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2005年夏山山行記

北アルプス:剱岳(2999m)

<ようやく登頂できた!>

大竹 一弥

2005年夏山思い出フォト(剱岳):指原 信一氏撮影


■山岳会に残った課題

 ことしの夏山はどこへ行くかは、山岳会創設からの山仲間である甲地さんからの強い要望で、「剱岳」と決まっていた(たしか、新年会の帰り際にいわれたのかな)。この急峻な岩峰は、わたしたちの山岳会にとっては、因縁の山でもあった。過去2度の挑戦を退けている。一度は豪雨によるテント流失で、二度目はこれまた剱沢小屋での悪天による停滞と撤退という、ともに無念な記録を残している。今回は三度目の正直ともいえる挑戦で、何としても登頂を…とみんなの決意は固かった。けわしい山であることは全員認識していたし、天候の悪化も考慮して、停滞も覚悟してでかけた。

 昨年は、その剱岳から黒部をはさんだ対岸にある針ノ木岳〜鹿島槍ヶ岳の縦走を成功させている。山岳会の活動としての北アルプスもほぼ全域を踏破して、今回の山行をもって、ひとまず北アルプスに一区切りつけようとも話し合っていた。そのためにも、気持ちよくこの山を登り終えておきたかった。

■いざ、馬場島(ばんばじま)へ(7/30)

 7月30日(土)の早朝、いつも通りにおきた。夏休みにはいって7日間はびっちり物理講習会に打ちこんでいたので、29日(金)だけは振替代休をもらい、山の準備をした。5:00ちょうどに自宅をでて、駅まで歩いた。重い登山靴に足をならすのも目的だ。いつもより少し時間がかかり、20分ほどで駅についた。前夜までビールを飲みまくっていたので、汗がしたたりおちた。山に登るまでに、多少は水分をしぼりだしておきたかった。5:37の電車で新宿にむかい、山手線に乗りついで、池袋駅へ。駅から歩いて10分ほどでサンシャインプリンスホテル裏手にある高速バス乗り場に6:40ごろに着いた。いつもならきっちりと先に来ている山路さんが見えない。おかしいなとおもっていたら、トイレに行っていただけだった(山路さんの記録ではわたしが7:30頃に着いた事になっているが、そんなに時間がかかるはずはなし、何かの記憶ちがいか?)。やはり、強靭な意志の持ち主である彼にはかなわない。富山駅ゆきのバスの発車時刻は9:15である。この場所への集合時間は8:00としておいたが、気の早い二人はここで雑談しながら残りの2人を待つことにした。指原さんには連絡ずみだが、甲地さんにはどうしても連絡がつかず、夏山計画書をわたしてあるだけだ。地図もなにもつけてないから、自分でさがして来てもらうしかない。ま、子どもじゃあるまいし、そんなことは気にする必要もないのだが。

 高速バスはいろいろな行き先があり、なかなか盛況だ。今回は無理しても登リ口まで着くのがやっとなので、あえて朝に出発することにした。それでも、富山にある馬場島まで着くには夕方の18:00近くになるはず。時間はかかる。あうだこうだと話していると、ちょっとだけ心配していた甲地さんがやってきた。ホテルの正面の方にまわってしまったようで、一周してきたといって苦笑いしていた。最後に、東京の蒲田に住む指原さんがやってきた。彼はザックを新調していた。元気そうで、さすが毎日犬の散歩できたえているだけある。8:10ごろだった。全員そろったところで、バスのチケットをくばりおえ、一安心。ネットで予約、コンビニでチケット購入とあれこれ準備していたので、一仕事おえた気になった。富山行きのバスはなかなか現れず、発車予定時刻の9:15直前にやってきた。すでに、指原さんがビール・酒などの買出しにもいってくれていたので、荷物を係員に預けると、しっかり一番先頭の座席に4人で座り、発車を待ってビールで乾杯した。

