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2002年夏山山行記
中央アルプス(木曽駒ケ岳〜宝剣岳〜空木岳)
<「大うつ」に負けてしまった山行>

大竹 一弥


■登る前に意欲がなかった!

 きょう(8/6)も昨夜の暑さで寝不足が続いている。この夏は関東地方では猛暑となり、夏季休業に入った先月の19日以来、ものすごい暑さが続いている。当然のように熱帯夜がつづき、寝不足の日々は増えている。私も毎晩熟睡できずに困っている。ほんの少しなら耐えられるが、毎晩となると日常生活にも支障がでてくる。寝不足はだれにとってもつらいものだが、私の場合とくにその影響は大きい。

 じつは、私にとって今年は50歳という大きな節目を迎える年であり、さらに10年ごとにやってくる「大うつ(おおうつ)」の年でもあるのだ。「大うつ」というのは私が勝手に命名しているものだが、私には10年ごとに本当に決まったように「うつ状態」の大きなうねりが訪れるという遺伝的な気質があるのだ。その間には「小うつ(こうつ)」と呼んでいる小さな「うつ状態」もやってくるが、こちらはそれほど意識するほどのことはない。この年には大きな変化は禁物なのだが、20歳・30歳・40歳と苦しいことも多かったが、無事乗り切ってきた。とくに、30歳で迎えた「大うつ」時には、電車に飛び込まんばかりの精神的落ち込みを経験したが、時間がその大波をほどなく鎮めさせてくれた。この周期的な「うつ状態」は、おそらく母親からの遺伝であると思うのだが、これもって母親を責める気などもうとうない。この気質が反面で私の「やる気」の源泉でもあるからだ。残り少なくなった「大うつ」も、来るとわかっていれば、それなりにやり過ごす知恵も少しはついてくるものである。今年はこの心構えで過ごそうと考えていた。

 ただ、恒例の山岳会の夏山では、苦労するだろうなという予感はあった。というのも、この時期には、「やる気」と「根気」と「意欲」がかなり減退するため、いつもだとすぐに行動できることもなかなか思うようにできなくなってしまう。このため、元気なときだと、早朝に起きてすぐにウォーキングに出たり、筋力トレーニングなどに取り組めていたのが、頭がボーとした状態になり、ボケーと時間を過ごしてしまうことが多くなってしまうのだ。この状態は、4月に転勤をしたことで、通勤時間が長くなって、朝の環境が今までと変わってから、次第にひどくなっていた。熟睡感がないまま、毎日ボーとした状態で仕事に追われる日々が多くなっていった。昨年までなら、夏山が近づくと、トレーニングにも力が入り、早朝にも汗を流していたのだが、今年はそういうわけで、全くやる気が起こらず、山の準備も2日前にようやく始めるというような状態になってしまっていた。これでは、登る前にして結果は見えている。カミさんにも「いつもと違うよ。何か不安だなー。」と言われる始末で、そういうことは言われるまでもなくわかっているのだが、精神的な「大うつ」の前には、自分でもどうしようもないというのが本音であった。

 そんな状態で、いよいよ夏山出発の時期が迫ってきた。いつもと違うのは、こちらから「いくぞ!」と気持ちが盛り上がるのではなく、返って「もう出かけるのか…」という消極的な姿勢である。無理に気持ちを奮い起こしても無駄である。この時期にはどんなことをしても気持ちは盛り上がらないのだ。静かにいつも通りのことを淡々とやっているのが一番負担がないのだから。

■出発前夜

 出発前の夕刻、山路さんが手作りの野菜をもって我が家にやって来た。指原さんからはすでに電話が入って、少し遅れて行くので「前夜祭」はちょっと待っていてくれという。早くビールを飲みたいという願望は抑えようもなく、山路さんが座るやいなや、冷蔵庫から缶ビールを出して、早速練習をはじめてしまった。山路さんと指原さんは明日の出発が早いため(5:00車で出発)、今夜は我が家に泊まってもらうことにしていたのだ。

 指原さんが到着して、すぐに近くの「ホルモン焼き」に出かけた。我が家に泊まってもらうときは、いつも出かける定番の店である。座間キャンプで花火を上げているのか、店の裏に大きな大輪を咲かせていた。空いている席があったので、そこでいろいろな肉や野菜を焼きながら、ビール談義にふけった。私の脳裏には、「今夜もほとんど眠れないだろうな」という不安が過ぎっていた。このところ、ほとんど寝ているという実感のない日が続いていたからだ。本当はそんなことはないことなど、知ってはいる。しかし、熟睡感がないというのは、本人にしかわからない。まぶたは重いのに、眠れないのもつらいものである。かなり飲んで食べたあと、店を出て、帰宅することにした。途中で、回転寿司が開いていたので、そこですこしつまんで日本酒も飲んだ。

