TopPage


雑感2005(その1)




■2005/04/24(日) 10:58 ウィルスバスター2005にやられた!

 もうTVや新聞のニュースでもとりあげられているのでご存知だろうが、コンピュータのウィルス対策のためのソフト「ウィルスバスター」がこともあろうに、ウィルスとおなじことをしてしまった。わたしのパソコンもその被害にあい、昨日の午前中はその対策で大変だった。自動更新に設定してあるので、いつものようにメールをみている途中で、そのパタンファイルとモジュールの更新がはいった。再起動のメッセージがでたので、それにしたがった。再起動がおわってほどなく、PCのうごきに異変が生じた。ひとつの処理動作がどんどんおそくなり、しまいにはほとんどうごかなくなった。「Ctrl+Alt+Delete」キーを押して、PCのパフォーマンスをみると、CPUの利用率が100%になっていた。何かの作業をCPUがかってにしているようで、それがとまらない。CPUの温度センサーがどんどんあがっていく。これは、完全にプログラム上で暴走がはじまり、とまらなくなっているからだ。

 最初は自分のパソコンだけの現象かとおもっていたが、その日わたしの家にくることになっていた友人の佐々木くんに電話をいれたら、彼のパソコンでもおなじ現象がおきているという。彼も「ウィルスバスター2005」をつかっている。これは、まずまちがいなくこのソフトの更新の際に、なにかこういう現象をひきおこす更新ファイルが流れてきたとおもったが、あいにくの休日でトレンドマイクロ社への電話も留守番電話にしかつながらない。パソコンの電源を強制的にとめて、再起動してみても、現象はおなじ。最後には起動しても、アイコンもツールバーも表示されない。もう、じれったいほどの時間が流れた。と、と、突然、ウィルスバスター2005の更新をつげるホップアップメニューが現れ、パタンファイルとモジュールのダウンロードがはじまった。それからが長かった。ダウンロードしたファイルをインストールするのだが、これがなかなかおわらない。じつは、ほどなくおわっていたのだが、再起動をつげるメッセージがホップアップメニューの後ろに隠れていてみえなかったのだ。それに気づいて、再起動。PCが再度立ち上がるのをまって、おそるおそる操作にはいると、なおっていた。CPUの温度センサーもいつもの20℃前後をしめしている。うごきはまったく正常になった。まさに「ミイラ取りがミイラになった」とはこのことだ。

 今朝の新聞やネット上のニュースでは、原因はパタンファイルの作成後、テストで正常にうごくのを確認してから配布するという、まったくの基本中の基本をしていなかったという。いくら、いろいろなウィルスが目白押しにでてきており、それへの対処に忙しかったと言い訳しても、本物のウィルスとおなじ現象をひきおこすようなファイルをウィルス対策ソフトの会社が流すようではじつにこまる。おそらく人員削減できびしい仕事環境のなかで仕事をしているプログラマーたちが不注意でしてしまったことなのだろうが、責任は重大である。個人を責める気にはなれないが、会社の姿勢は責められても仕方ないだろう。まさに、「ピーターの法則」を地で行くようなコンピュータ社会の出来事だった。それにしても、最初は本当におどろいた。(-_-;)

■2005/04/18(月) 07:37 自宅PCアップグレード

 ことしの1月23日に自宅のパソコンにいれてある「ウィルスバスター2004」を「2005」にバージョンアップした。そうしたら、それまで異常動作のなかったパソコンがネットに接続していると途中で突然フリーズしたり、再起動がかかったりという不安定な動きをするようになってしまった。メカ的にはまったく問題のないことは確認していたので、どうもこれは相当にいじくりまわしたWindows98SEをOSとしてつかっているせいかと困っていた。友人の佐々木くんに相談すると、「もうネットについていけなくなっているので、そろそろOSをWindows XP Proに換えたほうがいいのでは…」というアドバイスをうけた。そうかもしれない。職場でつかっているパソコンはネットには接続しないで、スタンドアロンでつかっているので、とても安定している。しかし、自宅でつかっているパソコンはネットに常時接続だし、動作が不安定になっているのでは、安心してつかえない。マイクロトレンドのHPでいくら調べても、わたしのようなトラブルに対するサポートはまったく期待できない。それからは、これまでのPC環境をいかにして継続するかたちで次のXPに移行するか、を佐々木くんとも何度も相談した。ちょうど、職場の人事異動が決まる時期ともかさなっていたため、時期的にはよくない。異動の結果がわかり、もし異動しても、少しおちついてからこの移行作業ができればな、と自分ではかんがえていた。どういう方法がもっとも無理のないかを何度もかんがえ、けっこう悩んだ。いままでにも同じようなことは経験してきたが、そのことからもすんなりとOSを入れ替えられるとはおもえなかった。彼との相談のなかでもお互いの意見はなかなか一致しなかった。最終的にはわたしが決断すべきことだが、こういう作業を頻繁にしている彼の意見はとても貴重だった。

 結果的には異常現象のでているWindows98SEにそのままWindows XPをそのまま上書きする形でのインストールは避けた。そっくり移行するのをあきらめて、今までのデータだけを活用することにして、あらたな起動用HDDを160GBのものにして、それにOSとして「Windows XP Professional Edition SP2」をまっさらな状態でインストールすることにした。そして、いままでのHDDはデータ用としてつかうようにした。Windows XPからは98SEの「FAT32」形式のファイルは見える(そのままつかえる。逆は見えない)ため、ふつうにそれまでのリソースが利用できる。それだけでも大助かりだ。おもにつかうアプリケーションソフト類は再インストールが必要だが、OSさえはいってしまえば、あとはなんとでもなる。

 作業は土日の2日がかりでやったが、致命的なヘマもしてしまい、あたらしいマザーボードをあわてて買いにでるという大失態。それでも、なんとかのりきって、OSをしっかりいれて、デバイス類もきちんとインストールできた。このついでといってはなんだが、失態を利用してメモリ増設をはかり、512MB×2=1024MB=1GBにした。これで気分的にはすっかり元手をとったかんじだ。その他もろもろの単純なミスもあったが、なんとか初期の目的点にはたっすることができたようで、ほっとしている。あとは、わたしの趣味である「Flight Simulator」がきちんとうごいてくれれば、大感激である。それも、あとしばらくで可能になるだろう。データ用にのこしておいたHDDもしっかりと認識されているので、問題なくつかえる。以前とおなじ環境にもどすのには(あまりに過去をひきずっているので、もうすっきりと掃除したほうがいいのだが…)、今月いっぱいはかかるかもしれない。しかし、HPの更新のほうはなんとかメドがたってきたので、そう長く空白をつくらずにすむとおもっている。それにしても、パソコンでも引越しは大変なことだとつくづくかんじる。

