル期までの物理選択者のほとんどはこの旨味にありつこうとするごくふつうの感覚をもった若者だったのです。それが、旨味のなくなった現在では、元の状態(ずっと昔からの)にもどったと考えることはできないでしょうか?柘植俊一『反秀才論』岩波現代文庫を読むと、戦前には「航空学科」がそれこそ秀才の集まる学科だったそうです。その勢いは、昭和24年の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞の影響による理学部物理学科の人気など及びもつかないものだったそうです。「航空学科」で学べば、戦争の最前線に行く必要もありませんし、当時ではものすごい高給取りになれたのですから、秀才たちが「航空学科」を目指した動機がすぐにわかるとおもいます。なぜ「航空学科」かって?それは、当時の日本はワシントン条約によって艦船の製造を制限されており軍艦を作れなかったのです。そのため飛行機の開発の方へ優秀な技術者の目が向いてしまったというわけです。おそらく、技術者たちの卵である学生たちはそれほど文句も疑問もなく、物理の学習に取り組んでいたことは疑いもありません。

 このように制度としての学校という組織の中で、物理という科目を勉強する動機付けは、社会的な「優遇措置」によって支えられていたと考えられます。もちろん「自然のなぞにせまりたい」というような動機をもった学生もいたことでしょう。しかし、それはあくまでも少数派であることは、今も昔も変わってはいないとおもうのです。

■本当に物理を学ぶ生徒は減っているのだろうか?

 私の推測では、物理を学ぶ生徒(学生)の割合は学校制度の始まった明治以来ほとんど変わっていないのではないだろうかと考えています。

 私自身の高校時代は昭和43年〜昭和46年でしたが、当時は普通科では確かに物理は全員必修でした。しかし、もともと普通高校へ進学する生徒の数も首都圏などを除けば、現在のように多くはなかったのです。その高校の中でも、理工系の大学を目指して物理を(つまり受験科目として)選択する生徒はそれほど多いわけではなかったのです。現在と同じで、ほとんどの生徒にとって物理は煙ったい科目だったことはまちがいありません。理工系に進むために物理を3年生で選択する生徒であっても「仕方なく」やっていた生徒がほとんどだったとおもいます。私自身も2年生から物理を学習しはじめた当初は、それほど興味を引かれるということはありませんでした。物理を教えてくれたS先生に対する生徒の評価もまちまちでした。物理という科目を純粋に好きだというような生徒はまずいなかったのでは、と言ってもいいくらいです。3年生になり、多少、物理の思考法に慣れてきてからようやく「物理もけっこう面白いなー」と感じる生徒がほんの少しでてくるというのが、当時でも一般的であったとおもいます。

 当時も現在も大学に占める理工系の割合は少ないです。とくに、最近はやりの「情報系」を除く数学系・物理系・化学系などの専門学科をもつ大学の数は数えてみると、実に少ないことがわかります。日本全国には661校(『大学ランキング2001年度版』朝日新聞社)の大学がありますが、そのうちこれらの学科をもつ大学は1割(60校前後ほど)にもなりません。日本では、明治になって大学を作ったときに、欧米ではほとんどない理学部と工学部を分けるという面白い試みをしています(欧米ではその当時は理学部とか工学部などには分けていなかった。強いて言えば自然哲学部か…)。工学というのは大学でやるものとは考えられていなかったのです。理学部については、それに近いものはあったでしょうが、これも「哲学」の一部をいう考えだったとおもわれます。そういう意味でも、日本の大学の理学部・工学部というのは珍しい存在なのです。ちなみに、工学部でも物理や化学などは必修で学ぶのでしょうが、物理を専門的に学ぶということになると、理学部か理工学部の物理学科・応用物理学科あたりになるでしょう。そこまでしぼってみると、物理を本格的に学ぶところはもっと絞られてしまい、本当に小数のところでしか学ばれていないことがわかります。