 都内を抜けるのに予想した以上に時間がかかった。練馬ICから関越道に乗り、ようやくのこと、スムーズに走行をはじめた。その頃には、もう飲むものも底をついていた。高速道にはいるともうアルコールは売ってないから、もう少し買っておいてもらえばと後悔した。馬場島に着けば、またあるだろう。朝方から飲んだせいか、山路さんをはじめ、他のメンバーはもううとうとしている。わたしは、睡眠だけはしっかりとってあったので、それほどの眠気はなかった。10km以上もある関越トンネルを抜けると、車のゆれが激しくなってきた。車内放送でいっていた「新潟中越地震」による道路破損工事の影響だ。まだ、地震の傷跡がなまなましくのこっているところもときおりあり、あの地震の影響の大きさを知った。「この道路の状況では、この夏の帰省時に草津温泉に寄るのは無理だな」と判断した。

 長岡JCから北陸道へとはいってゆく。道路はもう正常になっている。北陸道に入ると海岸線に沿って走る。そして、トンネルがとても多くなる。トンネルの表示をみてわかったのだが、おおきなトンネルが全部で26本ある。平均1kmとすると26kmにもなる。目も弱い自分にはかなりきついトンネル群であった。こういう場所はあまり来たくないな。ところどころで強い雨も降り、内心不安にもなる。長いバスの旅もようやくおわりにちかづき、富山市内がみえてきた。大学時代からの友人が富山市内にすんでいる。電話番号をメモしてくるつもりでいたが、これも忘れてしまっていた。このところ、物忘れはひどくなる一方だ。また、雨が降りだした。市内にはいるとすごい雨だ。途中のバス停でおりるひともあり、時間がすこしかかり、富山駅前バス停についたのは16:20ごろであった。

 富山駅からは上市という町まで富山電鉄の電車でいく。20分くらいでそこへついた。上市の駅をでると、ちょうどいいタイミングでタクシーが待っていた。即、乗り込む。山の本などにはここから馬場島までタクシーで50分ほどと書いてある。そのとおりなら、今夜の宿には18:00過ぎにつくことになる。もう、そういう時間だった。ところが、タクシーの運転手さんは手慣れた感じであっという間に馬場島まで飛ばしてくれた。宿(旧馬場島荘)についたのは17:50くらいで、余裕をもってつけた。費用は\7000ほどだから、4人で割ればそれほど高くはなかった。18:00からの食事では、ビールを4本も飲んでしまった。まあ、明日の早月小屋までの1400mの登りで、しっかり汗にして出してしまえばいい。食事のあとにみんなは風呂にはいったみたいだが、わたしは山に来たら入らないことにしているので、そのままで床についた。いよいよ、明日の朝からきびしい尾根の登りがはじまる。気持ちは高ぶってはいなかったが、鍛錬不足の自分の足で本当に登りきれるのかは、ちょっと不安になった。ただ、もうここまできたらやるしかない!というふっきれた気持ちもあった。この夜はみんな早々に寝てしまった。

■早月小屋へ(7/31)

 富山県の馬場島から剱岳へ直登する早月尾根は、標高差が2200mある。これは、南アルプスにある甲斐駒ケ岳の黒戸尾根につづく日本第2位の標高差である。若くてパワーもあれば、1日で登りきれるかもしれないが、われわれ中年オヤジ山岳会では無理である。そういうことも考慮されているためか、標高2200mのところに早月小屋(旧伝蔵小屋)が立っている。そこまでの高低差は1400mで、これを本日は登る。7/31(日)の6:40に登山口にむかった。芝生公園とかいう登山口前の場所には「試練と憧れ」と書いた碑があった。まさしく、これからの長い尾根登りを象徴するようなことばである。

 登山口からはいきなりの高度差100mほどの急登がはじまる。本来なら1本目は20分ほど登って体調の確認、荷物のバランスなどをチェックするのだが、もう山のベテランぞろいのメンバーにそれは不要だろう。わたしは、自分の足・心肺機能のチェックの意味もあり、1本目は40分登りとおしてみようとおもった。本当に「鈍ガメ」のようにのろいが、一歩一歩確実に高度をかせいでいった。そして、40分ちょうど登ったところで休憩にした。2番目を歩き、いつも適切なアドバイスをしてくれる山路さんは「無理はしなくていいよ」といってくれていたが、普段の運動量(職場への徒歩での通勤と早朝の散歩)だけで、どれだけ登りきれるかを自分なりに確認しておきたかったのもあり、無理をさせてもらった。2本目までは40分登り5分休憩でいった。さすがに3本目はきつくて、途中で息切れをおこして、少し短めで休憩した。しかし、心配していたひざの痛みやアキレス腱の痛みもでなかったので、ホッとした。このままのペースで登りきれれば、何とか小屋までは大丈夫だろう。山ではメンバーのことを気遣うのも大切であるが、それよりなにより自分自身の体調とペースを維持することが、結果的にはメンバー全員に迷惑をかけなくてすむ。下手な気遣いは返って、体力の消耗をもたらし、ペースを乱す。下界での発想は山では通用しない。これは、山での鉄則である。

