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2004年夏山山行記
北アルプス:針ノ木岳〜鹿島槍ヶ岳縦走
<今年も無事縦走できた!>

大竹 一弥


■山行に向けて

 2004年の夏山をどこにするか、は確か記憶では今年の正月には決まっていたようにおもう。誰がいい出したかはわかる。わたしだ。どういう山の巡りあわせか、まだ「針ノ木岳」に登ったことがなかったことと、「針ノ木雪渓」が気になっていたことが、この山行案の発端になったように記憶している。気持ちでは、北海道か九州辺りに遠出をしたいともおもったが、経済的にきびしい情勢にあるため、今年は見送った。

 わが山岳会では、どの山に登るかは、基本的には山路さんかわたしの考えで決まる。身勝手なという感じがするかもしれない。しかし、この山岳会のメンバーの力量や経験などを熟知しているのは、この2人しかいないのだから仕方ない。だから、山の計画はほとんどわたしが作る。もちろん、参加するかどうかは会員の自己判断に任せてあるので、無理な強制などはまったくしない。行ける人だけで行くのが原則だ。今年度は6名のメンバーが参加してくれた。ひさしぶりに大所帯で行くことになり、計画を立てていても、楽しかった。やりがいがあったのだろう。

 珍しく計画はほぼ5月頃には完成していた。山のガイドブックや山雑誌の山行プランなどにはまず採りあげられない縦走コースなので、地図とコースタイムなどを見ながら、コースを立案した。わが山岳会のここ10年ほどの歩行速度から、各ポイント間のコースタイムは標準タイム(これは、健脚の成人男性が15kgほどの荷物をもって、歩いた場合を想定しているようだ。もちろん、休息時間は入っていない)のほぼ1.5倍を見積もってある。できる限り、午前中だけの行動にしてあるのも、天候の悪化や疲労度をかんがえてのことである。今回は、針ノ木雪渓を登るため、簡易アイゼンも山岳会の費用で準備した。天候は、迷走する台風10号の影響で、かなりの不安があったことも事実。ただし、台風はすでに関東地方はほぼ通過してしまったあとで、これ以上の天候悪化はしばらくはないと判断、予定通りの出発にした。梅雨明けが早かったこの夏は、1年中でもっとも山に適する7月下旬から8月上旬にはすでに台風に見舞われるという状況で、ハラハラしながら天気の変化を見守っていた。台風の影響が吉と出るか凶と出るかはわからないが、とにかく出発の時間は迫っていた。

■出発直前の夜

 7/31(土)の20:00に横浜そごう下、YCATバス停集合になっていたが、前日に参加メンバーに電話を回した。出発前に壮行会をして、気持ちを高めたかったからだ。18:00に山岳会の集合場所としてよく利用する飲み屋さんへ集まるようにした。4名ほどは来れるというので、事前に店に席の予約は入れておいた。わたしは、ザックの点検を済ませると、完全なる山服に着替えて、重い山靴を履き、17:00に家を出た。今回からザックとズボンは新調した。もう20年近くも利用しているものだったので、ちょうど換え頃だった。体重もしっかり70kg前後に落としてあったので、ズボンのウェストはベルトで締めないとストンと落ちてしまうほどだった。ほぼ毎日歩き通したので、よほどのアクシデントでもなければ、昨年同様に歩きで問題は起こらないと確信していた。が、それでも山では何が起こっても不思議ではないから、油断は絶対にできないと、自分にはいい聞かせていた。ザックを背に駅に向かうと、自然に登高意欲が湧いてくるのが不思議だ。天気は回復しつつあるようで、晴れである。わたしの予想では、これからゆく北アルプスの後立山付近では、まず天気は3日ほどは大丈夫だろうとおもっていた。山で4泊くらいになれば、多少の雨に遭うのは当然だし、1日くらいは少し降られるだろうとはかんがえていた。