■2005/04/13(水) 17:20 部活動がさかん

 4月からの勤務校も部活動がじつにさかんだ。ことしの新入生もこの時期はどの部活動にはいるか、まよっているみたいだ。わたしは迷うもなにもなく、転勤してきたら、剣道部と吹奏楽部の顧問になっていた。とくに、希望などいわなかったから、前任者の担当していたところに空きができ、そこにいれられたのだろう。今度の高校も前任校とおなじで、教員は運動部と文化部の顧問を1つずつ計2つもつことになっているようだ。これは、とくに明記されているわけではなくて、暗黙の約束みたいなものだとおもう。部活動は勤務時間外にかかるため、無理強いはできないが、オタガイサマみたいな雰囲気があるので、とくに固辞する理由がなければ、なんとなくもってしまうという流れになっている。前任校は地理的にも時間的にも通勤が大変だったため、正直なところ、部活動の顧問として勤務時間後も19:00近くまで残るのは、つらかった。若いときならいざしらず、これでは自分の睡眠時間もけずることになるからだ。

 この4月から転勤してきたこの高校は、自宅もちかいせいか、勤務時間後の帰宅も心配がほとんどないため、水曜日の部活担当(上記2つの)として、残ることになった。そういうわけで、きょうはまだ物理室で実験用の器具の掃除をしたり、プリントの用意をしたりして、のんびりと部活のおわるのをまっている。今も、対面にある校舎の最上階からは吹奏楽部の練習する曲が聞こえてきている。部員も新入生はまだこれからとしても、それでも60名ちかくいるから、かなりの演奏ができる。わたしは顧問といっても、なんの指導もできないから、ただ校内にいて、部活のおわりの連絡をまっているだけだ。ただじっとしているわけもいかないから、授業の準備をしたり、本を読んだりなどして、時間をすごしている。剣道部はすでに練習をおえている。

 こうして自宅と職場の距離と時間がちかくなってはじめておもうのだが、やはり部活動などの勤務時間外の活動をみるのは、それらの条件のきびしいひとにとっては、大変なことだなーということだ。あと数分で18:00になるが、となりの物理実験室ではソフトテニス部の生徒たちがビデオをみて、研究中のようだ。外は雨なので、室内での部活動になったのだろう。わたしは、パソコンにむかったり、プリントを印刷したりとおちつきがない。これからまた、車修理を頼んでいるディーラーに電話をしないといけない。部活動がおわり、生徒の帰宅を確認するまではまだ1時間ある。それから帰宅しても、まだ宵の口である。

■2005/04/09(土) 07:51 土曜の朝は物理室で

 4:00におきて、すこしうごきまわっていたが、そうそうやることもない。7:00に学校が開くことは、昨日、事務で確認しておいたので、散歩がてら物理室によることにした。べつに授業の準備をするとか仕事をするとかではない。4/1に「ひょっとすると自分の書斎のようになるかもしれない」とかんじたが、まさにそのとおりになりそうだ。まだ自宅ではみんな寝静まっているから、こうして10分ほどで学校へきて、ぶらぶら好きな本を読んだり、実験室にある道具をいじったりするのは楽しい。仕事にきているなんて意識はないから、まあ、わたしの研究室みたいなものである。税金で建てられた学校を私物化しているようで申し訳ない気持ちもあるが、それなりに授業のこともかんがえてはいるので、ゆるしてもらえるだろう。来週からは土曜日の部活動もはいってくる。そうなると、多少仕事の意識はでてくるが、なにせわたしにとっては散歩であるいている経路に学校があるため、ついふらふらとはいってきて、こうしてパソコンで駄文を書いたり、読書をしたり、コーヒーを飲んだりということになる。まだ、転勤してきて10日にもならないのに、もうすっかり居ついてしまった。こうして、パソコンの音しか聞こえないしずかな物理室でこころやすらかに朝の陽射しをあびていられるのは、ほんとうに幸せである。教員としての最後の時期をこういう恵まれた環境ですごすことができるのは、幸運としかおもえない。

 教員になったとき、「生涯一教員」ですごそうと決めた。管理職などは、自分には向いていないし、好きな物理や数学を教えて、生活がなりたつのならそれこそ天職だとおもった。もうこの仕事のゴールもそう遠くない位置にすこしずつみえてきた。教え方がとくにうまいわけでもない自分にとって、ただ物理が好きだという気持ちだけでやってきたようにおもう。物理を学んでくれる生徒さんたちは、わたしにとっては評価をつける対象というよりは、自分の若き日をおもいださせてくれる吾が子のような存在である。できうるかぎり、かれらの才能がおもう存分のびていってくれるように多少なりともお手伝いができれば、それで本望である。いま、この部屋でこれを書いていると、教えるという現場で頑張りとおしてきたことにまちがいはなかったとつくづくおもう。実験器具が散在しているこの物理室でコーヒーを飲みながら、来週はどんな授業をしようかとかんがえているときが、至福のときである。

■2005/04/04(月) 08:12 仕事はじめ

 けさから仕事モードにきりかえた。あたらしい勤務校へいつもどおりの時間で出勤してきた。といっても、つい先日までは6:15に家をでて、7:15ごろに職場につく、というスタイルだったが、家をでる時間は7:00にした。職場まではふつうに歩いて13分だ。けさは雨に打たれながらのんびりと歩いてきたので、ちょうど7:15に職場についた。当然のことながらだれも出勤などしてなかった。代行員の方が事務室でくつろいでいたので、あさの挨拶をして、そのまま物理準備室へ。ふつうなら、職員室にある出勤簿にまっさきに押印するのが習慣であるが、まだ出勤簿は前任校にある。今度の7日にある離任式の際にうけとってくることになる。こういう事務的なことは、歯磨きの習慣みたいなもので、なにもなやむことではない。毎日機械的にすませていれば、ひとりでになれてしまう。