 4本目くらいからはペースも安定してきた。きょうは、標高差1400mを登るだけなので、精神的には楽である。この長い尾根には標高差200mごとにきれいな標識がおいてある。このときのペースはほぼ1時間で300mくらいであった。このペースだと、休憩や食事をいれても7時間ほどみておけば、小屋まではつけるだろうと試算した。天気は曇り空で、高層雲が山々の上をおおっており、強い日差しがないので、助かる。目指す剱岳の頂上は、途中の松尾奥の平というあたりで見えたきり、あとは前峰にかくれて見えない。ほとんど登りが連続する尾根で、みっちりと汗をしぼり出した。汗っかきのわたしはいままでの山行では、歩きながらめがねをよく拭いていた。これは何とか改善しなければ…と山に来るまえにホームセンターの作業着コーナーで左官業などのひとが仕事でつかう丈夫なヘアーバンド(タオルにゴムのついたようなもの…じつに本格的)を200円ほどで2本用意してみた。それをひたいに巻いて登ったところ、したたる汗は見事にそのタオルバンドでさえぎられ、めがねはぬれなかった。なんでも、おもいついたら試してみることだ。明日の岩場登りでもこれが有効ならば、ほぼどこでも使えるだろう。話がそれた。尾根登りはそれほど単調でもある。樹林帯の中を登っていくので、稜線のように肌にここちよい風も期待できない。ただ、もくもくと高度をかせいでいく。メンバーとの会話はときおりするが、じつにたわいのないものである。楽して登れる山などほとんどないのだから(自分の足で登れば)、ここでのふんばりはどうしても必要なのだ。

 山登りはすぐに「人生」に似ているとたとえられるが、わたしにはそんな想いはない。大体、そういうことをかんがえるひとは、実際にはあまり山などに登ったことはないのだろう。登っているときは、そんなことをかんがえることはまずない。「次のところまでは40分か、まだ25分もある…」とか「小屋には生ビールはおいてあるのかな?あれば、すぐにそれだ!」などくだらんことをおもっている。足はできるだけ機械的にうごかしている。それで、ときおり、ころびそうにもなる。山歴35年のわたしでもこんなものである。それに登りのほうが下りよりは意外に楽だ。なぜって、足元は近くにみえるし、それほど急ぐ必要もない。どうせ急いでも、時間的にそれほどのちがいはない。初心者は大股でセカセカ登るが、それではもたない。「鈍ガメ」でちょうどいい。実際にやったことのないひとほど、いろいろと託宣を述べるのは、どの世界もおなじか…。

 200mごとの標識を期待しながら何とか登りきり、13:15頃に早月小屋についた。ここは2210mの標高がある。小屋の前では先についたひとたちか、カレーらしきものを頼んで食べていた。たしかに、山ではカレーは旨いが、まさかこのとき、夕飯でカレーが出る(最近の山小屋ではまずお目にかかれない)とは、想像もしなかった。小屋の管理人はおじさん(自分もそうなのになんだかおかしいが)とおばさんの2人だった。最初、相部屋にいれられたが、まったく混んでいないため、廊下をはさんだ広めの部屋にわれわれ4名だけでいれてもらえた。荷物をとくと、もうビールしかない。500ml缶のビール(アサヒスーパードライ)の栓をぬいて、みんなで乾杯。きょうのアルバイトの慰労会をはじめた。この尾根には水場はないため、水もすべて小屋から購入になる。ペットボトル2リットルサイズで\700である。あとで、わかったことだが、あまり登山客が少ないせいもあってか、水の賞味期限も切れているものがあった。標高差があるのと長い尾根のため、夏場の人気はないみたいだ。冬山では、この尾根がよく使われるのだが。夕食は18:00から。メニューは少し前に書いたが、「カレー」であった。お代わりもあるというので、山路さんがお代わりしたら、ご飯だけだった。彼はテーブルにおいてある「ゆかり」をかけて食べていた。わたしは、それほどの空腹感はなかったので、そのままゆっくり食べて終わりにした。それよりも、2パックも担いできた日本酒を早く飲みたかった。