 横浜に着き、所定のお店に直行した。まだだれも来ていなかったが、すぐに大生を頼んだ。前夜の夕食以来何も食べていないのだから、腹はぺこぺこだ。何品かつまみを頼み、飲みはじめた。すぐに指原さんや鎌田さんも合流。さらに山路さんも来て、壮行会は佳境に入った。甲地さんもめずらしく時間通りに来た。わたしはいつもの通り、ビール→日本酒→焼酎という流れで飲んだ。みんなは、最近ではビール→焼酎の短絡的なコースで飲んでいる。同じ日本人として大変嘆かわしいことである。愛国心など微塵もないわたしであるが、日本人が創り出した日本酒はやはり定番コースに加えてほしいと願わずにはおれない。話しがそれた。山路さんの記録では、何でも全部で焼酎を2.5本ほど飲んだとのこと。立派である。明日の早朝から睡眠不足で登りはじめることは確定しているにも関わらず、この気合。これなくしては、山は登れない。さすがに長い年月登りつづけているわが山岳会のメンバーである。壮行会の最後に現れた松田さんが頼んでくれたのか、焼きおにぎりはうまかった。

 夜行バスはほぼ定時に出発したが、どうせ眠れないだろうと高をくくっていたら、おもいの他、眠れたようだ。横浜→新宿→???→扇沢と走っていたようだが、ボーとしていたので、半眠半起(こんな熟語があるのか知らんが)の薄ボンヤリした意識のまま、バスの中でウツラウツラして夜を過ごした。

■1日目:8/1(日)晴れ 針ノ木小屋へ

 気がつくと、扇沢に着いていた(4:47)。着く直前まで記憶がないので、おそらく寝ていたのだろう。朝の早いわたしとしては、不覚であった。予定では5:30頃の到着であるから、かなり早く着けた。これは、幸先がいい。山では、どんなに早立ちしてもし過ぎることはないから。当初の計画では、扇沢STで朝食その他の準備をして6:00に出発の予定でいた。バスが早めに着いたことで、この時間を少し繰り上げて5:30に出発とした。それまでに、各自がそれぞれの手順に従い、準備の態勢を整える。わたしは、買ってきたおにぎりを1個(普段は朝食はとらないが、山ではとる)食べて、水の補給などをした。トイレも昨夜の壮行会での飲食があったせいか、一応は気持ち程度に済ませた。いつも山に入ると、便秘がちになるので、水分の補給などには十分な注意をしようとおもった。時間が迫り、靴ひもを締めなおした。きょうは、雪渓の登りがある。心してかからねばならない。

 みんなの準備も終わり、5:30に予定通り歩きはじめた。まずは、大沢小屋までだ。ゆるいダラダラした山道がつづくので、休まずに1本で行くことにした。この最初の1本目がこれからの縦走での調子をみるのに役立つ。途中で写真を撮ったり、水場で軽い休憩は入れたが、ほぼ休まずに歩き通し、6:55に小屋に着いた。心地よい汗も出はじめて、体調はまずまずである。小屋に入り、中にいたオヤジさんに雪渓のようすを訊くと、どうも例年の半分くらいしかないという。この猛暑じゃ、そうだろう。日本三大雪渓の一つに数えられるこの針ノ木雪渓にしてこれである。ま、崩壊してさえいなければ登れるから、気にしない。アイゼンをつける場所は、雪渓のようすを見てからでいい。ちょうど10分休んで7:05に雪渓を目指して出発。

 それとなく予想はしていたが、雪渓の末端は荒れていた。8:15頃にはもうこれより上はアイゼンをつけたほうが安全だろうというところまで登った。大きな岩陰で、みんなにアイゼンをつけるように指示して、わたしも着けた。簡易アイゼンなので、歯の出具合がそれほどでなく、あまり効きは良くなさそうなので、「靴をしっかり雪面に踏み込むように」と話した。雪渓は幅がかなり狭くなっており、踏み跡を辿るようにして登ると、突然かなりの亀裂が入っていたりして、先頭を登るわたしはそういう箇所を避けるように慎重に足を進めた。雪渓は中央部が沢の流れの上部になるため、内部はえぐられて雪の厚さが薄くなっている。それと雪渓の両端(左岸・右岸)部も雪が薄くなっていて危険だ。だから、基本的には中央より少し端によった辺りが一番安全とおもわれる。それでも、そういうところを選んで進むと、ザックリと雪面が割れていたりする。紙面での知識だけでは通用しないところがむずかしい。ただ、そういう危険な面があるのを除くと、雪渓は一気に高度を稼げるので、わたしには好きな登り方だ。雪渓の上部はかなりの急斜面になっていたが、40分ほどで上部まで登りつめた。そこで、アイゼンをはずし、小屋のある鞍部まではこれまたきつい最後の登りになった。この斜面を登っている途中で、下山中の老人がバランスを崩してケガをするというアクシデントに遭遇した。幸いにも、脱臼で済んだようであったが、こういう事故は他人事ではない。気が引き締まったのはいうまでもない。この事故については、10:45に針ノ木小屋に着いてから、ほどなく連絡をしておいた。当初の計画では6:00に扇沢を出発して、12:00頃に小屋に着くことになっていた。標高2536mの小屋まで約1100mの高度差を5時間15分で登ったことになる。寝不足の状態としては、まずまずの登りであったといえる。標準タイムでは6時間のコースだったから、かなりの頑張りを見せたわけだ。

