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天声人語はいつもこう
<山本義隆氏の著作に関して>


■ある大学生からの投書より

 2004年1月7日(水)の朝日新聞(朝刊)投書欄に次のような投書が出ていた。(ふだんは新聞は読まないが、偶然)
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 <「喜び」学ぶ師 山本義隆さん>
 大学生 阿部弘基(東京都新宿区 23歳)

 中学生の頃、自然科学にあこがれを抱いていた私は高校で物理を学ぶのを楽しみにしていた。だが、高校2年生になり、物理の授業が始まると失望した。

 進学校だったからだろうか、物理の教師が非常に厳しかったのだ。小テストで計算を間違えれば皆の前で怒鳴られた。ちょっとした公式を忘れれば、授業中ずっと立たされた。
 宿題を忘れた生徒の髪の毛が引っ張られたことさえあった。楽しみにしていた物理の授業で、いつも間違いないようにおびえていた。知識だけが詰め込まれていった。

 物理が嫌になっていた頃に、本屋で山本義隆先生の「物理入門」に出会った。高校生用の参考書である。数学が未熟な高校生にとっては至極難解であったが、何度も読むと、だんだんと物理の世界に引き込まれていった。
 特に電磁気学の章は感動した。物理の授業中に隠れて読むほど夢中になった。「物理入門」を読むことで、物理の基礎・魅力だけでなく、学ぶことの喜びを知ることができた。

 今もこの参考書だけは捨てられない。ぼろぼろになったこの本が私に学ぶ勇気を与えてくれるからだ。先生の大佛次郎賞受賞の報は、数学を専攻している私への励ましにも思えた。(以上、原文ママ)

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 これを受けての本日、2004年1月25日(日)の朝日新聞の天声人語である。

■《天声人語》朝日新聞2004年1月25日(日)朝刊より

 高校の物理学の授業に失望したという投書が先日、本紙に寄せられた。細かい計算や公式をひたすら暗記させるやり方に嫌気がさした。しかし、ある本に出合って学ぶことの喜びを知った、と。

 ある本とは予備校講師の山本義隆さんの『物理入門』だった。投書した大学生はぼろぼろになるほどに読み込んだそうだ。とくに電磁気学の章に感動したという。こんど大佛次郎賞に決まった山本さんの『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房)は『入門』の背景にある思想を発展、深化させた書なのだろう。

 文部科学省が全国の高校3年生を対象に実施した学力テストでは、理科と数学が苦手な生徒が際だって多かった。理科では、たとえば元素や重力という基本的な概念を理解していない生徒が目立つ。

 山本さんの受賞作を読むと、人間が重力というものにたどりつくまでに、いかに曲がりくねった道をたどったかがわかる。離れた物体に力を及ぼすことの探求は、学問ではなくどちらかといえば魔術の領域だった。古代の哲学者プラトンやアリストテレスはもちろん、近代の天才ガリレオさえも重力には思い至らなかった。

 現代の私たちは、先人たちが考え抜いた末の成果だけをつまみ食いすることが多い。高校で学ぶ公式や原理原則がその典型だ。それだけを頭に詰め込む作業は無味乾燥に陥りやすいだろう。

 「ゆとり」と「学力低下」との背反がよく語られる。たとえば、公式の背景にあった人間の苦闘を教える。そんなゆとりが教育現場にあれば、学力向上にもつながるのではないか。


■天声人語って一体なんだ?

 2003年12月18日(木)の朝日新聞(朝刊)に山本義隆氏の『磁力と重力の発見』みすず書房が第30回大佛次郎賞を受賞したことが報道されていた。たまたま、わたしはこの本が出版されてすぐに購入して(全3巻計\8600痛かった!)一通りは読んでいた。縦書き本は読むのが速い(笑)。それと、上の大学生の投書にある『物理入門』駿台文庫\1068も仕事柄何度も目を通しているので、この投書とそれにつづく天声人語(これは、1/24に出た文部科学省の高3年学力テストの結果を受けて書いたのだろう)の両方を読むことになり、かなり気になったので、高校現場で物理を教えている立場の者として率直な印象を書いておこうとおもった次第。

 まず、大学生の投書にある状況は、進学校なら大抵どこにでもあるケースで、わたしの高校時代にもすでにあったことだ。それと、こういうことは、生徒の受け取り方がさまざまで、ここに述べられた印象をもとに、授業を評価されるのはおそらく教えている教師も戸惑うことだろう(同じ職種だからといって弁護はしていない)。ちょっと厳しいかもしれないが、本当に力をつけさせるには、これくらいは当然である。学問はもっと厳しいのだから、これくらいで甘えているほうが、わたしには返っておかしいようにおもえる。わたし自身はこれほど厳しい授業をしようにもできないので、むしろこの教師に感心した。気合が入っていていい。どの生徒にも満足の行く授業をするのは理想ではあっても、現実にはありえない。

