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理科の抽象化と素朴な疑問


理科嫌いはどうして?
小学校・中学校と学んできて、高校に入ると理科(特に物理や化学)が嫌いになる人が目立って増え来てきます。それまで、学んで来た理科の雰囲気と全くちがった雰囲気になるからでしょうか?計算がやたらと多くなり、それも小学・中学では算数・数学などの応用問題として扱われてきた「単位あたりの量」とか「割合」「濃度」などがごくふつうの問題としてでてきます。その辺を「暗記」で乗り越えてきた秀才たちさえ苦労するのは、生徒たちの実態を見ていてもわかります。増してや「苦手」のまま高校に進学してきた生徒たちには別世界の話に聞こえても不思議ではありません。

「理科の授業に実験が少なくなったから…」とか「理科教員の教え方が悪い」とか…数え上げればきりがないほど、理由はあげられるでしょう。しかし、どんなに教え方を工夫したとしても、自然科学自体が持っている「普遍化」や「抽象化」への問題とどこかで対峙せざるを得ない時期は必ず来ます。それが、私は高校の辺ではないかと考えるのです。ここを、何か目先のもので覆い隠しても結局はどこかでそのしわ寄せがあるのでは、と私は考えています。記号や数式が多くなるのは、その一部の現われでしょう。ここを、通り抜けないといつまでも「お話理科」で終わってしまうと感じるのは私だけでしょうか?

そうは言っても、現在の理科の内容は多すぎて、これを少ない時間で学ぶのはもう限界に達していることは間違いないことです。一度しか出てこないような末節な事柄は思い切って削除して、何度もでてくる重要な概念(考え方)をいろんな現象を通して、ゆとりをもって学べるようにして行くことが緊急の課題であると考えています。

高校での理科

現在、高校などで使われている教科書をご覧になったことのある方はいらっしゃるでしょうか?多分見られたら驚くことと思います。私の手元にも物理・化学・生物・地学などの教科書が数冊ずつありますが、私の高校時代(昭和40年代半ば)と比べても内容が一段と高度になっています。私の担当している「物理」についてはそれほどでもない(一番最後にクウォークなんて言葉が少し出てきますが…)のですが、化学・生物・地学については研究の成果が大きく反映して、相当に難しくなってきています。しかも、相反するように「生徒にゆとりを!」とかいう世論もあって授業時間数の方は減る一方です。私学ではこの当たりは多少時間的に融通が利くのでしょうが、公立の学校となると「がんじがらめ」の状態ですから、その少ない時間を何とか遣り繰りして授業を行なうことになります。ですから、返ってあまり大学等への進学者がいないところほど、むしろ余裕を持って授業ができる(というと、語弊がありますが、教科書を使いたくても使えない高校も多いのが現状なのです)というような現象も出てきます。いわゆる「進学校」の方が四苦八苦しているということを前の同僚も話していました。

それに、「進学校」の生徒といっても実は世間で思っているほど勉強の中身をしっかり理解しているわけではないのです。中にはまれに「すばらしい理解」をする生徒もいますが、それは本当にまれなのです。私も一応地方の「進学校」を卒業しましたが、内実を知る人にはわかると思いますが、「どこがすごいのかな?」と感じることがしばしばでした。友人に個性的な人が多くて、その影響が大きかったことは確かですが…。

高校理科の但し書き

もとの「理科」の話に戻しますと、1年生でほとんどの生徒が学ぶ(普通科の場合)「化学」などでは、最初に出てくる「原子・分子」などの個数を数えるときの基本になる「モル」などではアッと言う間に多くの生徒が理解することを断念してしまいます。勢い「もうこうなったら暗記だ!」となるわけです。原子や分子のレベルになると、もうそれまで勉強してきた「目で見える世界」とはちがう世界に入って行ってしまうのですが、「身の回りの世界」式の理解の仕方に慣れて来ていればいるほど、返って理解を困難にしてしまうようなのです。「自然を素直な気持ちで観察して」というような次元で考えていると、自分で「見える世界」にこだわってしまうのかもしれません。