 山小屋に着いてザックを降ろすと、わたしはてっきりビールでも買って乾杯するのかとおもい込んでいた。そうしたら、みんな「サブザックには雨具はいるよな」などと話している。どうしたのか?とおもっていたら、計画に何気なく「余裕があったら蓮華岳へピストン」などと書いておいたのをこれから実行する気らしい。「まずい…」とおもったが、みんな気合が入っているので、やむなくこちらも準備に入る。雨具と地図と非常食、それに水1リットルをサブザックに放り込んで、しぶしぶ登る態勢に。往復2時間くらいはかかりそうだと判断。登りについた。わたしは、登りはじつに遅い。しかし、休まないで登りつづけるように心がけているので、意外に短時間で高度は稼げる。それでも、この山は、にせピークが多くて、ちょっとしんどかった。登りつめた先にまた新たなピークがという按配で、疲れた。何とか標識もない蓮華岳頂上に着いたときはホッとした。もちろん、帰りも時間はかかりそうであったが、登りにくらべれば気分は楽である。蓮華岳の標高は2798mほどあるから、けっこうな登りだったことがわかる。計画書にあんなことを書かなければよかったとひそかに反省した。結局、この日は扇沢から1400mくらいも登ることになってしまった。小屋にもどったのは、昼の13:40だった。もう、こうなると我慢も限界に達する。到着早々に荷物を整理すると、各自が担ぎ上げた種々のアルコールを持ち出してきて、さらに乾杯用にと小屋にある缶ビールを買い込んだ。この瞬間を求めて、しっかりと汗を搾り出して登って来たのである。乾杯!ビールが胃に滲み込んでいく。まだ、夕食までは時間がたっぷりあるので、ゆっくりと飲んだ。野外のベンチにも移動して、槍穂高連峰やすぐ近くに見える立山の大汝山や剣岳を心ゆくまで眺めて、ゆったりとした宴会を楽しんだ。けっこう飲んだので、山路さんも書いているように、夕食で何を食べたのかは、記憶にない。

 夕食後に狭い布団に横になった途端に寝てしまったようだ。もう夜行バスに耐えられるような年齢でないことをおもい知る。この夜は、ほとんど目も覚めずに寝てしまったのだろう。

■2日目:8/2(月)晴れ 新越山荘へ

 4:00頃には目が覚めていたようにおもうが、はっきりと覚えていない。ただ、たっぷり寝たというすがすがしさはあった。5:10には朝食なので、その前には出発の準備はしていたはずだ。朝食はとてもうまかった。山ではきちんと食事を摂ることにしているため、ふつうに食べた。あっという間に食べて、すぐにザックの整理やトイレなどを済ませた。この朝は気持ちよく出て腸内もすっきりした。槍ヶ岳を見ながらの雉打ちだったせいか、気分も良かった。メンバーもそそくさと準備をしている。ようやく終わりそうなので、6:00出発とした。計画では5:00に出発予定にしていたが、これは山小屋で朝食を摂らないときの設定であったので、変更は当然だろう。計画より1時間遅れの出発であるが、果たして予定した時間に着けるかは興味があった。

 6:00に小屋を出て、テント場の横を通って、すぐに針ノ木岳の登りにかかる。昨日の蓮華岳で登りの調子をみておいたので、休みは入れないで一気に頂上まで登れるだろうと判断した。歩みは遅くても一歩一歩確実に休まず登っていけば、標高差300mくらいなので1時間ほどで登れるとおもっていた。昨年同様、足の痛みはない。ザックもしっかり腰で支えられており、力の溜めも申し分ない。とくに危険な箇所もなく、6:55に頂上へ到着。天気は最高によく、360度の大パノラマである。富士山、南アルプス、北アルプス南部、北部、八ヶ岳、等々視界もすばらしく、気持ちのいい景色を堪能することができた。そして、空を見渡し観天望気。天気はここ数日はしっかりもつだろうと確信した。いよいよここから本格的な縦走路に入る。