 帰宅後、山路さんと指原さんには早目に寝てもらい、ぼくは風呂に入って気持ちを静めようとしたが、無駄だった。床に入っても、寝付かれず、目は冴えるのみであった。明日は、早朝3:00起きということだったので、少しは寝ておかねば車の運転にひびく。しかし、こういうときは気持ちが高揚して返って眠れないものなのだ。こうして、ほとんど寝ることなく起床を迎えることになった。

■出発

 予定通り7/28(日)の3:00に起きた。いつも早起きなので、別段この時間に起きることには抵抗はない。ただ、まぶたが重くて、頭がボーとしているのは、その日に限らず、最近の状態なのだ。その先週は毎日職場に車で出勤していたが、朝から眠くて車で事故を起こさないか心配なほどであった。学校説明会の2日目には予定していた「情報」の体験授業ができそうにもないほど体調が悪く、M先生に代わりにやってもらう始末。きょうの運転も心配だが、道を知っているのは私だけなので、気合を入れてやってみることにした。

 5:00ちょっと前に甲地さんも車で乗りつけ、私のワゴン車と入れ替えで、駐車場に納まった。荷物も積み終えて、5:00いよいよ出発。相模湖ICを目指し、車は動き始める。この道は慣れた道でもあり、それほどの心配はいらない。およそ1時間ほどで中央高速道に乗れるはずである。中央高速道も慣れた道で、コースはほとんど頭に入っているので、それほどの緊張感も感じずに運転ができた。

 途中、談合坂SAと諏訪湖SAに寄ったが、食欲はなく、とくに何も食べる気にはならなかった。水分はほしくなるのだが、食欲がないため何かを食べたいというわけではなかった。車はほぼ予定時刻通りに進行しており、このペースで行けば、午前中には山小屋に入ってのんびりできるのでは…(実際はこれが完全な読み違いであったのだが)などと、安易に考えていた。最後の駒ヶ根ICを降りて、一般車両が入れる限度である駒ケ池にある菅の台の駐車場に着いたのが8:30であった。かなり早い方だと思っていたが、もう周辺は車が次々に入ってくる有様で、すでに人が多く出ていることを知らされた。

■いよいよ山へ

 この駐車場で、山の服装に着替えていざ出発。タクシーがあればと思っていたら、駐車場を出たところに1台が待機していた。値段も手ごろなので、すぐにお願いして乗車した。ロープウェイのあるしらび平までは、バスかタクシー以外は乗り入れ禁止なのである。このときはまだ、しらび平に着いたらすぐにロープウェイに乗り込めるものと思い込んでいた。日曜日とはいえ、まだ朝も早かったからだ。1時間ほどかけてしらび平に着いてみるとそこには、大勢の人たちであふれかえっていた。「まずいなー」と思ったが、考えてみれば、このロープウェイは観光客のためにあるもので、登山客のためにあるわけではないのである。タクシーを降りるとすぐに山路さんたちがロープウェイの整理券をもらって来てくれた。話では2時間ほどあとの11:25の乗車とのこと。仕方なく荷物を置ける場所に移動してそこで、順番を待つことにした。この2時間で私のペースは完全に狂わされてしまった。涼しいうちに稜線にという予定が狂ってしまったのだ。相変わらず、眠さがあり、食欲はなかったので、小さなレーズンパンを2個ほど口に入れて何とか飲み込んだ。水の量が気になっていたので、ここで自販機から500mlのペットボトルを3本ほど補充しておいた。

 待ち時間は思った以上に長く、かなりイライラしてしまった。これが、現在の自分の精神状態から来ていることは自覚していたが、このあとの実際の登山の中で影響してくるとはこのときはほとんど意識していなかった。ようやく、乗車の時間が近づき、予定時間より30分近く遅れてロープウェイが動き出したときは、嬉しさよりも、「やっと順番が来たか!」という気持ちが強かった。1000m近くの高度差を7分ほどで登るロープウェイの速さは相当なものであった。千畳敷の駅に登りつめると、そこは標高2600mの世界である。人はごった返していたが、ここからはようやく通常の山にもどれる。駅を出て、いよいよ登りの準備をするため、場所を確保。ザックや登山靴のひもを締めなおした。このとき、どうもいつもの「登りはじめの気合」がさっぱり入らないのに気がついた。登高意欲といわれる登山者独特の気の高まりで、これは体調のいかんを問わず、登る前にはそういう気持ちになるものだが、これが全く起こらないのだ。「これは、かなり重症だな」と思った。

