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屋久島紀行


屋久島・宮之浦岳

■■はじめに
私たちの上飯田山岳会が2つ目に登った山が、九州の屋久島にある「宮之浦岳」である。ここに昭和53年10月2日発行の職場ニュースのコピーがあるが、特集として私たちの「屋久島紀行」が組まれている。また、別のページで触れるが、山路氏による「飯豊連峰縦走」の記録も載せられている。山岳会の中でパソコンでホームページを開いているのは私だけなので、このページを利用して、会員の記録なども紹介していこうと考え、この「屋久島紀行」を数人の方に登場してもらい、紹介したいと思う。

■■屋久島紀行(昭和53年10月2日)…原文のまま

其の一(甲地 行信 氏)

人は日常のマンネリズムから逃れたいと願うとき、旅に出たいと思うもののようである。一時的にせよ、旅はわが身を日常生活の谷間から未知の空間に漂泊させ、積日の塵埃を吹き払い、新たなる英気を身に纏う。旅とは昔も今も、「辿り日」である。

今夏の旅は、山路氏をリーダーに、大竹氏、松田氏、私の四名、春以来の登山計画が山路、大竹両氏の熱意で実現することになった。できるだけ旅の原点に立ち返り、登山も本来の姿でやろうということで一致した。つまり「辿り日」である。山路氏作成の旅行計画の「基本姿勢」の項には、「粗食を旨とし」「不便な長旅に耐えること」とある。ともあれ、準備を整え、四人心を一つにして、八月三日夕刻、酷暑の続く喧騒な横浜駅のホームにすべりこんできた、国鉄自慢のブルートレイン「富士号」に乗り込んだ。終点西鹿児島までまる一日の列車の旅の始まりである。

車内は明るく冷房が効いていて快適であった。早速缶ビールで出発を祝って乾杯。隣のお客さんは年輩の御夫婦で、お菓子やお茶を御馳走になったり、お喋りをしたり…。「旅は道づれ世は情け」列車の旅にはまだこの諺が生きているのはうれしい。夜十一時半頃まで車内販売のお酒で「男の話?」を肴に飲み、まだ見ぬ屋久島を夢に描きながら寝台にもぐりこんだ。「富士号」は予定通り四日午後六時二十六分西鹿児島駅に到着した。

ここで予期しないハプニングが起った。山路氏と私の乗ったタクシーが、目的地サンロイヤルホテル前でトランクに荷物を積んだまま走り去ってしまったのである。何はともあれタクシー会社へ電話し、無線で連絡してもらおうということにしたが、二人共会社名もナンバーも何も覚えていないという迂闊ぶり。後車で来た大竹氏・松田氏は鴨池という名だという。ホテルの人は第一交通じゃないかという。聞く人ごとに違う。人の証言ほどあてにならないものはない。でも後車のタクシーの運転手は商売柄ちゃんと覚えていて、あれは昭和市丸の無線のない車だと教えてくれた。このままホテルで待っていればそのうち運転手が気づいて戻ってきてくれますよ、と山路氏の友人(このホテルに勤めている)は気分を落ち着けるように言ってくれるけど、じっとして待つよりは、駅に戻って運転手の顔を思い浮かべながら探すことにした。こうして大竹氏・松田氏・私の三人は西鹿児島駅構内で約五百台のタクシーを相手に犯人を追って張り込み?を開始した。時刻は夏の夕暮れどき七時近かった。三人で手分けして客待ちをしているタクシーピットを一台一台見て回る。ピット内は残暑と排気熱でムンムンす る。そのうち同じ会社の運転手が客を待つ間一緒に探してくれる。ここにも東京や横浜では味わえない人情の厚さを感じる。張り込んで三時間近く経って、空腹と疲労で今日はもう諦めようと山路氏とその友人と相談し出した頃、松田氏が叫んだ。「あった!あった!」…全員一斉に駆けつける。犯人?の運転手は「トランクに荷物を積んだのをすっかり忘れていました。どうも申し訳ありません。」と平身低頭して詫びた。周りに集まった運転手の中には、「我々もよく忘れることがあるからな。」とつぶやく。「これで屋久島に行けば何かいいことある…」と一人の運転手が慰めの言葉をかけてくれた。なぜかこの言葉を聞いたら、今までの苦労と心配がスウーと体から抜けていくように感じた。

其の二(大竹 一弥)

八月六日早朝に、ぼくらは屋久島ユースホステルを出発した。安房川に沿うトロッコ道を半日歩き、かつて屋久杉伐採の中心であった小杉谷に入る頃には、名物の雨も止み、はるか遠くには、めざす宮之浦岳も望めた。

ここから尾根に取り付く途中には、ウィルソン株、大王杉、夫婦杉そして七千年の樹齢を誇る縄文杉が見られる。今夜の宿、高塚小屋に着いたのは夕刻近くで、急いで食事を取り休むことにした。歯ぎしり、寝言、いびきの入り交じったすごい夜であった。