 夕食がすんで、またまた宴会。みんな自分のもってきたツマミを早く食べてもらい、荷物を軽くしたいのだろう、次々にだしてくる。夜も次第にふけてきて、外は星空のようであったが、小屋のオヤジさんの話では、明日は午前中くらいしかもたないらしい。とにかく、早出にこしたことはないので、4:30出発だ。これは、小屋に着いた瞬間に小屋のおばさんにもすぐにいわれてしまったことだが。別にいわれなくても、そのつもりで計画は立ててあった。わたしは、窓際の一角に静かに寝た(とおもう)。夜中にじつはそれなりにすごいことがおこっていたと知るのは、まだあとのことである。ま、それは、運よくわたしには関係のないことであったが。

■ついに、剱の穂先へ(8/1)

 早々朝の2:55に目が覚めた。途中では起きなかったので、十分に寝た。ちょうど山路さんも起きたようだ。彼は毎日のように「夜中は寝れなくて、1時間置きに目が覚めていた」というのが口癖である。実際に起きているのだろうが、わたしにはよくわからない。昼でも飲むとほどなく目を閉じてしまうから、おそらくそこで寝不足の補正がなされているのかもしれない。もう、30年近くの付き合いになるもっとも親しい先輩でもあるが、まだまだ未知の領域はのこっている。人間はよくわからない。「明日の起床は3:00だよ」とみんなで確認しても、他のメンバーはしっかり寝ている。とくに、甲地さんは宵っ張りなので、朝はしぶとい。指原さんは近年犬を飼うようになり、犬に朝の散歩を強要されるようになったせいか、比較的朝の行儀がよくなった。わたしといえば、朝だけは早い。もちろん、寝るのが早いからだ。

 ごそごそとみんな起きだして、朝ごはん。といっても、昨日食べ残したおにぎりをいただくだけ。味噌汁もなにもないので、パサパサして食べづらい。こういうときは、一口食べたら、水で流し込むのがいい。味なんて、こういうときはどうでもいい。とにかく、腹にしっかりと入れておかないと、岩場のところでは食べる余裕はない。きょうは800mのきつい登りだ。2600mより上部は、完全な岩登りになる。支度をおえて、4:30に小屋をあとにした。そのとき、どうもわたしを除く3名はある異変におそわれていたらしい。あとでいわれるまで、わたしは知らなかったが。

 前日にかなり汗もしぼり出し、身体も山に慣れてきていることが実感としてわかった。しかし、はるか上にみえる剱岳山頂まではさらにきびしい道が待っていることは、夜明け前の薄ぼんやりとした光景であっても、感じとれる。すでに、森林限界をすぎて、上部は多少の緑とあとは岩、岩、岩である。先頭をいくわたしではあるが、じつは、歩き出してから2600m地点までの記憶はかすかにあるが、そのあとの頂上直下までのことがどうしてもおもいだせない。長い鎖場の連続、岩をつかんでの登攀、などなど断片的にはおぼえているのだが、まるでいかれたスライドショーみたいな感じで文章にならない。とにかく、必死で登っていたとしか、いいようがない。岩場はきらいではないわたしでも、相当な集中をしていたらしい。減量しているとはいえ、若いときのようにはもう登れない。ただ、前日、汗をしぼりだし、足の調子もみておいたので、その面での心配はしていなかった。岩場では、不規則な呼吸をしいられた。