 あすに始業式があり、そこで着任式もおこなわれる。在校生(新入生は6日に入学式がある)に紹介されるのだが、いつもながらこういう式は苦手である。壇上でおおくの生徒たちの視線をあびるのは、正直なところつらい。が、これも仕事の一部だし、やむをえない。ただ、幸いなことに、わたしより年配の方がおられたようで、職員・生徒への代表挨拶はまぬがれた。ホッとした。あとは、おとなしそうにじっとしていれば、式はおわるだろう。

 本格的な仕事はあすからはじまる。気持ちもあらたにこの学校で仕事にはげんでいきたい。なにせ、ほんとうに地元の学校なので、なにかあれば、自宅にばればれだ。内気で内向的で消極的な性格をフルに利用して、目立たない生活をしようとおもっている。

■2005/04/03(日) 16:53 花見(1回目)

 昨日、我が山岳会恒例の「花見」がおこなわれた。当初はおくれぎみの開花を予想し、4/9(土)にやる予定でいたが、ころころかわる開花予想にまどわされ、4/2(土)に変更しておこなった。しかし、予想はみごとにはずれで、つぼみのままの桜をみながら、酒だけしっかりのんで、おわってしまった。1本だけ少し開花している木はあったが、これもまだ気持ち程度であった。やはり、山路さんのいうとおりに4/9(土)にしておけばよかったと悔やんでみても、あとの祭りである。こうなると、もう1回やるしかないなーなどという気になっている。

 その肝心の山路さん(山岳会の会長)は、諸事情で参加できなかった。このところ、身辺でいろいろなことが次々とおこり、長いつきあいのわたしとしても、彼のことが心配でたまらない。と、ここまで書いていたら、電話。でるとなんと!その山路さんであった。きょうの昼過ぎに奥さんの実家のある秋田からもどったという。さっそく、このなんともなさけない「花見」のことをはなしたら、「それじゃ、再度4/9(土)にやるしかないなー」ということになり、すぐに話はまとまった。長旅からもどったにしては、声は元気でホッとした。これで、来週の土曜日がまた楽しみになった。

 というわけで、ことしはこれで花見もおわりか…、とちと残念におもっていたが、再度トライすることになり、転勤でのストレスからいつもの「うつ気味」であった気持ちが一転してやる気がでてきた。この辺は、まこと恥ずかしながら、わたしは単純な男だなーと自分ひとりで笑いがこみあげてきてしまった。それにしても、ことしは花見が二度たのしめる。(^^)v

■2005/04/01(金) 12:16 転勤

 いままで、ひとごとのように転勤ばなしを書いていたが、本日よりわたし自身が転勤してあたらしい学校へうつることになった。朝はやくから前任校からもってきた荷物を職員玄関のなかにはこびいれた。少しへまをして3回往復して(といっても、車で自宅から5分ほど)おもな荷物を移動させた。転勤ももう7回目になるため、要領はいいほうだろうが、それでもかなりの量の書籍類などは処分せざるをえなかった。初日はこのあと14:00から辞令交付式があり、正式に辞令をもらう。そのあとは、今度の学校のことがらについて、いろいろな方々から説明をいただくことになる。全日制普通科の高校からおなじ全日制普通科の高校への転勤なので、仕事内容はほぼおなじであるが、まあ、あたらしいひとたちとの出会いがあり、けっこう気づかれはする。でも、これも時間がたてば、ひとりでになれていくだろう。いままでの経験でもそうだった。

 きょうの仕事の目標は、運びこんだパソコンをつい先日までの職場でつかっていた状態とおなじ環境にととのえることだった。さいわい、今度の物理準備室は5階建の2階にあり、階段をひとつ上がるだけでいい。台車を借りて、階段下まで荷物を移動させておき、2階にもおおきな台車(これは物理科でつかっているもの)を用意しておき、どんどん運び上げて、おもったよりかんたんに移動がすんだ。パソコンをセットするのは、それほどの時間はかからなかったが、どういう配置にするかですこし悩んだ。でも、とりあえずセットしてみて、気にいらなければまたあとで、とかんがえて短時間でセットをおえた。起動してみると、問題なくうごいた。ホッとした。これで、いつもどおりの仕事ができる。書籍類などは、ビニール袋にいれたまま、スチール棚につみあげておいた。気がむけば、なかから必要なものはとりだせばいい。

 あたらしい職場になれるには、またしばらくはかかる。しかし、通勤の問題が消滅したので、気持ちは楽である。なにせ、自宅から田んぼ道を歩いて10分くらいだから、のどかな気分で通勤できる。書斎をもたないわたしにとって、この物理準備室はわたしの書斎のようになるかもしれない。こういう職場に転勤できて、ほんとうにラッキーであった。初日では、まだ実感がわかないが、これからじわじわとそのありがたさもわかってくるはずだ。本日より勤務時間もかわり、8:30〜17:15になったが、時間のことはまったく気にならない。帰りたいときにのんびりと帰っても、すぐに自宅についてしまうのだから。だれに感謝していいのかわからないが、すなおに感謝の念がわいてくる。

 もどる

■2005/03/22(火) 07:45 三回忌

 先週の19日(土)に実家のある会津で父の三回忌の法要をおこなった。その日、早朝4:30に神奈川の自宅を家族とともに車で出発。いつものように、東名をつかって首都高速にはいり、東北道にはいる。ここまでは順調にはしる。蓮田SAで朝食をとり、さて、次の那須高原SAまで快調にとばそうとおもって高速にもどると、おかしい。車がどんどん渋滞してくる。道路の上の表示に事故発生が2件もでているではないか!「おいおい、こんな朝っぱらから事故おこすよな…」などとぶつくさ文句をいいながら、タラタラとはしりつづける。なにもなければ、高速道だけを利用して、ふつうは5時間ほどでつけるので、9:30には会津につく予定でいた。ところが、この事故の影響で、時間はどんどんおくれていく。1件目の事故現場につくと、ベンツにトラックが後ろから激突したみたいで、ベンツの後ろが完全に破壊されていた。そこをすぎても一向に渋滞はつづき、結局栃木ICすぎまでまったくのノロノロ運転になってしまった。その後は、徐々にふつうの状態にもどった。それまでの時間をとりもどるためにも、やむなくかなりのスピードではしった。那須高原あたりからは雪もふりはじめた。この時期としてはめずらしい。郡山西JCから磐越道にはいる。磐梯熱海をすぎるともう白銀の世界になっていた。タイヤはスタッドレスにしてあるので心配はないが、それでもスピードはおさえ気味にする。トンネルをいくつもぬけて猪苗代にはいると、そこは完全な冬の景色であった。磐梯山も真っ白である。そのまま、盆地になっている会津にすべるようにおりてゆき、会津若松市内にある姉の家に直行。11:50に予定より2時間以上もおくれてようやく到着した。