翌日は、天に感謝するべき好天である。心はすでに山頂に飛んでいるが、そこはじっと堪え、ゆっくり登って行く。植物の垂直分布が見事に見られる中を登り降りしてゆくと、写真で何度もながめ、頭に焼き付いた永田・宮之浦の両岳が真近にせまって来た。そこはもうグリーンを敷き詰めたようなヤクザサと花崗岩の世界である。

「あ〜あ、とうとう来てしまった。又、バカなことをしてしまった。」山路先生は、なつかしそうな感じ。松田先生は、朝食抜きがきいたのか、疲れ気味である。それぞれの思いを込めて、山頂に立った。九時頃だった。南の青い海が四方を囲み、種子島も細長く海にはりついている。

「いいなー!実にいい。」まさか、雨の屋久島でこんな光景を見られるなんて考えもしなかっただけに、ぼくはシャッターを押し続けた。「イッヒヒ、スライドが楽しみじゃわい。」

帰りは下についてからの夢?を各自頭に抱いて、タラタラ降りて来た。その晩は、山小屋でもない所に、厚かましくも泊まることになったが、手の届く場所にビールがあるのは毒である。一同、ジーと堪える。

今回のメインイベントは、永田浜である。ぼくは、生まれて始めて海で泳いだ。それもあの素晴らしい浜で…。海の水というのは、あんなに塩っぱいのか!実に驚いた。「ホラからでた旅行。」実によい旅だった。

屋久島トロッコ道 (松田 和敏 氏)

屋久島ユースホステルを起床、まだ暗いうちに、四人は前の晩に作ってもらった梅干入りの弁当を持って、潮風の吹く浜辺を、星空を見ながら、並んで歩き出した。文字通り海抜0メートルからの宮之浦岳登山は、安房町のわきを流れる安房川に沿った、トロッコ道の上を一日かけて登ることから始まった。

この道は、トロッコ専用の鉄道で、立入禁止となっている事は、「立札」で確認、しかし無視して進む。うっそうとした杉木立をもった山々は目前に広がり九州の最高峰・宮之浦岳は、山の奥のその又奥にあり、前途は長い。米や缶詰、衣類の入った重い荷物は肩にくいこみ通し、枕木の間隔と足の歩幅の間隔が違うので、リズムは狂いぱなし。山路先生、甲地先生に遅れることしきり、大竹先生に後についてもらっているが、先行きに不安を感じ始めた。島名物の雨が降り出してきた。降ったりやんだりする雨である。

途中、トロッコの作業員に注意されたり、「ハッパ危険」といった立札を見たが、それでもどんどん行く。山路先生はウサギのように、ピョンピョン走り歩き、まるでこちらは亀になったようである。いくつもの橋を渡り、何回も湧き水を飲み、滝を見、喉の渇きを潤す事しきり。途中、野生ザルの大群に出会う。動物園のものとは違い、美しい毛を持つ屋久ザルである。孫悟空の話の素地を見る思いがした。荒れはてた小学校跡を見たり三代杉と呼ばれる、杉の上に杉が三代に渡ってはえている大杉のそばを通った。その杉は孫といつまでもいっしょに生きてゆくのだろう。人の常識では考えられない。

三代杉を過ぎた頃、めざす宮之浦岳の頭が見えた。それはまるでラクダの瘤を思わせる。いっせいに歓声をあげた。先程の雨もあがり、快晴。足がいいかげん言う事を聞かなくなった頃、宮之浦岳登山口にたどりついた。そこで大休止、川の冷たい流れに足をひたす。この登山口まで延々六時間、トロッコ道はこれで終わるが、本当の登山はこれからだった。

全行程、先生方にはお世話になりっぱなしで、第一日目泊の高塚小屋までの道を、無事終える事が出来た。自然の残酷さと、素晴らしさに打たれながら、小屋に着くと、疲れて横になったら、自分でも気づかないうちに眠り込んでしまった。他の先生方は、食事の事、明日の計画など、大変だったに違いない。僕は疲れて、夢の中。


■■終わりに

以上、3氏の登山報告で当時のようすはご想像できると思う。実は、今でもときどき当人からは責められているのだが、この屋久島・宮之浦岳登山にはもう1つの報告があった。この山の登山計画を綿密に立ててくれた山路氏のものがそれである。私がそれを受け取り冊子にまとめる予定でいたのだが、氏には申し訳ない事にどこかに紛失してしまったのある。氏の力作は私の「うっかり」で20年近くも行方知れずになっている。酒の席で、この話題が出ることを私は毎回恐れている。

「山路さん、許してください!みんなぼくが悪いのです。そのうち?きっと出てきますから…」

なお、著作権の問題もあるが、上に載せてもらった甲地氏・松田氏には、このホームページに載せることはまだ許可を得ていない。がしかし、まとめ役という「特権」を行使して事後報告ということで許してもらおうと思っている。20年ぶりに蘇ったこれらの文章は吾が山岳会の財産でもあり、ここに紹介させていただく価値のあるものと思う。

1998年3月25日(文責:大竹 一弥)

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