 最後の長い鎖場が終わると、ほどなく分岐をしめす標識がみえた。昨日ためしたヘアーバンドで汗をさえぎっているため、一度もレンズを拭かなかったが、そのメガネでしっかりとみえた。あと一息だ。分岐を左に進むと、5分ほどで祠のある剱岳山頂についた。時間は8:37だった。ほぼ4時間にわたる格闘のすえ、われわれ4人は頂上で握手した。山岳会の2度の挑戦をはねつけていた山頂が、そこにおだやかにあった。三度目の挑戦でようやく登頂できたことをみんなで祝った。プレートを抱えて、みんなで写真におさまった。山頂にはそれなりにひとはいたが、そのほとんどは室堂側からの登頂者だった。20分ほどうす曇のパノラマを堪能して、下山にかかることにした。この剱岳では、この下山時にほぼすべての遭難がおきている。みんな当然のことではあるが、いちように緊張している。分岐をまっすぐに行ったところから、それははじまる。

 剱岳山頂直下(別山尾根)には、「カニのタテバイ(登り)」「カニのヨコバイ(下り)」という垂直の岩壁がある。これは、早月尾根を下らない限りは、かならず通らねばならない関門である。登りのタテバイは、足場が見えるので、まだ比較的登りやすい。しかし、下りのヨコバイは、鎖にぶら下がって足場をさがす。この垂直に切れた岩から身を離すのが岩に慣れないひとにはむずかしい。恐怖心がかならずおきる。ちょうど、わたしたちのグループが分岐のすぐ先にあるヨコバイにかかるとき、もう何人かのひとたちが足止めしていた。すぐにわかったことだが、この下り専用のヨコバイをこともあろうに下から登ってきたひとがいたらしい。上下で口論していたのだ。まあ、お互い必死なのはわかるが、鎖一本で登る場所で口論していてもはじまらない。登ってきたひとが下にもどることで折り合いがついたようで、ひとが動きはじめた。ひとり、次にひとりと姿がきえてゆく。そして、自分の番だ。最初の鎖はわるい。鎖をつかんでおもいきって岩から身をはなすと、足場がみえる。が、それができないと足が宙に浮く。焦る→身をかたくする→ますます鎖にしがみつく、という悪循環になり、じつに怖いおもいをする。甲地さんがこれにはまってしまった。しかし、やはり山のつわもの。ほどなく落ち着きをとりもどし、あとはそこそこに落ち着いて、その悪場をやりすごすことができた。登りと下りの分岐のところで、みんなで休憩した。そこから今の岩場をみると、やはり「こりゃ、あぶないわい」と、緊張感をあらたにした。この先にも、まだまだ油断できない箇所はある。さいわいにして、天気はうす曇でまだ悪化の兆しはない。雨など降られた分には、もっとも危険な状態になる。早々に安全な地点まで急ぎたいのだが、ゆっくりとしかいけない。平蔵のコル、前剱大岩を登りきり、ようやく一息つける。が、その後もあちこちに鎖場はつづき、剣山荘や剱沢小屋が直下にみえる「一服剱(いっぷくつるぎ)」のピークで、ようやく本当にホッとした気分をあじわうことができた。

 当初の予定では、剱沢小屋に投宿するつもりで計画を立てた。が、登頂したときにはまだ9:00前。このときは、その勢いで一気に室堂経由で信濃大町温泉郷まで…などと虫のいいことをかんがえていた。しかし、時間のかかるこの岩場を通過しているうちに、みんな疲れてきて、最後は別山尾根のすぐ下にある剣山荘(けんざんそう)に落ち着いてしまった。剱沢小屋には以前にも泊まっているので、今回はちがうところへという気持ちもあった。宿がちかくなると、みんなの足も早くなる。とくに、わたしはそうだ。まだのこっていた鎖場もなんなくこなし、一目散に小屋をめざす。「生ビール?きっとあるよな…」などとかんがえながら。13:35に小屋のまえにすべりこんだ。山頂から4時間半ちかくもかかってしまっていた。剱はどの尾根もきびしかった。小屋には当然のように生ビールはあった。あせる気持ちをおさえ、冷静に投宿の手つづきをおえて、案内にしたがって、部屋にはいり、荷物を廊下にまとめた。もう、このあとはビールしかない。外で飲む?とかいっていたら、山路さんが室内のテーブルを確保、そこには本棚やカウンターもあるラウンジのようなところだ。いそいでツマミ類を用意して、テーブルへ。そして、念願の生ビールによる乾杯!長年、山岳会にとって目の上のたんこぶであった「剱岳」登頂を祝って、酒宴を開始した。