 8:05にスバリ岳に、10:10には赤沢岳へと足を進めた。途中、かなり崩壊しているところも散見されたが、北アルプスの稜線ではごくふつうの程度でそれほどの危険箇所とおもわれるところはなかった。左下には黒部湖が、そして黒部ダムとロープウェイの駅である大観峰などを見ながらのとても気分のいいアップダウンである。南アルプスとちがい、北アルプスではこういう小刻みなアップダウンがふつうなので、リズムに乗ると気分がいい。赤沢岳には予定よりだいぶ早めに着けたので、スケッチを描くのにいい場所かなと、松田さんに絵筆を取ってもらった。わたしたちは昼食タイムにしたが、口の中が乾いてしまっているせいか、せっかくの海苔おにぎり弁当がのどを通らない。こういうこともあるだろうと用意してきた、チューダーゼリーというので食事代わりにした。これはけっこううまい。ここまで、休憩時間はほぼ1時間に5分ほどで登り降りしてきた。歩く速さは先頭をゆくわたしの足で決まるため、景色とともに時計は常に見て歩いていた。山路さんが「そろそろ1本つけましょうか」といわない限りは、ほぼわたしは時計を見ながら計画的に歩いていた(50分5分休憩)。右上から照りつける強い日射で、首まわりや右ほほなどがどんどん日焼けしていくのが、皮膚の引きつりでわかる。長ズボンに長袖シャツではあるが、素肌のままの右手首の甲が次第に赤くなってゆく。すごい紫外線があたっているのだろう。赤沢岳頂上では写真を何枚も撮った。松田さんの絵の出来上がるのを待って、11:35に次の鳴沢岳目指して頂上を跡にした。

 赤沢岳から見る鳴沢岳周辺は稜線がなだらかで雲上散歩でもできそうだなーとおもっていたら、甘かった。かなり小刻みなアップダウンがあり、正直きつかった。それでも、歩きつづけているというのは強い。12:30に鳴沢岳へ到着。ここでも5分休憩後に出発。こういうところは、山ではわたしは几帳面である。この時間になると雲が沸き立ってきて、稜線は雲に包まれたり、視界がさっと開けたりを繰り返す。日焼けした首筋に涼風があたると汗がひいてとても気持ちがいい。新越山荘を見上げる位置にあるお花畑で最後の1本を取る。あとは山荘でのビールを想い描いて最後の登りにかかる。傾斜が緩やかになって山荘が近づいてきた。スピードを上げることもなく、淡々と山荘に到着した。ちょうど13:15であった。計画の予定では13:00到着であったから、1時間遅れで朝出発したことをかんがえると、何とか予定通りの時間で着けたようだ。

 山荘に着いてホッとすると、やることは決まっている。それぞれが酒とつまみを持ち出してきて、買出しの500mlの缶ビールでまずは乾杯。きょうの行程は、天気にも恵まれ最高の稜線歩きができた。17:00からの夕食までたっぷりと飲み、話した。テントを使って山行をしていたときにはとてもかんがえられない贅沢である。山でも楽することを覚えてしまうと、もう後戻りはなかなかできない。やはり、ときにはテントでの山行も必要かななどとふとおもったりもする。山登りを小屋泊まりではじめた人はこれが当たり前だとおもってしまうだろう。山小屋でぶつぶつ文句をいう人が増えているようにおもうが、そういう人は基本通り「テント泊まり」からはじめてみるがいい。山小屋のありがたさが痛いくらいにわかるはずである。夕食はメニューは忘れたが、おいしく、ありがたい気持ちで頂いた。

 この夜は、昨日がぐっすり眠れたせいか、寝つきがよくなくて、ちょっと斑模様の睡眠になってしまった。まあ、眠れなかったというわけでもないし、これくらいは山では当たり前のことではある。