 ほんとうは、はやめについて少し仮眠でも、とおもっていたが、到着がおくれたため、荷物を運び入れると、すぐに式服に着替えた。14:00からは法要がはじまるからだ。全員バタバタと準備にかかる。前回の一周忌では、「位牌」をお寺さんへもっていくのを忘れるというヘマをしているので、今回は入念にチェック。準備をととのえて時間をまつ。ところが、父方の親戚はものすごく行動が早いひとたちで、もうすでにお寺さんにあつまっているという情報がはいった。またせるのは失礼だと、これまた気ぜわしく予定時間よりもかなり早くお寺にむかうことになった。車に「位牌と写真」をつんだことをしっかり確認して出発。子どもたちは、後続の車におねがいして、とにかくお寺さんへ。会津若松市内は一方通行が多いので、土地勘のないひとにははしりづらいが、わたしはその点はまったく問題がない。10分ほどでお寺につき、控え所で父方の親戚たちとていねいにあいさつをかわす。つい1月の伯母の葬儀のときも会っているので、なじみの顔ばかり。檀家の長をしている伯父さんが到着すると、かって知ったるお寺。どこからか、お酒までだして、「まあ、いいんじゃねえか」とお酒の好きな父方の親戚にふるまいはじめる。みんなちびりちびりやっている。わたしは、しだいにあつまってくる親戚にあいさつをして、法要の開始をまった。

 時間通りに法要ははじまった。わたしの家は「天台宗」なので、そのもとのお経は、法華経である。岩波文庫の『法華経 上中下』や『お経 天台宗』などという本はいちおう読んでいるので、お経の意味はなんとかわかる。この日の坊さんは気合がはいっており、お経も長かった。わたしには自覚はなかったが、周囲のひとがあとからいうに、相当におおきな船をこいでいたとのこと。正座している足のしびれも乗りこえるほどの船だったから、さもありなんと苦笑した。焼香のトップはわたしなので、ふらふらしながら、なんとかおえた。みなさん焼香をおえたところで、法要の式はおわった。塔婆をもらい、お坊さんにお布施と塔婆代をわたして、お寺さんをあとにした。

 次に場所をお墓にかえるために、移動。我が家のお墓は、会津鶴ヶ城のすぐ南にあり、眺めもすこぶるいい。周囲にはまだつぼみのままの桜がある。この桜が咲くころはほんとうにすばらしい光景がみられる。まだ、父と母しかお墓にははいっていないが、わたしもいずれこのお墓にはいる。そのときが、たのしみである。どんなにワルあがきをしても、最後はこのお墓にくる。なんといっても、このお墓はわたしがつくったものだからだ。ここでもみんなで焼香をして、そして、法要はすべておわった。このあとは、「供養膳」とかいわれている食事会である。またまた場所を移動して、予約のいれてある料亭に向かう。今度は、お城の北側にある。わたしは、来てもらった親戚の方々へのあいさつやお酌の役があるので、ほとんど飲めない。挨拶はいろいろかんがえたが、結局すべて船をこいでいるうちに忘れてしまい、おもいつくままのなさけない内容でお茶をにごした。父方の本家の従兄弟に献杯の発声を頼み、いよいよ懇親会に。ビールは少しだけで、お酒を飲むひとがおおい。わたしも多少はのんだが、親戚のひとたちはすごい。2時間びっちりのんでいた。わたしは、お膳の上のものにはほとんど手をつける時間がなくて、マグロの刺身2切れとゴマ豆腐みたいなものだけ口にした。ひさしぶりに会うひともいたので、あとは適度にのむだけ。夜になり、みんなそれぞれ帰っていった。わたしたち、のんべえグループは最後までのんでいた。姉の家に泊まることになっていたので、そこへもどってからは本格的にのんだ。会津の酒はやはりうまい。ほどよい気分になったころ、最後の親戚を送り出し、そして、ねた。

 こうして、三回忌の法要も無事おわった。法要のたびに会津に帰らなければならないのは、ちと面倒だが、これもわたしの大切な勤めである。わたしの息子の代にはこういうことはやらないとおもうが、まあ、わたしの代まではやろうとおもっている。こうして、わたしが元気でやっているのも、陰で支えてくれているこういうあたたかい親戚の方々がいるおかげであることはまちがいない。わたしには「家」とかいう観念はあまりないのだが、親戚があつまると自分にじつによく似ているひとがおおく、遺伝子の影響をもろにかんじる。親戚の方たちとはなしをして、ずいぶんといろんな過去のいきさつも知った。親父のこと、母親のこと、今の実家が建つ経過など。こういうことを両親と話す時間をわたしはもてなかった。その埋め合せを現在しているみたいだ。次回は七回忌である。そのとき、また全員にあえることを願っている。

■2005/03/15(火) 14:56 転勤シーズン

 ついさきほど、クラスの生徒の欠席日数をしらべに職員室にいったら、あまりひと気がなかった。あれ?とおもい、出張黒板をみたら、「おお!かなり出かけているな〜!」と合点。出張の行き先には「事務連絡」とかいてある。これは、合言葉のようなもので「これから転出予定の学校へ校長面接兼教科打合せにいってきます」という意味である。これをみれば、ことしだれが転勤するのかもほぼわかる。昨日は、わたしの勤務する高校へも今度転勤してこられる方々が次々ときておられた。生徒たちはすでに午前中の授業になっており、部活動などでのこっているもの以外は、帰宅していない。校内もしずまりかえっている。その廊下を、教科の主任の方に引率されて、新しく異動してこられるひとたちが行き来している。例年のことながら、もうこういう時期になったんだなーと節のかわりめを実感する。