 夕食前には一旦酒宴をおえて、16:00から風呂にはいった。こんな山小屋に風呂があるなんて信じられないが、たしかにあった。ただし、石鹸はダメ。湯につかるだけである。ほんの5分程度であったが、じつにすっきりした。そのあと、しばらくして放送がはいり、食堂にむかった。今夜の山荘は剱岳山頂で聞いたうわさでは専門のシェフがいるという。期待して運ばれてくるトレーをみた。「あれ??これじゃ、ふつうの山小屋と同じだな…それともあとにメインが?」、しかし、それだけだった。山の上でへんな期待はしないほうがいい。食事はやはり質素にかぎる。夕食は早々におわった。われわれは、まだ飲み物もけっこうのこっていたので、そのあと場所をかえてダラダラと飲み会をつづけた。所期の目的は一応達成していたので、気持ちにもいくらかの余裕がでたのであろう。明日の下山時には注意が必要だが、コース上でとくに危険なところはない。ふらついて転落というような情けない状態にならなければ、まず大丈夫だ。いつものように、20:00過ぎには眠くなってしまった。

 さて、いままでくわしく書かないできたが、前日の早月小屋で何がおこったのか?それを知ったのは、この剣山荘に着いてからだった。わたしをのぞく3名のメンバーはさかんに足などを掻いている。最初は、蚊にさされたのかな?とおもっていたが、それならわたしも同様のはず。ところが、わたしはまったく平気だ。山路さん、甲地さん、指原さんの足には赤い点があちこちに。じつに痒そうだ。蚊にさされたのとは、どうもちがう。ほどなく、みんなの意見は「ダニだ!」で決まった。それにしても、わたしだけまったくさされなかったのは不思議だ。よほど虫に好かれないのか、わたしの布団だけ干した後だったのか、それはわからない。が、たしかに、わたしだけはこの難をのがれていた。痒いのは髪の毛のすくなくなった頭くらいなものである(風呂にははいったが頭は洗わなかった)。このダニ事件は、今回の山行でおこったおおきなナゾである。

 この夜は、明日の早朝から剱岳に登りにいくひともおおいので、じゃまにならないようにしずかに飲み、そして寝た。

■室堂へ、そして、再び大町温泉郷へ(8/2)

 8/2(火)は、みんなのんびりとした気分でおきた。山での食事の時間は下界にくらべれば早いため、のんびりといってもそれ相応に早い。しかし、あとは下山だけだというときには、だれかれなく気持ちはゆるんでいる。こういうときが一番あぶないのだが、そういうことをメンバーはみんな身にしみて知っているし、よけいなことはいう必要もない。早朝にほとんどのひとたちはでかけていった。下山するのは、われわれと少数のひとたちだけだ。たぶん6:30頃にゆっくりと小屋をでたと記憶している(この辺、下山となると不思議と記録があいまいになる…)。おおきな雪田がのこっており、それを3つほどトラバースした。危険箇所はまったくなかったが、こういうところでも、滑り落ちれば大変なケガになる。下手をすると即死である。山に安全な箇所などないのは、十分にしりつくしている。それでも、いつも事故が絶えないのは、ほんのちょっとした気のゆるみや油断からだ。もちろん、人間にはどうしようもない自然のいたずらもある。こればかりはどうしようもない。人知をこえたことに、対処はない。まあ、ふつうは問題なく行動できるのだが。この日も、うす曇のいい天気で、下山日和であった。