物理でも、はじめに「物体の速さや加速度」という概念がでてきますが、「速さと速度」のちがいなど物理独特の言葉の使い方が出てきて生徒を困惑させます。自然科学(日本では、ふつう理科と呼ばれていますが)での「用語」は、ラテン語・ギリシア語・ドイツ語・英語・フランス語などからの翻訳が多いのですが、それらの本国でもおそらく「外国語」と同じような感じで捉えられているのではないでしょうか?ですから、外国語を学ぶときと同じような勉強法で臨んだ方が、理解が早いと思うのです。ちなみに物理では「速さ」は英語で「speed」ですが、速度は「velocity」といい区別しています。一般の人には何のちがいがあるのか、わからないかもしれませんね。「speed」は速さのみ(時速30kmとか秒速20mなどと言うときに使います)を表す用語です。「velocity」は速さとその向きを同時に表現するのに用います。何でわざわざむずかしそうな用語を用いるのかと聞かれると、その方がより正確な議論ができることがあるからです。いじわるでむずかしくしているわけではないのです。

「速さ=距離÷時間」などと公式のように暗記していても、さらに「加速度」などの概念が出てくると「加速度=速度の変化÷時間」などでチンプンカンプン?になってしまうでしょう。「単位時間あたりどれくらいの速度の変化があったといえますか?」というのが「加速度」の概念ですが、なぜそんなものを考えなければいけないのか?については、教科書などには触れていませんし、参考書などにも何も書かれてはいません。これは、「Newtonの運動法則」の基本に関係しますし、溯れば「ガリレオの落体の法則」に由来する物理の根幹にも関係するものです。なぜ「?=加速度の変化÷時間」は考えなくてもいいの?というのは、私が高校生の頃物理の先生に質問して嫌がられた問題です。物理に限らず学問というのは「あるルール(最初は創っていくのでしょうが…)」に従って考えを形作っていくものですから、一旦ある程度の形が出来てくると最初の頃の「素朴な疑問」は触れられずに話しがどんどん進んで行ってしまうことになります。

素朴な疑問を持ち続けよう!

それにしても、「この最初の素朴な疑問」を持ち続けることの出来る人はそう多くはいません(私もそうです)。基本的なところで止まってしまうと、いつまで経っても先には進めなくなってしまいますから、ある程度のところで「わかったもの」として先に進んでしまうことになるのが一般的です。この「素朴な疑問」を持ちつづけることは、その人の資質(粘り強いとか執念深い・しつこいなど)にもよると思います。私の周囲におられるいわゆる「理系の人」というのは、確かにこういう資質の人が多いように感じるのは私だけなのかもしれません。ただ、何でも「ブラック・ボックス」にしたまま、どんどん進んでいける人は器用かも知れませんが、自然科学の方面ではあまり有効な態度とは思えないのです。

確かに受験のような「決められた時間内に、決まった問題を解く→しかも、それで合否が決まる」となれば、一つの「方便」として「暗記」などに頼らざるを得ない面があることは実状でしょう。仕事柄、毎年「高校入試問題」や「大学入試問題」に目を通す機会があります。実際に解いてみると、最近ではよく練られた良い問題が増えていることが実感できます。しかし、限られた時間内で解くのには、やはりそれなりのトレーニングを積んでいないと無理なこともわかります。試験というものの宿命なのか、どんなに工夫を凝らしたとしても、限度があります。こういう制度のある中で、ある事柄に「素朴な疑問」を持ち続けているのは並大抵のことではないでしょう。しかし、いつの時代にも理想的な条件が整っている環境は望めませんから、それを乗り越えていく「気概」は必要だ、また、それを持たないのはやはり「能力」に欠けている見なされてもやむを得ないと私は考えています。

どんな勉強にも仕事にも「自己の死」というタイムリミットがあります。限られた時間と場所の中でどれだけのことができるのか?これが、いつも問われていると考えれば、「試験」もその過程の一つだとも思えるのです。「ライフワークはほとんど完成しない」と言われますが、「忙しいから…、時間ができたら…、定年後にゆっくり…」と表現はいくらでもありますが、現在の状況の中で自分にとって何ができるかが大切だと考えるのです。「素朴な疑問」もいつか解決できるように、自分の中で暖め、問い続けてそうしてようやく自分なりの解決を見つける(あるいはその半ばで断念する)のではないかと、私には思えるのです。たとえその解決を次の世代に譲るにしても、自分として最善を尽くすことは十分に報われるものではないでしょうか?(1998.1/14)

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