■3日目:8/3(火)晴れ 冷池山荘へ

 十分とはいえないけれど、それなりに眠れたようだ。4:30くらいにはみんな起きて準備にかかっていた。山路さんが靴下がどうのと騒いでいた。何でもザックに入れたはずの靴下がないみたいだとのこと。わたしは、昨夜からまったくザックはいじってないから、まぎれ込むはずはない。「だれかのザックにまちがって入れられたんじゃないかな?」とほとんど気にもせずにいたら、甲地さんのザックから出てきた。靴下が独りで歩くこともないし、どこかにはあるもんだ。とにかく、見つかってよかった。この靴下の件で山路さんが夜も寝れないほど心配していたとは、彼の山行記を読むまでは知らなかった。長年一緒に登っている人のことでも、わたしはけっこう無関心なのかな?と自省することしきり。

 この日は当初の計画では5:00に出発して、11:30に冷池山荘に着く予定になっていた。しかし、朝食は5:00からなので、当然変更。5:00からの朝食をあっという間に食べて、出発の準備にかかった。山での食事は本当にうまいし、ありがたい。簡素でもテント山行をおもえば、夢のような生活である。トイレもしっかりと済ませることができ、きょうも快調。みんなの準備が整って5:35に山荘を出発した。きょうの行程は今回の縦走では一番楽ではあるが、山に入って3日目なので、みんなの疲労もかなり溜まっているはず。ちょうどいいタイミングだ。早朝のヒンヤリした空気の中を、淡々と歩いていく。歩くテンポはいつも同じだ。小さなピークをいくつか越えて、6:15に岩小屋沢岳頂上へ。ハイマツ帯の稜線の東側(長野県信濃大町側)はかなり崩壊しており、油断はできない。それでもきょうの目的地である冷池山荘はかなり近くに見えており、気分的には楽である。一旦鞍部に下りて、そこから登り返す形で種池山荘に近づいていく。7:50に種池山荘に着いた。ここで、一本つけようかとおもったが、まだ歩きはじめて15分くらいだったので、「このまま行きます」といって、通過。目前にある爺ヶ岳南峰の登りにかかる。休まずに登り切れるとおもった。ゆっくりと一歩一歩登る。ただそれだけだ。8:35爺ヶ岳南峰頂上へ到着。信濃大町の町並みが足下にきれいに見える。何度歩いたことかあの町を。

 南峰頂上で少し休んでいると、中峰(これが爺ヶ岳の主峰)下の巻き道を長い列をなして移動してくる集団が見えた。昨晩泊まった新越山荘の玄関先に「中学生が集団登山しているので、冷池山荘は混んでいます」という看板が出ていたが、その集団だった。先に南峰頂上に登って来ていた引率の先生に訊くと、この爺ヶ岳南峰に登頂するのが目的らしい。ここにいては邪魔になる、と急いで中峰に向けて歩きだした。途中で多くの中学生とすれ違ったが、みんないい顔をしていた。山路さんの話では、生徒140名と引率の先生が20名ということだった。どんな悪ガキでも、山に連れてくれば、まず99%は何かを感じるはずである。「個性尊重」だの「ゆとりの教育」だの「生きる力」だのと訳のわからんことばを連発している教育界の上層部には、ぜひこういう場所にしっかりと登ってもらってから、自説を唱えてほしい。われわれの眼の前にはそのとき、まさに「生きる力」をひしひしと感じさせる中学生たちがしっかりと歩いていた。こういう登山は、彼らにはきついかもしれないが、心の隅っこにきっと何かが残るだろう。登山が嫌いになってもいい。好きになってもいい。どちらにしても、自分の住む信濃大町を離れたときに、きっと眼下に広がる故郷を見たという記憶は蘇ってくるとおもう。こういう学校行事は年々廃れていっている。「事故が起きたらどうするのだ」等々の批判のためだ。そんなに事故が怖いのなら、家で寝ていろ!といいたい。それでも、人は死ぬときは死ぬのだ。危険を承知で、あえて危険に身をさらすときに、はじめて人生の意味を知るのだ。バカは変に命を惜しむ。ひさしぶりに生き生きとした少年少女を見て、胸がジンとした。引率の先生方には本当に頭が下がった。わたしも一時、高校の山岳部の顧問として部員を引率していたから。

 すぐ近くの爺ヶ岳中峰(主峰)に移動して、そこで昼食にした。このときの弁当は「ちらし弁当」だったが、まだ9:10ほどでお腹も空いていなかったので、ここでは食べなかった。山登りというと相当にハードな運動なので、お腹が空くとおもわれがちだが、それほどではない。日頃「一日一食」を実践しているものとしては、とくに意識しなければ、朝昼抜きでも登れるとおもう。ただし、夜はしっかりと食べたほうがいい。というより、嫌でもおいしく食べられる。食欲がないときは、無理に食べたりしないで、自然に任せたほうがいい。腹が空けば、だれでも食欲はでてくるのだ。もし、それでも食欲が湧かないときこそ、病気なのである。現代の日本人は基本的に食べ過ぎている。山でも質素を旨としたい。