 別山乗越にある剱御前小舎までくると、剱岳とも実質的にはお別れだ。剱の全容がサービスサイズの写真におさまる、ちょうどそんな位置だ。岩肌にふれていたときの感覚とはまたちがう剱がそこにある。(閑話休題:今ほど(2005/08/08(月) 12:59)山路さんから携帯に電話がはいった。剱への山岳会の取り組みを訊ねられた。どうも、彼にもおもいちがいがあったようで、その旨を話した。こんなところにも、記録をきちんととっておく必要があるのがわかる。でも、その点、わたしは失格だ。)ここで、本当は剱に関する土産を何か買っておけばよかった。じつは、これから先はほとんど黒部・立山関係のものになり、剱は完全に埒外になる。それを知ったときは、すでにおそかった。剱に関することは、もう自分の目と頭とからだにしみこませておくしかない。めずらしく持っていったデジカメもまったくつかわなかった。高級なデジカメを用意してきた甲地さんと指原さんの前には、わたしの安物のデジカメはあまりに悲惨である。こころのカメラに撮っておくのがせいぜいだ。

 御前小舎からは転げるように室堂向けて降りていった。もう、そこは、登山者の場所ではなく、一般観光客の方たちの世界である。軽装のひとびとの中では、ザックを背にしたわれわれはむしろ不釣合いにみえてしまう。室堂のターミナルがちかづいて、ますますその感をつよくした。このターミナルで本当に登山はおわりになる。呼吸をととのえて、ターミナルの中へはいっていった。もう昼近くになっていた。

■謝辞

 今回もきびしい財政の中、気持ちよく旅費を工面してくれたカミさんに感謝したい。こんなわがままを長年つづけているわたしを今のところは見捨てないでくれているだけで、ありがたいことだとおもっている。

 山の仲間には何もいうことばがない。わたしのような自分勝手な人間に長いことつきあってくれ、しかも山という命がけのところにいっしょに行ってくれるなんて、気のいいのにもほどがある。人生のひとコマをこうして共有できることをいつも感謝している。年齢的には一番下のわたしに命を預けてくれるその度量のおおきさに感服している。この仲間たちといつまで登れるのかは、わたしにもわからない。ただ、足がうごくうちは老体にムチ打ってでも、登りつづけられれば幸いである。

 来年の山のこともそろそろかんがえようとしているが、いろんなひとに迷惑をかけながら登っていることも、本当はわかっている。わかっているけどやめられない。時期がくると、どうしても身体がうずく。それが、なくなったとき、山をやめたい。

 2005/08/08(月) 13:28 山路さんとほぼ同じ頃、書き終える。

■追記

 昨夜(2005/09/17(土))、山岳会の指原さんから夜に電話があり、「いまTVで夏山で登った早月尾根での遭難のことをやっているから、すぐ見てくれ」という。パソコンで音楽を聴いていたところであったが、すぐに階下に行き、TVをみた。ちょうど、わたしたちが早月尾根を登る前日にあった遭難の救助活動のようすをやっているところであった。早月小屋から数十分ほど尾根を登ったところに雪渓があり、そのすぐ上部に登山道がある。わたしも「ここは、ガスでもかかっていたら、危険だな」と感じたところであるが、まさに、その場所から滑落したらしい。年齢が62歳の女性の方であった。単独行だったのと、登頂してきて疲れがピークに達したところで、バランスを崩し、滑落したのかもしれない。救助に当たっていた富山県警山岳救助隊の方が雪渓を命がけで懸垂下降して200mほど降りたところで、遺体を発見された。遺体を尾根上にあげて、ヘリコプターで搬送するところをみたが、この作業自体がじつに危険なもので、ハラハラした。この尾根では、その後もまた遭難があり、男性の方が同じところで亡くなったときく。いずれも高齢者登山といわれる年代の方であった。若いときはなんでもない場所でも、からだの体力も極端におちる高齢になると、この尾根では、どこで事故がおきてもおかしくない。遺族の方々の沈痛なようすをみて、わが身をふりかえって、気持ちのひきしまるおもいであった。「岩と雪の殿堂」は老若男女とわず、平等にきびしい。亡くなられた方を責める資格はわたしにはない。どんなに体力をきたえ、装備を完全にしても、山はそんなことは意にかえさない。ただ、きびしいだけだ。

 わたしたちは、運よく安全にこの「剱岳」を登ることができたが、油断や疲れがあれば、いつおなじような遭難をおこしていたかもしれない。亡くなられた方には、ご冥福を祈るしかない。合掌。

 2005/09/18 (日) 9:23

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