 正式な転勤の辞令交付は4月1日であるが、新聞には前日の3/31づけの朝刊で発表になる。最近はおなじ職場でも口外するひとはほとんどいないので、この新聞発表で「あのひとはここへ異動するのか…」などと知る。無事定年をむかえるひともこれで知ることがおおい。教員にとっては、異動は会社を変わるみたいなものなので、異動する場所によっては悲喜こもごもの感情がともなう。うれしい転勤、かなしい転勤、おもいもかけない転勤などなど…。それぞれのひとの人生にかなりの影響をおよぼすものである。新学期がはじまって生徒の顔を目の前にするようになれば、もうそんな感情にひたっているヒマはないのだが、はじまるまでの数日間は不安と期待のまじった複雑な心境になる。これは、何回経験してもおなじだろう。

 この時期だけは会社などに勤めるひとも学校などに勤めるひとも同じような気持ちになるのではないかとおもう。まさに、これからの半月ほどは転勤シーズンである。

■2005/03/14(月) 08:02 温泉旅行

 Y氏から誘いがあり(といってもわたしのほうが企画を頼んだような気がするが)、土曜日の午後からでかけて、箱根へ温泉にはいりにいってきた。メンバーは総勢9名で福島県関係者が8名(+北海道1)というローカルなものである。Y氏は学生時代に福島県学生寮というのにはいっていた。そのときの寮仲間の集まりがあり、それにわたしも会津出身というので、便乗してゆくことがふえている。今回は母校(会津高校)の先輩がお二人きていて、楽しいひとときを過ごすことができた。ほとんどの方はわたしの世代より上の方々で、いわゆる「団塊の世代」に属するひとたちだ。あと、数年で定年をむかえるという世代でもある。会社の社長さんあり、大企業の取締役あり、県庁の局長クラスの方などさまざまだ。ただ、そういう肩書きは、ここではまったく関係なく、みんなでたわいもない話をして酒をのみ、風呂にはいる。男だけではあるが、のんびりおつきあいできるのが負担にならない。現地集合で現地解散というのも、気楽でいい。

 ことしは、年明け早々からいろんなことがあり、ちょっと疲れ気味でもあった。ちょどいいタイミングで箱根温泉の旅ができたので、満足している。なかなか予約のとれない宿がY氏の尽力で安くとれたのにはおどろいた。一泊二食で(けっこうお酒も頼んだ)一人6000円前後の費用であった。いやはや申し訳ないほどのいい宿であった。温泉も正真正銘の硫酸泉(pH=2.6、源泉76℃、浴槽42℃)のいい湯であった。わたしは3回入浴した。家では「カラスの行水」であるわたしも、こういうときはしっかりとはいる。たまの温泉はほんとうに生き返る気分になる。

 土日でこの温泉旅行にでかけたので、ひさしぶりにHPの更新もしなかった。来週も父の三回忌で会津に行くため、2週つづけて更新は休みになる。まあ、ときどきはこういうときがあってもいいだろう。

■2005/03/08(火) 07:43 別れと出会い

 3月と4月は別れと出会いの時期である(この日本では)。先日も3年生が卒業していった。そして、まもなく新しい生徒たちが入学してくる。別れは出会いとセットになっているようで、教員としてみていると、「生徒」という集団が目の前をとおりすぎていくような印象をつよくもっている。生徒たちにも出会いがあれば、別れもある。同じように教員にも出会いがあれば、別れもある。何かの歌だろうが「会うは別れのはじめとは…」という歌詞があったようにおもう。ひとと出会い、そして別れていく。別れては、また出会う。そういうのをくりかえしながら、ときはすぎてゆくのだろう。もう、この歳になると若いころのような厭世観をもったりはしない。無常観もかんじない。むしろ、それが当たり前のことのようにおもえてくる。

 わたしもおおくの出会いと別れを経験してきた。もちろん、これからもそうだろう。あたらしい出会いにはよろこびもし、つらい別れには涙する。喜怒哀楽を表面にだすのをあまり好ましいとはおもっていないので、できるだけ「喜びすぎず、悲しみすぎず」という態度をとるようにしている。が、いつもそれに成功するわけではない。いな、どちらかというと、失敗のほうがおおい。最近では、とみに涙腺がよわくなっているせいか、ちょっと感動的なことがあると、すぐに目のダムが決壊する。この3月から4月にかけては、またおおくの別れと出会いがあるだろう。

 ことしも3月末日に教職員の異動が発表される。すでに、小・中・高ともに内示などで異動の手続きにはいっている。毎年のようにくりかえされるこの年中行事も、もう7校ほども勤務先をかえているわたしには、次第に関心がうすれつつある(と書きたいところだが、いつになっても欲はある。悲しいかな…)。

■2005/03/04(金) 07:59 大雪の朝

 昨日の卒業式は曇り空ながら、なんとか無事におわってよかった。けさは一転して、大雪になっており、駅から職場までのバスは完全にダウンしていた。パスセンターにはおおくのひとが列をなしていた。こういうこともあるだろうと、靴をトレッキング用のものにしてきた。昨年もおなじことがあった際、バスを待って時間を無駄にした。けさは躊躇することなく、そのまま歩いて職場にむかった。半分くらい歩いたところで、運良くバスがきたので、すぐに飛び乗り、いつもより5分おくれで職場につけた。雪はこれから昼にかけて本格的にふるみたいである。生徒たちの大半は自転車通学であり、この雪のなかでは学校へくるのも大変だろう。クラスの生徒のなかには昨日の段階で「明日は休むからね」などといっているものもいたが、これなら無理に授業をする必要もない。無理して登校しても、今度は帰りの心配もある。こういうときは、すみやかに休校でいいようにおもう。わたし自身は、雪国で育ったので、これくらいの雪などはなんともおもっていないが、関東のやわな子供たちには、わずか数cmの雪でもおおごとなのかもしれないな、とおもう。