 ここまで来ていれば、冷池山荘まではあとわずかである。9:35に主峰を降りて、縦走路にもどる。そこからのんびりと歩いてゆく。今回のメインでもある「鹿島槍ヶ岳(2889m)」の双耳峰が山荘の向こうに大きく聳えていて見事だ。深田久弥氏が書いた『日本百名山』の1つに数え上げられている山である。百名山にわたし自身はそれほど興味はないが、そこに選ばれているだけの風格はやはり感じる。縦走路を辿っていくと、下山時に利用する予定でいる赤岩尾根への分岐に着いた。そこにはけっこう立派な標識があった。すぐ近くに見える山荘は、大崩壊している沢の上部に建っている。毎年、崩壊はつづいているのだから、いずれはこの山荘もまた引越しを余儀なくされるのだろう。一旦、鞍部に下り、そこから森林帯を少し登り返して10:47に冷池山荘(2420m)に到着した。

 大きな山荘だ。例によって、甲地さんがみんなから1万円を集めて、受付をしてくれた。宿泊代は1泊2食で\8500。民宿なみの値段だが、山ではこれくらいは当然だろう。高いとおもう人は自分でテントを担いで登ればいいだけのことである。わたしは山小屋の値段は、これくらいは当然とおもっている。部屋へ荷物を運びいれ、布団の割り振りが終わると、やることはまたしても宴会だ。一日の(といってもこの日はそれほどでもなかったが)仕事のあとは、これに限る。他人様に迷惑にならない程度に抑えて、紳士的マナーを守りつつ、ちょっとざわめきながら飲む。これが一番だ。ちょうど泊まる部屋のすぐ脇に談話室があり、そこを利用してもいいということなので、席を確保した。これだけ大きい山荘なら、生ビールは当然あるはずとメニューを見ると、当然のようにあった。全員でこれを注文。そろったところで、盛大に乾杯!あとは、鹿島槍ヶ岳を残すのみとなると気分も盛り上がる。みんな荷物を軽くしたいため、自分の持参したつまみをどんどん出す。わたしもかなりもっていったが、遠慮深いところが災いしてか、それまで出せずにまだかなり残してしまっていた。このままでは、荷物を残したまま下山になりかねない。ここでの宴会でしっかり食べてもらった。わたしは生ビールがおいしかったので、お代わりして2杯も飲んだ。うまかった。夕食の16:45まではかなりの時間があったので、宴会後は各自が好きなようにして時間を過ごした。山荘は次第に混んできて、それに伴って寝床もどんどん狭くなっていった。

 夕食後にはもうやることもないので、山ではみんな寝床にはいってしまう。談話室などで遅くまでくつろいでいる人たちもいるようだが、ここは下界とはちがう。下山する体力を維持するためには、早く寝るのに越したことはない。当然ながら、わたしたちは明日の早朝から鹿島槍ヶ岳への登頂があるので、早めに寝ることにした。寝床はもうかなりの狭さになっていて(新しく来る人がどんどん割り振られてくるから)、わたしの寝床は、頭が柱が30cmほど飛び出している箇所まで押しやられ、かなりの態勢の悪さだった。そうこうしているうちに、出口近くの部屋2階からの階段横まで押しやられていた人が不満をもらしはじめた。何でも、1階(われわれは2階の部屋)の部屋を覗いたらまだまだガラガラの状態になっているのに気づいたのだろう。そこで、部屋の割り振りをしている人に何とか部屋の人数を減らしてくれと強く要求を出したみたいだ。土日ではなかったから、満杯というわけではなかったようだ。この要求がなんとか通ったみたいで、多少他の部屋に人が移動したりして、わたしの頭も柱の横まで移動することが可能になり、多少は寝やすくなった。他力本願ではあったが、幸運だった。ただ、部屋の人数が多すぎて室温が高くなり、寝苦しかったのは事実。隣で寝ているはず(?)の山路さんはほとんど眠れなかったといっていたが、わたしは彼が気持ちよさそうに寝ているとおもっていたので、人の睡眠とはよくわからんものだ。わたし自身は、まあ一応は眠れたのだろう。

