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科学雑話2004


■事始め

 よりによって、もう2004年もひと月ちょっとで終わりだというこの時期に、突然このような雑話を載せてみようという気になってしまった。こればかりは、時期を選ばないというか、単なる気まぐれなのだが、その気になってしまったのだから仕方がない。自分の仕事の一部でもある科学&科学教育などについて折にふれて、いろいろかんがえることがある。新たに知っておどろくことも多い。自分の日記としては書いてあるものもあるが、こういう話は個人的に保存しておいても余り意味がないので、そのまま公開してみようとおもった次第。

 ほとんど資料やデータを基に詳細に調べて書くというものではないので、記憶違いや思い違い、あるいは完全なデタラメもあるかもしれない。しかし、書いているときはできる限り正確に書くつもりでいる。独断もあるだろうが、指摘してもらえば、訂正することに何の抵抗もない。どの人にもすぐわかるという話題ではないかもしれないので、読者はあえてこの方面に関心のある方に限ることにした。間違って、このコーナーに入ってしまった人もいるかもしれないが、迷惑でなければ、ときどき覗いてみてほしい。おもしろいとおもう人は少ないとおもうので、あえて、こういう気のつかないところにこのコーナーをつくってみることにした。では…。
 2004/11/13 (土) 10:05


■2004/12/27(月) 07:40 インドネシア沖でも大地震が…

 昨日の午前中にインドネシア沖でマグニチュード8.9という大きな地震が発生、それに伴う津波がインド洋の沿岸部を襲い、各地で大変な死傷者が出ている。今朝の朝刊では7000人ほどに書いてあったが、ラジオのニュースではさらに被害は拡大して、1万人は軽く超えるほどと報道している。日本国内でもまだ新潟県の中越地方の地震の被害で多くの方々が亡くなり、復興も十分に進んでいない。何かと自然災害の多かった今年もこれで終わりかなとおもっていたら、このニュースである。何とも痛ましいかぎりである。大地は躍動しており、人間の知識がまだおよぶところではない。まして、地震の予知などは、日本やアメリカで少し騒いでいるくらいで、世界的にはまったく手がついていないといっても過言ではない。プレートの動きなど、大雑把なことはいえるかもしれないが、地球表面の70%以上を占める大洋底の動きなど、何のデータもないに等しい。地震の多いわが国でさえ、大きな地震が起こるたびに、跡づけの理屈をこねまわしているのが現状である。「じつはあそこには活断層が走っていて、以前から心配されていた云々」という話は、よく聞くだろう。その程度なのである。地震がおこってからの情報の伝達も、これほどIT革命などと騒がれている割には、さっぱりである。そう、都会的な発想でものごとをかんがえていると、こうなる。

 いまほどネットで確認したところでは、「スマトラ沖地震」と命名されたようで、死者は1万2千人以上にのぼると推定されている。津波の速度が非常に速くて、海が変だなとおもったときには、あっという間に波にのまれてしまったというのが実情らしい。あの辺りでは、何年か前にも津波の被害があったそうだが、堤防をつくるにもほとんど手つかずのようで、今回また大変な被害になってしまった。ちょうど、年末の旅行シーズンで日本人旅行客の多い、タイのプーケットも大きな被害になっており、日本人客の中には被災した人もいるという。せっかくの旅行が大きな災害になってしまったのは痛ましいが、こればかりは人知のおよぶところではない。プーケットはわたし自身は行ったことはないが、FS2004というFlightSimulatorでは毎晩のように、このプーケットの沖合いに停泊しているNimitzという空母上で発艦・着艦などの訓練をしているので、すぐに地形などは頭に浮かんだ。インドやスマトラなども被災しているというし、どこまで被害が広がっているのかはまだ推測でしかない。年末にこういう大きな災害がおこるとは予想もしなかったが、これが自然なのだ。人間の作った暦など関係なく、自然の流れで地球自身も活動している。人間は、その地球の上で、いかにも何でもコントロールできるような妄想をもって生活するようになってしまった(これも人類全体から見ると、わずかな先進国といわれるところだけだが)。こういう災害があって、痛い目を見ても、まだ気づかない。自然のコントロールなど、人知のおよぶところではないことを。