 朝の打ち合わせ後、クラスにいってみると、まだ15名ほどしか登校していなかった。半数以上は、まだきていない。生徒の状況を確認して、職員室で教務部のひとたちがなにやら協議。20分遅れで始業となった。「なんだ、授業するのかよ」とか、あちこちで声がしたが、気持ちはわかる。ただ、雪国ではこんな雪は当たり前のことで、それで授業がなくなっていたら、冬場は毎日授業なしになってしまう。こういうところが、関東地方に住んでいる人間のなんとものどかなところである。わたしもすでに関東人になってしまって長いが、雪がふるたびに、吹雪で道の消えてしまった田んぼの上を通学していた子どものころをおもいだす。鼻水ダラダラ、手はしもやけ、それが当たり前の冬であった。それをおもうと、関東に住むようになって、人間としての気持ちがふやけてしまったようにかんじる。気候風土は当然のことながら、そこに住むひとびとの精神構造にもおおきく影響をあたえる。外をみると、杉群にパウダーのように雪がつもり、きれいだ。帰宅時もまた大変だろうな、とふと心配になった。

 もどる

■2005/02/28(月) 07:52 ホームページ雑感

 もう、このホームページをつくって、丸7年と少しがたった。最初は、長年の友人である佐々木くんのHPに間借りして、文章を載せてもらった。その後、独立してつくるようになった。インターネットに接続するようになって、すでに10年がたとうとしているが、現在のようにいろいろな手法をつかった多彩なページは、当時はftpサーバーの容量の問題もあり到底かんがえられなかった。ほとんどは、せいぜい小さな写真と文章だけの世界である。もともと、研究者用に開発されたインターネットに一般の人がアクセスするなど、容易なことではなかった。設定もむずかしいし、プロバイダーなどは本当に少なかった。わたしが利用している「So-net」はたまたま神奈川の厚木にSonyの研究所がある関係でできたものとおもわれる。その近隣に住んでいたため、プロバイダーとしては選択の余地なく、So-netを利用するようになった。それ以前のパソコン通信は「Niftyserve」を利用していた。その当時のIDが「VEM10252」であり、現在、わたしのホームページのURLにつかっているのも、そのなごりである(じつは、現在でも@NiftyにIDもURLもある)。

 現在では「Web製作」などの部門がきちんとあり、いろいろな場所でおしえてもらえる。はじめた当時は、そんなのはなかった。だから、友人の佐々木くんにおしえてもらったことをもとに、あれこれ試行錯誤しながらつくっていた。今はほぼ日曜日ごとに大きな更新(「雑感2005」や「読書日誌2005」などは随時更新している)をするようにしている。これも、つづけてみるとわかるが、けっこう疲れる。旅行などで出かけているときなど以外は、できるかぎり更新をすることに決めている。これによって、行動もかなり制限されるが、それは自分で決めたことなので、それほど気にはしていない。それでも、なにも題材がないときは正直つらい。なんとかするために、ウォーキングをしたり、あれやこれやの本をあさったりと、見苦しいまねをすることもたびたびである。

 カウンタをつけていると、アクセス数も気になる。がしかし、こればかりはこちらのおもいどおりにふえることはない。大きなサイトやフォーラムなどに加入して、それを媒介にアクセス数をふやすことも可能であろうが、そこまでして…と、そんな面倒くさいことはやらないできた。だから、ほとんど孤立した状態で細々でここまできてしまった。どのような人がどのようにこのわたしのホームページにアクセスしてくれているのかは、ほとんどわからない。掲示板に書き込みをいれてくれたり、メールを送ってくれたりする方には感謝している。検索してうちに、見つけてきてくれている人もいるようだ。これも感謝にたえない。わたし自身は、自分のホームページにアクセスするのは、更新したときにきちんと表示されているかをチェックするときくらいだ。ホームページの内容は、自分のパソコンで読めるから、ミスや訂正はそれでみつけるようにしている。それでも、ほとんど校正なしで載せているのだから、いたるところに訂正したり、直さないとまずいところがあるのは一応はわかっている。限られた時間のなかで、できるだけのチェックはしているが、まだまだである。

 ホームページについて雑然と書いてみたが、書いてみると実際には自分でもよくわかって書いてないことが、よくわかる。まあ、このページで、何か貴重な情報提供をしようとしているのを意図しているわけでなし、ほぼ、わたしの自己満足におわっていることはまちがいない。おそらく「だれかのため…」とおもっていたら、ここまでつづけていることはなかったとおもう。自分の好きなことを自分流にただやってきた、それだけが原動力だったような気がする。10年間くらいはつづけようかとおもっていたので、のんびりとやっている。そこまでやったら、先は自分でもわからない。

■2005/02/24(木) 10:08 富士通「成果主義」やめる

 元富士通社員の城繁幸氏の『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』光文社などで内部告発されたり、業績の不振であえいでいた富士通が「成果主義による人事評価」をやめた。この4月から今度はグループ単位での評価(要は以前と同じ)にもどるとのこと。富士通は日本における「成果主義人事評価」の先陣を切った企業であるが、いまや「成果主義」は大流行で、公務員の世界にも遅ればせながら押し寄せている。もう先頭を走っていた富士通がやめるといっているのに、今頃になって公務員関係では「成果主義」などといっている。やっぱりお役所仕事は遅れているといわれても仕方ないなーとおもう。

 第18回第一生命サラリーマン川柳コンクールの傑作100作品のなかに粋徹さんという方の「成果主義 最終評価は 好き嫌い」という句がのっている。まさに、本質をついている。子どもの夏休み前のように、いろいろな目標をつくって、あれができたこれができなかった云々と仔細に分析をしてみても、所詮、人間のやることは昔も今もおなじではないのか。アメリカさんあたりで流行るとすぐに飛びつく上層部の人たちがおおすぎる。わが神奈川県でも「教職員の新たな人事評価システム」とかで、今ごろになって、「成果主義」に取り組もうとしている。何か時代の一番あとを何周も遅れて走っているようで、むなしい。もう結果は目にみえている。あと、数年したらまたころっとかわるのだろうな、この評価制度も。フランスの古いことわざに「変転すればするほど、ものごとはもとのままに留まるものだ。」というのがある。何かをするための手段として方法を採用するのではなくて、あれこれいじるのが目的でいじっているような制度がおおすぎるのではないだろうか?