■4日目:8/4(水)曇り・小雨のち晴れ 鹿島槍ヶ岳登頂から下山

 3:00頃には目が覚めてしまっていたので、部屋の何人かの人が起きだしたのを見届けてからわたしも起きた。すでに、昨晩に今朝の鹿島槍ヶ岳登頂のための準備(サブザックにすべて必要なものはまとめておいた)は済んでいる。朝食は4:45と早いので、トイレに行ったり顔を洗ったりと朝のお勤めをしているとあっという間にその時間が近づいてくる。天候は下り坂に入っており、多少の雨は覚悟しなければなるまい。といっても、視界はしっかりしており、大きく崩れることはないとおもえた。

 10分ほどで食事を済ませると、ザックを乾燥室に入れさせてもらい、トイレも済ませて(この日もいたって快調)出発の時間を5:10とした。みんなすでに準備はできている。サブザックだけの荷物なので、じつに軽い。重いのは登山靴だけだ。これは重いほうが山では返って歩きやすいからだ。5:10予定通り出発。あくまでもゆっくりとしたペースで休まず登ってゆく。頂上までは300mほどの登りなので、休まずに一気に登れるとおもった。途中で霧雨が降りだしてきて、雨具をつけたり、取ったりがあったが、ほとんど休みはとらずにそのまま頂上を目指した。雲海状に雲が下方に広がっているので、それほどの天気の悪化はないと判断できた。じりじりと頂上に近づいて行き、最後まで同じペースで6:47鹿島槍ヶ岳南峰頂上に到着した。雨は止んでいた。この登りの途中で、今回は下山時の天候が心配なので(悪場の赤岩尾根上部通過は雨天時には危険)、できるだけ早く山荘に戻るため、北峰にはピストンしないことをみんなに話しておいた(往復で1時間近くかかるため)。頂上ではいままで縦走してきた山並みがきれいに見えた。槍ヶ岳や穂高連峰、近くの剣岳などもそれまでと同じようにきれいに見えた。もう、これらの展望も十分に堪能したという気持ちがあった。身体が冷えるので、7:00には頂上をあとにして山荘に向かって下山に入った。下山時には、山荘到着後、本格的な急坂の下山が待っているので、ひざを痛めないように慎重に下るようにした。8:15に山荘にもどった。9:00には赤岩尾根を使っての下山に入りたいとかんがえていたので、何とか時間的な余裕をもって山荘にもどれたことにホッとした。

 山荘に着いて、各自ザックの荷物を整理している間に、甲地さんに大谷原からのタクシーを手配してもらった。マイクロバスなら1台ですむが、どうも台数がないみたいなので、タクシー2台になりそうだという。とにかく手配はできたので、あとは何とでもなる。タクシーは14:00に予約したので、遅くても13:30くらいには大谷原に着いている必要がある。赤岩尾根を降り切ったところが西俣出合で、そこには13:00までにつけば、余裕をもって大谷原まで行ける。こんな風に時間ばかり気にしているわけではないのだが、あらかじめおおよその見積もりをしておかないと、何かあったときに対処できない。この習性は若い頃から変わらない。みんなの準備もできたようなので、靴の紐をしっかりと締めなおし、下り用にした。8:55に山荘に別れを告げて、赤岩尾根の取り付きである冷乗越まで向かう。15分ほどでそこへ着く。いよいよ最後の下山である。休みは取らずに一気に赤岩尾根に入ってゆく。名前の通り、岩は赤く、あちこちが崩壊している。かなりの悪場である。雨が降っていないので岩は濡れておらず、助かった。鎖場、ハシゴと連続して緊張する。山での事故の大半は下降時におこる。あわてず、ゆっくりと悪場を通過する。雨が降っていたら、けっこう危険な箇所である。この赤岩尾根上部の悪場を15分ほどで通過したところで、一息いれた。