 わたしの在住している関東地方もいずれ大きな地震に見舞われる。それがいつかはわからない。多分、予知などできない。ただ、来ることだけはたしかだ。自然がそれを教えてくれるわけではないから、わたしたちにできることは、事後措置をいかに迅速におこない、被害が広がることを防ぐかをかんがえるだけだ。「危機管理」などのことばが独り歩きをしているが、「危機」など「管理」できるわけがない。ことばの矛盾である。「管理」できないから「危機」なのだ。こういう大きな自然災害があるたびに、そういうことをおもう。物理学者の寺田寅彦もけっして地震が予知などできるはずもないとおもっていたはずだ。できることは、少しでも被害を少なくするようにあらかじめ対策をかんがえておく、ということ。それを、彼は何度も警告していたとわたしはおもう。

■2004/12/15(水) 07:48 生徒から学ぶ

 つい先週におこなわれた2学期・期末テストの返却がきょうまでおこなわれる。昨日は、2年生の物理Tテストを返した。わたしは、返却時に採点につかっている自分用の解答をそのまま印刷していっしょにくばっている。その解答とくらべて、配点ミスや内容の疑問点などがあれば、話しを聞いて、妥当であれば点数を訂正する。生徒であっても、わたしの解答よりも明解でわかりやすい解き方をしているものは、できるかぎり(わたしに理解ができれば、であるが)、正解とするようにしている。

 昨日返したあと、ある生徒から、答えだけでなくやり方もあっているのでは?と質問を受けた。採点しているときも気づいてはいたのだが、途中の計算の仕方がどうしても腑に落ちないので、答えだけを正解にして、あとは減点しておいた。本人もその解法がどうしてでてくるのかは説明できないようなのだが、不思議と答えが正しくでてくる。どうにもそれが気になったので、授業がおわってから、その問題(重心の位置を求める問題)を一般化して、あれこれこれしらべてみた。そうしたら、彼がやっていた解法がどういう意味なのか、がある解き方をしたときわかった。しかし、彼が頭の中でその解法に気づいているとは到底かんがえられないほどの手順を必要としていた。おそらく、彼は「いつもそうして解いている」と話していたから、どこかの塾か何かで「天下り式」に教えてもらった方法を無意識につかったものだろう。しかし、彼の示した式そのものはたしかに一般性を失わないので、それをもって(自分で解法の説明はできないのだが)正解として、点数を訂正した。その方法は、ふつうの参考書や問題集の解答では、まず見ることのないものなので、面白いと感じた。そこで、もう少し一般化できないものかとやってみたら、その問題の類題も同じようにして簡単に解けることがわかり、教えているわたし自身にも大きな収穫となった。

 人に教えることは自分が学ぶことだ、などと抽象的にいわれることがある。しかし、それは具体的な問題を解く中で、教える側も必死になっていないと、そうあることではない。今回も、気がつかなければそのまま見過ごしてしまうところだった。彼がそのことを質問してくれたことと、それをいろいろ数値に変えてもその解法で問題が解けることを試したわたし、と共に波長があったせいで、おもわぬ解法を見つけることができた。こういうことは、めったにはない。

■2004/12/06(月) 11:37 君は高木貞治『解析概論』を読んだか?

 数学者の藤原正彦氏が2004年7月19日(月)の読売新聞朝刊「学びの時評」に、世界的な数学者である高木貞治氏の故郷を訪ねたときのことを書いている。藤原氏はご存知のように有名な小説家である新田次郎氏のご次男であり、現在、お茶の水女子大学で数学を研究・教育されている。高木貞治氏は理工系の方ならだれでも知っている(はず)、名著『解析概論』岩波書店の著者である。研究の分野では「類体論」を創造された大数学者である。といっても、わたしは「類体論」については名称しか知らない。お世話になったのは、『解析概論』である。この本は昭和13年(1938年)に初版が出たので、もう古典的著作である。しかし、内容はじつに現代的で、現在でもこれを超えるような本にわたしは出会ったことはない。この本については著者自身が「第一版 緒言」で述べている通り、解析函数論の基礎概念を修得することを目的にして書かれたものである。すなわち、微分積分法の基礎概念からはじまって、初等解析函数論を網羅するものとして書いてある。文章は明解であり、講義式と著者はいっているが、まったく無駄や冗長なところもなく、まさに5000ccの車で60km/hしかスピードを出さないような悠然とした様である。まさに余裕のパワーである。