 準備がすんで私が先頭になり、歩き始めてみて、ますます気持ちは落ち込んで来た。汗はどんどん流れてくるが、それに伴って足取りは次第によくなってくるのがいつもなのだが、今回はまったくそれがなく、やけに足が重いまま呼吸も荒く高度を上げて行った。太ももに力がはいらないのと、腹筋がどうも働いていないようで、情けない登りになってきた。ほとんど1本で登れるような高度差に何度も休みを入れている自分の体調の悪さが尋常でないことにようやく自分でも気づいてきたのだ。ザックの重さもあるだろうが、どうもそういうのとは、何かが違うようだ。何とか稜線に上がったときには、本当にバテてしまっていた。小屋に入り、みんなが木曽駒ケ岳へのピストンに出かけるときにも、とても動ける状態ではなく、やむなく部屋で休ませてもらうことにした。眠さと疲れがあるにもかかわらず、眠ることもできないのである。布団の上に横になり、「これじゃ明日から大丈夫かなー」と不安も過ぎってきた。その夜の食事も全く食欲がなく、ほとんど残してしまった。床についても寝ることもできず、苦しい夜になってしまった。

■縦走開始そして断念

 翌7/29から縦走に入った。最初は小屋を出てすぐに宝剣岳の岩峰を越えるのだ。周囲はガスがかかっていて見えないが、幸い雨は降っていなかったので、岩場は慎重に登れば大丈夫だろう。岩場は嫌いではないから、ペースを守りながらどんどん高度を上げて行った。体調は良くはないが、岩場でそんなことを言ってもいられないから、ほとんど気合だけで登ったように思う。身体は付かれきっており、スピードは出ない。が、こういう岩場はそれほど急いでは昇り降りできないから、それなりにやり過ごせたようだ。ようやくのこと、極楽平という暗部まで降りてきたときには、便意をもよおし、ちょっと失礼してしまった。

 ここからの稜線はアップダウンを繰り返しながら、ときどき現れるピークを越してゆくことになる。この辺で、太ももに異変が出てきた。下りのときにひざから上が痛くなり、体重がかけられない状態になってきたのだ。今まで登りはともかく下りは私のもっとも得意とするところで、ここで時間を一気に稼いできたのだが、今回はそれが自分の身体ながら自分ではどうすることもできないようになってしまったのだ。これは、私にとって、山に登るようになってはじめての経験だった。これから未知の体験がつづくのだが、これがその初めの兆候であった。

 コースタイムからどんどん遅れてゆき、これでは今夜の宿である「木曽殿山荘」までも行けるかどうか不安になってきた。下りは完全に足がもつれて歩けない状態になっているにもかかわらず、まだあ気持ちの中には「時間はかかっても、何としても次の山小屋までは着きたい」という思いが強かった。檜尾尾根の頭に着いたときには、予定時間の2倍以上も時間がかかってしまっていた。「これはかなりまずいな…」とは思ったが、当初、近くにある避難小屋のことは全く意識になかった。そのまま、その頭を通過して、何個かの上下をしているうちに足は完全にいかれてしまった。もう、これ以上前に進むことはできそうになかった。かと言って、もどるにしても戻れるだけの足の余力があるのかは自分でもわからない。ただ、不思議なことにそれほど追い詰められたという意識はなくて、少しずつでも足を動かしていれば、最後は何とかなると比較的楽観的に考えていた。山路さんから「大竹さん、これは避難小屋までもどりましょう。」と言われて、ようやく自分自身にも「やるだけはやったんだ」という納得ができて、その助言に素直に従うことにした。

 といっても、もどるのにもまたアップダウンがある。もう、足は限界に達していたが、
ほとんど無意識のようにゆっくりとした足取りでしか動けなかった。私の足の不具合でみんなに計画変更をしてもらうことの心苦しさは何とも言えなかった。ただ「申し訳ないです」と素直に謝るしかなかった。避難小屋までのわずかな距離が、そのときの足取りにはじつに長く感じた。避難小屋ではたして水が確保できるが気になったが、もうそんなことを言っている場合ではなかった。とにかく、少しでも早くそこに着けることを念じて亀足のようになってしまった自分の足を少しずつ前に進めた。

 避難小屋には、すでに2つのパーティーが休んでいたが、そこにわれわれも混ぜてもらった。幸い、水場は涸れていなくて、良質の冷たい水があるとのこと。私は休ませてもらい3名の仲間が、空いたペットボトルをすべて持って、水場に向かってくれた。私は、座るに苦しく、立っているのにも不安定な不思議な状態にあり、しかたなくあぐらをかいて仲間の帰りを待った。しばらくして、豊富なほどの水を抱えて、みんなが戻ってきた。昨日もあまり飲む気力はなかったが、この日もそれほど飲む意欲はなかった。しかし、年老いた夫婦の登山話や明日は下山だけだという安堵感からか、少し日本酒を飲んだ。身体中の痛さからか、酔うほどではなかったが、心地よい酒になった。時折、「明日の下山では足は大丈夫かな…」と不安もあったが、こればかりは考えても仕方ない。とにかく、何としても安全に下山するのだ、たとえ時間がかかったとしても…、と自分に言い聞かせた。