 残りはひたすら急坂を転げるように降りてゆくだけだ。これが、最近では一番つらい。足のつま先付近が次第にジンジンとしびれるようになってくる。登山靴はしっかりしているので、つま先が靴の先端にぶつかってしまうようなことはないのだが、昨年あたりから、足のつま先の下あたりが熱くなってジンジンとしてくることが多くなって気になっている。今年も同じ症状だ。ひょっとしたら、糖尿病のせいかも知れない(新聞でそれらしい記事を見たことがある)。ただ、足腰は力の溜めもしっかりしており、まったく問題はない。一気に下降する相当の急坂なので、「こりゃ、登りもきついよなー」などと話しながら降りてゆく。あちこちに木のハシゴがあり、これはわたしの嫌いなもので、できる限り使わないようにしたが、最後は面倒になってしまい、もうやけくそであった。わたしはメガネをかけているため、汗がメガネにかかり、前が見えなくなってしまう。何度も拭いていたが、そのうち面倒になりメガネをはずしてしまった。最近では老眼が入ってきたせいか、何とか足元は見える。もう、これでいくしかないと諦めて、ひたすら足を動かした。1000mほど一気に降りるのだから、ひざはもう死んでいる。まだかな、まだかなとおもいつつ足を動かすしかない。沢筋の水の音が次第に大きく聞こえるようになり、少し気分的に楽になる。下り始めてほぼ3時間近く、11:55に小さなダムのある西俣出合まで降りることができた。

 足の裏はもう火照ってジンジンしていた。ダムの下のトンネルをくぐり、対岸へ渡る。そこに、荷物をおくと、沢に降りていって、顔を洗い、汗まみれの帽子を洗った。ここまで降りてこれれば、もう大丈夫だ。ホッとした気分になる。みんなも沢の水で顔を洗ったり、くつろいでいる。ここで、昼食とした。もう、食欲などどうでもいいのだが、まだ大谷原まではここから1時間ほど林道を歩いていかねばならない。12:25頃に荷物をまとめて、大谷原目指して歩きはじめる。もう広い林道なので、各自雑談しながらダラダラと歩いてゆく。隊列はもう組まない。わたしは山路さんと何かを話しながら歩いていた。13:10に大谷原に着いた。ここで、タクシーを待つだけである。わたしは、それまで食べていなかった「ちらし弁当」を出して、食べた。腹が減っていたせいか、妙にうまかった。

 タクシーが来たら、信濃大町温泉郷の宿を探してもらい、そこに投宿することに決めてあった。タクシーが来るまでの時間は自分でもおどろくほどボーとしていた。これで、今年の夏山も終わりだと安堵した。

■夏山を終えて

 大谷原で実質的な山登りは終わりなので、そのあとのことは山路さんの書いてくれた「夏山山行記」を読んでほしい。8/5(木)に予定通り自宅にもどったが、しばらくは、ボーとしていた。心地よい虚脱感かな。山行記を書いて一つの山登りが終わるとおもっているが、山を降りてきてからすぐにはとても書けない。今回も同様だった。8/10からは会津に帰省する予定が入っていたので、今度はそちらのほうの準備もあり、山用具の後片付けをするくらいしかできなかった。職場にもちょっと行ってみようかとおもったが、せっかく年休を取っているのだからと、行かなかった。

 故郷会津でのお盆を終えて8/17(火)に自宅にもどると、山路さんの山行記が届いていた。これも例年通りである。これを読んで、ようやく自分でも山行記を書いておこうという気持ちになってきた。山行記を書くと、山に3回登ったことになる。計画を立てるときに1回、実際に登って2回、山行記を書いて3回である。今年も天候とメンバーに恵まれ、無事夏山山行を終えることができた。心配の種である足のトラブルも日頃の鍛錬と減量によってか、切り抜けることができた。2年続きで、ほぼ計画通りに登り切ることができた。メンバーに感謝したい。

 山小屋で中高年の方々の自慢話も聞こえてきた。「あういうのは嫌だな」とおもっている自分も中高年である。もう人の話にいちいち反発している年齢でもあるまいが、いつまでも山を甘く見ている人に反発する自分の気持ちも大切にしたい気もする。「たかが数年、百名山を数十個登ったくらいで生意気なことばは吐くな!」と山の中心で大声で叫びたい、というような気持ちもある。しかし、その人はその人なりの山を登っているのだろう。人様のことをとやかくいうつもりはない。山岳会のメンバーと山で数日を過ごせるのは、過分な幸せなのだろう。それだけで十分だとおもう。今年もさりげなく送り出してくれた妻やこどもたちに感謝している。家族はまず読まない山行記だが、老後のためにすなおに感謝だけはしておきたい。

 山岳会のメンバーへ「本当にお疲れさまでした」。

 2004/08/21(土) 18:47

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