 最近、本屋さんで見かける種々の数学本を見ると、やけに読者サービスに傾きすぎえているような感さえ受ける。胆にズシンと落ちるような本は残念ながら少ない。中身もレベルダウンは必至である。大学生の読む本のレベルも悲しいかな、ものすごく幼稚化している。こういう環境の中にあって、何もしなくても光輝を放っているのが本書である。こういう本を学生時代の最初にぜひ読んで(もちろん鉛筆と紙を傍に置いて)もらいたい。その効能は抜群である。これを修得してから、他の数学分野や応用数学・物理数学などに進まれれば、申し分ない数学的素養ができるだろう。わたしは数学の本の価値を見極めるほどの学識はないが、この本だけはまちがいない、と確信している。君はもうこの本を読んだであろうか?

■2004/11/19(金) 07:49 最先端の実験は理科を救うか?

 わたしがいつも職場で常駐している「物理準備室(通称:物理室)」には、勤務校開設(31年目)以来、使われてきた物理実験用の器具が雑然と収納されている。もう、さびついて使えないものや、一体何に使うのかわからないもの、などなどいろいろある。3年前にここへ転勤してきたときに、3年かけて全部整理しようとおもったが、遅々として進んでいない。毎日、この部屋で授業の準備をして、隣にある物理実験室での授業、補講などをしているが、ゆっくり片付ける時間はなかなか取れないでいる。壊れてしまっている器具も多いので、実験をけっこう演示で見せることの多いわたしは、仕方なく空き時間を利用して、自作の実験器具を作っている。たいしたものはできないが、話だけで終わるのは物理ではあまり面白くないので、できる限りは現物を見せて実験してみせるのが、大切とかんがえている。おそらく、予備校や塾とちがう特色を出すとしたら、この実験をいろいろ見せたり、やらせたりする部分にしかないようにおもえる。こればかりは、受験対策に忙しいその手の教育機関でもできないだろう。

 話はかなりずれるが、最近、大学などで高校生を対象に大学の授業を受けさせたり、先端の実験を見せたりすることで、高校生(だけではない)の「理科離れ」を食い止めようという試みがなされている。しかし、高校生を毎日教えていての素直な印象では、そんな最先端の実験などに興味をもっている生徒などほとんどいないし、見たって何の意味かわからない生徒がほとんどだろう、とおもう。大学の先生や研究者たちの気持ちもわからないではないが、現在国内に5779校ある高校のうち、ほとんどの高校に在学する生徒たちに、そのような試みが意味をもつとはかんがえられない。それよりも、もっとじっくりと授業や実験などができる時間数を何とか確保することと、自由選択制をやめて(嫌いな生徒でもきちんと教えればわかるしできる)、理科(自然科学)を本気で教えようという姿勢が国・地方を問わず雰囲気として出てくれば、おのずと「理科離れ」の多少は止まるものとかんがえる。政治家や教育関係者にも中にも理科系出身者は少ない。国全体が「文科国家」であるわが国で、自然科学をもう少し「地に足のついたもの」にするためには、そういう地道な努力のほうが、長い目で見ると、効果的だとおもうのだが。これは、わたしだけの妄想だろうか。

■2004/11/12(金) 15:55 計算能力の猛烈な欠如

 授業も終わり、1週間が終わった。金曜日の放課後は会議がなければ、その週の反省をしている。今週も気になったことがある。授業で(物理T、物理TB、物理Uなど)で、例題をやってみると、次のようなことが頻繁に出てくる。
「……
 以上の@、A、Bの式を解くと、
 T=○○ F=○○
 よって、答えは以下…」
というように例題などの解答には書いてある。生徒に「式を解くと」とある部分は自分でできるね、というと、ぜひ黒板で計算をやってほしいという。数学でいう「連立1次方程式」の類だが、生徒はかなり真剣にやってほしいようす。教科書、参考書、問題集いずれもそういう細かい計算の部分は、まず省略してあり、自分で解けるのを前提に書いてある。わたしは、じつは多くの生徒が数学や物理などの解答を読んでもそれを理解できないのは、この部分の計算が実際には解けないからだと睨んでいた。試しに簡単な例題のこの部分(「…の式を解くと」)を生徒一人一人に課題のようにしてやらせてみたら、何とかできた生徒は、勤務校でも勉強のできる部類に入っている物理選択者(2年48名、3年18名)のうち、2割もいなかった。これでは、どんなに参考書の解答部分をていねいに書いても、問題集の解答編を分厚くしても、その解答を読み取る力がないのだから、無駄である。