■下山

 翌7/30は朝の冷え込みもあり、3:00には起きてしまった。シュラフなどの用意のない今回の山行では、厳しい高山の冷え込みで歯の根もあわず、震えて一夜を過ごすしかなかった。これで、ほとんど眠っていない日が何日も続いていることになる。寝返りは打てたものの足腰の痛みは少しも癒えていない。立ち上がるときにも、太もも・腰に力がはいらず難儀した。

 4:40に開始した檜尾尾根の下山は、想像を絶するものになった。両太ももと腰に力の入らない私に、前を向いてのふつうの下山姿勢はもはや無理であった。頑張ってみても、数歩進んで、転倒というありさまなのだ。それでも少しは進むのだが、これではバスのある内に登山口まで下山することは不可能である。今までの山行では、下山はそれこそ、走るようにして下りていたのが、きょうはまるで亀である。やむなく、後ろ向きに下りてみたりするが、これも後ろが見えないので、気疲れしてしまう。それでも、コースタイムの2倍もの時間をかけて、赤沢の頭につけたときには、ホッとした。でもこれからがまた時間がかかるのだ。

 そんなとき、我が山岳会の長老:甲地さんが一つのアイディアを出してくれた。私がもっていた杖を使い、彼が一方を支え、それにぶら下がるように私が後ろ向きにその杖をもったまま下りてゆく方法だ。やってみるとこれが、なかなかいい。甲地さんが方向を指示してくれるのだが、それに従ってゆくと、思った以上に距離が稼げた。これは、レスリングで鍛えた甲地さんの強靭な肉体があっての方法であったが、彼はさらに次なる方法として私のズボンのベルトを腕で支え、私はふつうの下山姿勢で下りて行くというものであった。これは、甲地さんにとっては、腕にものすごい負担がかかるので大変であるが、私にとっては、願ってもない方法であった。太ももと腰にかかる負担がぐんと減るので、歩ける距離もぐんと伸びてきた。甲地さんの腕・腰の力の甘えるようにして、ようやく登山口の前を通っている道路が見えたときには、みんなに感謝した。そして、最後の登山口の階段を下り終えたときには、全身の力がスーと抜けてしまった。仲間が何も文句を言わずに荷物を分担してくれ、ハードな力技で私を文字通り支えてくれた甲地さんも何も言わなかった。口にしなくても気持ちはわかっていた。計画通り縦走できなかった悔しさは当然あるが誰も口にはださなかった。私の調子さえ良ければ…と私自身が強烈な後悔の念にとらわれるが、こうなってしまったことにどうこう言ってみてもはじまらない。今は、安全に下山できたことにむしろ感謝すべきなのだろう。

■山路さんの提言に感謝

 山路さんから山行記が届いた。いつものように、克明に記録がとってある。この記録の最後に私への「18の提言」が載っている。来年の夏山までに私が改善すべき内容が列記してある。1つ1つ身に滲みる。これらの提言をどれだけ実行できるかはひとえに私の意識にかかっている。すでに始めているものもある。車通勤をやめることは、現在検討している。別に山に登るだけのためではないが、これをいい機会に自分の身体をいつでも山に行けるような状態に保っておくことは、健康上もいいことだ。

 今年は、確かに「大うつ」の年でもあり、自分にとっては苦しい年かもしれないが、これを口実に何でも逃げてばかりいるつもりはない。これから、まだまだ山に登り続けるためには、この時期から肉体的・精神的にも備えをしておくことは大切なことである。とりあえずはできるところから取り組んでゆくつもりだが、ほとんど習慣化しないと長続きはしないから、気長に無理せずを心がけたい。

 今回の山行は、計画通りには行かなかった。しかし、今まで体験することなく過ごしてきた貴重な経験もすることができたと素直に思っている。あの厳しい状況の中で、最後まで歩き通せたのは、もちろん甲地さんはじめ仲間の助けがあってはじめてできたことだ。そして、少しだけ、私があきらめずに最後まで頑張り通したことも。私は安全に最後まで下山できると信じていた。これは、確かである。そして、その通りになった。そう信じていなければ違った結果になったかもしれない。われわれには、今流行の「生きる力」があったのかどうか、私にはわからない。ただ、あんなお題目を唱えている連中に「生きる力」などというものはないことははっきりわかる。行動しないものには失敗はないのだから。

 山の仲間に感謝しています。今後ともよろしく。

 2002/08/11(日) 09:18

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