■2005/02/23(水) 07:55 採点日におもう

 きょうは、昨日おこなわれた後期選抜入学試験の採点日である。昨日につづき、採点に集中するために、生徒は自宅学習になっており、だれも登校していない。この時間もまた、シーンとしてしずかだ。採点の開始は9:00。8:30からは朝の打ち合わせがあり、そのあとに採点にあたっての諸注意がある。採点の現場などは、関係者以外は知らないだろうから、採点が終わったら、少し説明してみたい。

 ついさきほど(16:10)に、最後の点数の見直しをして、作業は終了した。この間に、昼食のため1時間半ほど休憩がはいったが、あとは小休止をしながらの作業がつづいた。採点がおわるまでには、13行程があった(これは、昨年も同じ)。解答用紙の束(10枚つづりと15枚つづりがある)を1つやるごとに、自分の印鑑を押すことになっている。だれが、ミスをしたかがわかるようにということらしい。次から次へと採点、採点チェック、小計、小計チェック、合計、合計チェックなどをしてゆくので、昼食をとってからの眠くなる時間帯にはつらい。しかし、ミスをすると怒られるので、眠さと戦いながら、何とか作業をすすめる。採点は教科(5教科に他の教科の人を補充してある)ごとにまとまりおこなう。理科は解答が数字だけなので、採点は比較的楽であるが、もともとの人数が少ないうえに、補充の人もすくなかったので、午前中はきびしかった。午後は補充の人をふやしてもらったので、大助かりであった。これだけ、何度も何度も点検していても、やはりミスはでる。故意にということなどではない。こういう人間の作業心理をかんがえていない県教委の採点マニュアルに問題があるようにおもう。できあがったデータをパソコンに入力するところでも、またミスがあったようで、これは再確認でチェックできた。これ以上はないと信じたい。

 以上であるが、本当に異常である。つかれた…(-_-;)。入選の人たちはこのあとまた仕事がある(昨年までは2年間わたしもやっていた)。本当にお疲れさまといいたい。まだ、おわったわけではないので、気は抜けない。とりあえず、採点まできたということは、八合目まではきたことになる。最後も、ビシッときめていってほしい。

■2005/02/22(火) 07:50 入試当日におもう

 入試の当日である。けさもいつもどおり6:15に家をでて、7:15に職場についた。警備員さん以外は、まだきていなかった。これもいつもどおりだ。いつもなら、部活動の生徒たちで朝練をしているものもいるが、きょうは校内立ち入り禁止なので、じつにしずかである。校舎内もシーンのしている。こういうときの廊下などはこわいくらいだ。もう、この時間には入試選抜委員の方たちは出勤して、各試験会場のストーブの点火などをはじめるころである。わたしは、ことしは入選をはずれたので、まだのんびりとコーヒーをのみながら、こうしてパソコンにむかっている。

 試験がはじまるまではまだ時間がある。しかし、受検生は気合がはいっているからすでに何人かきていた。きょうの入学試験は5教科ある。50分×5=250分=4時間10分の試験時間である。この時間内に3年間で学んできた成果をだしきる。体調の悪い生徒、寝不足の生徒などいろいろいるだろうが、もうつべこべいっている時間はない。精一杯力をだしきってほしい。現在の勤務校に転勤してきてから、はじめて入学試験の監督をする(前期選抜の面接官もはじめてであったが)。受検生たちがどんな雰囲気で試験にむかうのか、たのしみでもある。受検生たちは必死であろうが、監督する側にとっても、こういう試験はけっこう緊張するものなのだ。自分が受検生のころはもちろんそんなことは知る由もない。自分の試験監督をおえるとホッとするのは、いつものことだ。いつになっても、この雰囲気にはなれることがない。適度の緊張感をもってのぞむのも、むしろ大切なことなのかもしれないと、最近はおもう。

 もうすぐ、受検生たちも集まりだす。いよいよ本番である。

■2005/02/21(月) 10:45 入試前日におもう

 きょうは、後期選抜入試の前日で、時間割が変更になり、担当する授業もおえた。あとは、午後の大掃除・会場準備にそなえている。生徒たちの授業は4校時までで、午後の5時間目に大掃除をおえると、14:30には完全下校になる。生徒を帰したあと、職員はそれぞれの会場にわかれて、明日の入試会場の準備にはいる。明日の入試日と翌日の採点日は、生徒は自宅での学習になる。

 神奈川県の公立高校でも入試が前期と後期の2回になったため、1月の半ばからは授業もおちついてできない状況になってしまった。以前なら、2月の下旬に入試が1回あるだけだったので、高校によっては2月の上旬に2年生の修学旅行なども企画できて、冬の北海道をたずねるなどということもできた。今では、それも遠い過去の話になってしまった。受検生の数が減っているのだから、入試もその分楽になるかとおもっていたら、とんでもないことに、返って煩雑で面倒になっている。受検生の頭のレベルは上がるどころか、下がる一方なのだから、そんなに入試で凝る必要などないとおもうのだが。制度をいじくるのが趣味であるお役所の連中は、いかにも県民全体がもとめているみたいなポーズをとりつつ(これの実態がいわゆる”教育審議会”などなど)、制度をますますもってわかりにくくしている。だれの利益になるのかは、さっぱりわからない。それに、公立の高校へはいるのなど、もう世間的にはだれも大げさにおもっていない。いっそのこと、高校など全部「私学」にしてしまってもいいのではないか。義務教育だけは、国が責任をもってするだけにする。この方が、ずっとすっきりしていい。まあ、そうなれば、わたしたち公立高校などに勤務するものは「失業」することになるのだが、時代の趨勢でそうなるのなら、それも致し方ない。もう、公立の高校など、大都市圏では、実質それほどの意味はない。おおげさに入試などしている必要などないというのが実感である。

 あすの入試では、勤務する高校では、ほとんどが受検せずしてもう合格である。わずかに不合格になる受検生がいる。かわいそうだが、現実とはそんなものである。受検する日だけでも、きれいない校舎で試験を受けてもらいたい、と毎年在校生が前日に大掃除をさせられる。置きっぱなしの教科書やプリントなども明日と明後日だけは、不思議と机の中から消える。これが、学校のお決まりである。ダラダラと間延びした入試のせいで、受検生からの切迫した緊張感はもうすでに消えてひさしい。

■2005/02/14(月) 08:14 中堅予備校がつぶれた!