 こうして見てみると、現在においても「物理」を学ぶ生徒・学生はもともとからして少なかったことがわかります。工学やバイオなどの基礎として学ぶ学生を含めてもそれほど多くの生徒・学生が学んでいるわけではないのです。高校生全体の母集団の中でももっとも学ぶ生徒の少ない科目が、おそらく「物理」ではないかと想像されます。「地学」についてはそもそも教える先生がいないのですから(第一採用がない)、これは一応省いてあります。現在、「理科教育が危ない!」「数学教育が危ない!」とマスコミなどでも取り上げられることが多くなりましたが、これでお分かりのように、理科教育全体が危ういのはなくて、理科全体の基礎基盤である「物理教育」が壊滅してしまっていることがその危機感をつのらせているのではないかと私は考えています。

■物理はすべての科学の基礎

 物理は「自然科学」の基礎です。ふつういわれる「科学」の基礎も物理です。「**科学」と称せられるものの目指すものは、この物理の方法論を取り込みながら、その学問を発展させることにあるのでしょう。数学が論理的な思考法の原点だとすると、物理は実験科学の原点でもあるわけです。物理自体が表面に出ることは少なくても、すべからく「科学」といわれるものの底辺には物理の論理・思考法などが流れているのです。直接、物理を学ばなくても、科学を論じるときは、その底辺に物理の知識なり思考法なりが使われていることは言うまでもないことだろうとおもいます。ですから、「物理は実用の役に立たない」とか「難しすぎるので学びたくない」とか「生徒に人気がないから選択科目に回す」とかいう論はあまりに目の前の現象に囚われた意見のように私には感じられるのです。勉強(→学問)で、物事の基礎を学ばずして何を学ぶというのでしょうか?

 現代は、よい面も悪い面もふくめて「科学」を土台にして成り立っています。「科学技術」という言葉で日本では同列に論じられますが、「科学」と「技術」は本来それほど密接には関係していません。20世紀も後半になってようやく、「科学」と「技術」が結びつきを深めてきたのです。物理を学ぶことは直接的に技術に結びつくわけではありませんが、その応用として、技術面に役立つことはあるでしょう。しかし、物理を学ぶことの意義は、「人間が自然を認識するための方法で、現時点では普遍的になりつつあるものを学ぶ(もちろん、東洋的な認識法もあることを念頭におきながら)」ことにあるのでは、と考えます。所詮人間のやること、絶対などということは無理にしても、ある程度までなら、より普遍的な見方ができるのでは…と希望を胸に秘めて取り組む課題みたいなものだろうと考えるわけです。ですから、この勉強は文系とか理系とかの分別をしてみてもあまり意味のないものになることがわかるでしょう。そうですね…、人間自体を知るために学ぶような気もします。

 最後に、物理を学んだからといって、人間的に優れた人物になれるわけではありません。それから、これを学んだからって、頭脳が優秀になることもないでしょう。ただ、確かに人間の頭脳をフルに使わないと理解できない部分もあるため、頭は疲れるときがあります。そういう面ではけっこう頭を使う勉強だとはおもいます。しかし、これはどの勉強でも同じです。物理は、がっちりと基礎付けされた部分とそれを自由に使って羽ばたく部分といろいろな面白い面を見せるのですが、高等学校で学ぶ部分はどうしても基礎付けされた部分が多いため、退屈な面もあることは事実です。基礎はどんな学問や運動でも退屈なものです。しかし、この部分で手を抜くと、大きく羽ばたけないのも事実なので、少し退屈でもしっかり反復訓練をつんでおくことは大切だと考えます。

 冬枯れの木々は幹だけの殺風景な感じです。しかし、来る初春には、枝々に豊かな緑の葉や花をつけて見事な風景をもたらします。感じるに物理とはこの幹に相当するものなのではないでしょうか。こんな木の面倒を見る人はもう必要ないのでしょうか?日本の将来などという小さなことではなくて、人間の将来という大きな未来に向けて…。

 2001/01/25(木) 13:35

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