 この大学生の書いている文章を読むと、後半の山本氏の書かれた参考書を美化するために、前半の自分の学校での体験(しかも進学校といえば、自分で勉強するのはあたり前ではないか)をあまりに卑下しているように感じる。若い時期に物理の基礎を身体で覚えるくらいに習得しておくことは、その後の学問にもとても有用である。それを下地として、さらに高みに登っていけるのである。山本氏の『物理入門』は高校生にはかなり難しい参考書だろう。それを何度も読み通したというのは立派なことだ。内容的には大学教養課程(もうこういうのもなくなってしまったが…)の内容を、高校生にも出来る限りわかりやすく、ていねいに説明してあるが、おそらく大部分の生徒は、そこで使われている数学にげっそりするような気がする。数学がある程度できても、今度は物理の概念で困惑することも多いとおもう。その厳しい教師が決して「悪の権化」でないことは、同業者として保障しておきたい。おそらく、相性がよくなかったのではとおもう。それより、いい本と出合えたことをむしろ感謝した方がいいとおもう(こういう意味では、その教師は「反面教師」とでもいえる)。

 さて、この投書を受けて、天声人語氏はいつもながらの「もののわかったような駄文」を書いている。朝日新聞など好きでも嫌いでもなく、ただ洗剤を一杯持ってくる新聞配達屋さんに申し訳ないので、半年ずつ更新しながらカミさんが取っているものである。わたしは、基本的に新聞やTVなどはほとんど見ない。それでも、何も困ることはないから、別段読まなくたって死にはしない。ただ、ときおり、パラパラとはめくることがある。そのとき、目にしたのが上記の投稿と今朝の朝刊だった。天声人語は名文みたいことがもてはやされているみたいで、受験生の娘もマーカーを引きながら読んでいる。わたしは、関心はない。大体読んでも「名文」なのか「迷文」なのか、わたしには判定もできない。ただ、今朝の上に載ったものは、内容がわたしの仕事にも関わるので、一応コメントはできる。結果、駄文である。第2パラグラフを見てもらうと、『磁力と重力の発見』が『物理入門』の背景にある思想を発展・深化させたものであろうなどと予想で書いているのは、どちらの本も一通りでも目を通していないことをはっきりと教えてくれている。文系の人間に多い、予想でものを書いている証左である。これは、パラッと目を通すだけで、まったく違う目的で書いてあることはすぐにわかる。

 第3パラグラフ、こんなことは記事に書いてあるのだから、もっともらしく述べても意味はない。書いている本人に聞くが、「あなたは元素や重力などの基本的な概念をきちんと理解しているのか?」。山本氏がなぜ「磁力や重力」にこだわったのか、そう、「基本概念ほどむずかしいものはない」からなのだ。わかっているなら、だれも書かないし、調べる必要もない。日本の科学にとって「なぜ近代科学が西欧にだけ生まれたのか?」という問いは、あの湯川秀樹博士も深い思索をしているように、難問である。これに、取り組んだ研究結果がこの著書なのだ。ただ、物理の世界では常識であるが、山本氏は日本の物理学界では、どちらかというと異端視されており(全共闘時代の行動が尾を引いているのか)、専門の物理の世界ではほとんど問題にされていない。著書がどんなに有名な賞を受賞しようが、物理という学問の世界では、世界的に通用する論文を書けるかがほとんどすべてなのである。この選考にあたった5名の委員うち理系は養老猛司氏1人。しかも、彼は医学部でおそらくこの山本氏の著作を論評できるほど内容を吟味できるとは思えない。他のメンバーはその大部な著作(総ページ数947ページ)に圧倒されたようすが伺える。それも、あとがきのすぐ前にある第22章「エピローグ」などは、数式もきちんと使われているため、選考委員の能力の範囲をはるかに越えてしまってると想像できる。井上ひさし氏の愉快に読めたなどの論評は強がりと言われても返す言葉はないだろう。この本は、読み物風に書いてはあるが、物理や科学一般の基礎知識や科学史にかなりの程度通じていなければ、本当には読めない。日本語で書いてあるから読めるとは限らないのだ。科学史の専門家たちにぜひ論評をお願いしたいところである。

 最後になるが、天声人語氏の第5・6パラグラフについては、教育現場に対するいつもの言説で、「またはじまったか」とげっそり。物理だけでなく科学一般を生徒に教えるときに、それらの発見なり発明なりをした人物の人間模様を交えながら勉強すれば、本当の学力に結びつくだろうという憶測はウソである。教えてみればわかるが、ほとんどの日本の生徒にとって外国人の名前だけが出てくる歴史を聞いて何の面白みがあろう。むしろ、「日本人は出てこないよね」と言われてしまう。だからこそ、山本氏の疑問になる。「なぜ、近代科学(学校でやるのはこれ)は西欧でしか生まれなかったのか?」なのである。数学の公式や物理などの法則などは、天声人語氏がいうように頭に詰め込む作業ができるとおもっているのが文系の人たちの誤解なのである。こういうのは、何度も実際にそれを使って(鉛筆と紙をしっかりもって)ウンウンうなりながら問題を解くことではじめて自分のものになってゆくのであって、年代や名前や単語を覚えるようには頭に詰め込むなどできないことなど、理系の人ならだれでも知っていることだ。どんな勉強でも学問でも、まだ初心者のうちは、無味乾燥に見えることを何度も繰り返すことが多いのは当然である。それを、乗り越えたところに、はじめて「学」の「問=門」が立っているのではないか。

 ちょっと新聞に載った記事をひねって、いかにも教養人らしいポーズをとって、自分ではできもしないことを訳知り顔に書いている、それが「天声人語」(全部が全部とはいわないが)なのだ。他社のものも似たり寄ったりである。新聞など関心もないからどうでもよかったのだが、つい、ムキになってしまったのは、まことにはずかしい。

 2004/01/25 (日) 15:07:39

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