 生徒に媚びいるように、最近の参考書・問題集の解答はわたしの高校時代などには想像もできないほど懇切丁寧に書いてある。しかし、目で読んでわかるほど、数学や物理などの解答は簡単ではない。上記のようにどうしても自分で鉛筆を持ち、紙に計算して確かめなければならない部分が絶対に残る。もし、この部分も一行一行全部計算の過程を書いていたら、ものすごい厚さのものになってしまい、事実上不可能である。物理では「式を解くと…」以降は、数学(算術)の範囲の問題として、以前なら生徒の自学自習に任せられていた。現在では、すべての計算過程をやって見せても、それでも、それを自分で繰り返して、せめてできるようにするという生徒すら減っている。テストをしてみれば、それはすぐにわかる。

 めちゃくちゃな指導要領によるデタラメな教科書・カリキュラム。こんな生徒にだれがしたといっても、だれも答えようとしない。教員が悪いとはすぐに聞く。だが、わずかばかりの授業時間の中で、生徒を鍛えるにはあまりに時間が少なすぎる。それに何といっても生徒の学力のレベルダウンは顕著だ。ずっと以前なら普通高校などに進学することすらできないレベルの生徒が、今はトコロテン式に進学してくる。これらの生徒に罪はない。この責任はだれが取るべきなのか。

 わたしは、この生徒たちがたとえ大学や大学院を出て来ましたといっても、彼らにとても高度な技術や設計などを任せる気にはならない。

■2004/11/10(水) 08:00 科学雑話のはじめ

 科学に関する「雑話」というと、種々の知識をトピック的に集めてまとめたものが多い。でも、そういう話はここではしない。そういう本はたくさん出ているし、それを読んでもらえば用は足りる。わたしは、仕事で理科教員(物理)をしているため、毎日物理の授業をしてはいるが、それほど物理の知識があったり、教え方がうまいとかいうわけではない。冷静に見れば、物理という学問の末席を汚しているといった方が適切な気がする。ここでの話も単なる「雑感」に近い。

 物理学科を出て、物理を一通りは学んで来たという経歴はあっても、自分にどれだけの実力があるのかは、じつは心もとない。物理的なことは小さい頃から好きだったことはまちがいないが、まさか、この学問の入門としての「物理」を他人に教える仕事につくとは、正直なところかんがえたことはなかった。高校の頃、ちょうど視力の問題で、悲願であった飛行機のパイロットの道を諦めざるを得なくなった。それと入れ替えに、頭に浮かんで来たのは、「物理を学ぶ」という道だった。それまでも、科学に関する本などばかり読んでいたので、自然にそういう道を選ぶようになったのかもしれない。

 高校2年からはじまった物理の授業は、自分にはとても興味があった。教えてくれた先生は鈴木先生という方だが、何でも東京教育大学(現筑波大学の前身)の物理学科を主席(酒席ではない!)で卒業されてきたとかいう話を聞いたことがある。その先生は、授業中ほとんど笑うことなく淡々と授業をしていた。わたしはわからないことはけっこうしぶとく自分ひとりでかんがえるタイプであるが、どうしても行き詰ってしまったときだけは、先生に聞きにいった。そんなこともあり、物理室(物理の先生だけがいる部屋…そこで生活できるほどだった)に何度もお邪魔した。そのとき、ていねいに教えてくれ、種々の相談にも乗って頂いた。しかも、ときども参考になりそうな本なども貸してもらったりもした。そのためか、「こういう部屋で勉強できるのもいいな」とかはふとおもったりもしたこともあった。だが、それ以上の意識にはならなかった。わたしには、この鈴木先生はとてもいい先生だったように記憶されている。後年、このときの同級生で今は某予備校の有名数学講師をしている友人と会った際、この話をしたら、その友人は「教え方の下手な先生だったね」といっていた。「ヘェー、そんなふうに感じていたんだ」と、人の印象はさまざまであることをここでも感じさせられた。万人に好かれる教師なんていない、のだろう。

 進路も次第に狭まり、気がつくとわたしは物理を学ぶ道に進もうとしていた。とくに、将来のことなど全くかんがえることもなく…。人の歩む道がどのように決まるのかは、わたしにはよくわからない。

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