 独特の指導方針で理・工・医系の大学進学に定評のあった中堅の「両国予備校」が倒産した。このニュースは新聞で知ったのだが、新年にはいって最後の授業があったようで、それをもって、予備校としての役目を終えたとあった。基本的には全寮制で、1年間受験勉強に全力集中して希望大学への合格を勝ち取る、というスタイルの予備校であったので、「こういうのも本気でやれば、効果的かな…」と以前から多少の関心をもってみていた。

 しかし、少子化と受験生の気風の変化で、もう以前のように何がなんでも難関大学へなどという生徒は、ほとんどいなくなってしまった。さらに、バブル崩壊からひきずっている流動的な雇用環境などをみると、決して難関大学卒(=一流大学卒)が世間でいわれているほど効力がなくなっているのを、生徒たちは敏感にかんじている。そういう背景もあって、「とりあえず大学へ」という軽い気持ちで(というより高卒で就職するところもほとんどない)進学する生徒が大勢になってしまった。入試も受験勉強を必死でする必要などないタイプのものが年を追うごとにふえている。わたしの勤務する高校でも、推薦制度を利用すれば在籍する3年生の7・8割はそれで進学できてしまう。一流大学以外への進学ならば、今ではほとんど無試験みたいなものになっている。いいとか悪いとかでなく、大学でも学生を集めるのに必死の時代になってしまっているのだ。受験生のほうでも、とくに選ばなければ、そこそこの大学へ適当にはいれるのだから、勉強などできればしたくない。両国予備校のような、厳しい環境のなかで、しっかり勉強するというやり方は、申し訳ないがもう時代にマッチしなくなっていた。それは、高校の進学においてもおなじ構図になっている。

 あと、数年で全大学の募集定員と大学進学希望者の数がほぼ等しくなるという。それがわかっていても、どんどん大学の学科を増やし、募集定員を増やしつづけている。いずれ、大学のバブル崩壊がおこる。すでに高校ではそうなっている。そうなると、教育全体のバブル崩壊だ。巷には、職にあぶれた「元教師」があぶれだす。わが身もおなじだ。気になるのは、上に書いた両国予備校の講師さんたちは、これからどうするのだろう…。私学で雇ってくれるのだろうか(公立はそんな余裕はまったくない)。他の予備校・塾も経営状態は似たりよったりだろう。手を広げすぎてしまったところは、自転車操業のはずだ。公立の学校でもどんどん統廃合がおこなわれている。もうだれがみても、教育の世界のバブル崩壊はすでにはじまっている。

■2005/02/12(土) 12:26 何とかなる

 またまたお通夜の話である。昨夕、職場の同僚で同じ校務分掌でお世話になっている方の奥さんのお母様が亡くなられたとのことで、その御通夜に出かけてきた。直接に面識のある方ではないのだが、人間の生死は仕事などとは較べるべくもなく、大切なことであるし、どんな場合でも周囲の人たちはたいへんなものである。その同僚も職場の仕事を気にしながらたいへんそうであったので、ねぎらいの意味もあって、顔出しにでかけた。場所は新横浜。ここは、ずいぶん昔に勤務していた高校への通勤でもつかっていたところなので、行けば何とかなるだろうと、前日、御通夜をする会館のなまえもよく確認せずにいた。さらに、風邪をひいてしまい、鼻水・鼻づまり・せきなどがつづいていた。何とか時間を見つけて、かかりつけの医院から風邪薬だけはもらい、少しずつ回復にはむかっていたが、体調は今ひとつよくない。無理をしてもさまにならないので、いける状態ならいこうとおもっていた。さいわい、午後になり、鼻や喉の具合もだいぶよくなってきたので、いくことに決めた。新横浜駅周辺の葬祭会館のようなところだということと夕方6:00から御通夜であることだけしか、しらなかった。「まあ、いけば、だれかが案内にたっているだろう…」と。

 少し早めにでたので、横浜駅周辺でまたしても本屋へ。数学の本を一冊買ってしまった。そして、地下鉄で新横浜駅へ。駅につくと、案内板をもった式服姿の人を探すと、二人いた。「・・・家」とかいた案内板をもっている。しかし、ここで、はたっと困ってしまった。「そうだ、奥さんの旧姓を訊いていなかった!」。困ったが、そこは恥を忍んで訊いてみるしかないと、両方の案内の方に訊いてみる。ところが、こんどはその人たちが、その奥さんの旦那さん(わたしの同僚)のことをしらないため、話がまったく通じない。こちらの勤務先などをいっても(・・?である。御通夜の開始まであと20分しかない。駅周辺の地図があったので、見てみると、葬儀関係のところは2箇所しかない。そのどちらかだろう。こうなりゃ、両方探すだけである。まずは、駅から遠いほうにまずいってみることにした。寒いだろうと少し着こんできたので、走りにくかったが、長い歩道橋を越えて、いってみた。そこで、亡くなった人の名前がかいてあるのを確認すると、男性である。ひょっとするととおもい、フロントにいる女性の方に訊いてみると、この時間はこの男性の御通夜があるだけとのこと。わたしのゆくところは、女性のかたである。わたしが自分で「たぶんこっちだ」とおもいこんだほうは、まちがっていたのだ。

 そのフロントの方に、もう一つの葬祭会館への行き方をおそわり、またしても走って長い歩道橋をわたって、ようやく6:00ちょっと過ぎにもうひとつの会館についた。しかし、ここでは同時に3つの御通夜をしているようで、またしても困ってしまった。困ったようすでオロオロしていると、会館の案内係の人が声をかけてくださった。そこで、「じつは、お恥ずかしいことながら、同僚関係の人の御通夜にきたのだけれど、苗字がわからない。亡くなったのは女性の方なのですが…」と訊いてみた。すると、その時間の御通夜で女性の方はお一人しかいないとのこと。「何でも、学校関係の方らしいですよ…」とも。おそらく、その方にちがいないとおもい、案内された3階にいってみた。「もし、まちがいだったら、恥だよなー」などとおもいつつ。エレベータが3階について、でてチョロチョロ見わたしていると、「大竹さん、ここでいいんですよ」と同じ学年の同僚が声をかけてきてくれた。「ハァー、やっとつけた」とおもわずホッとした。もうすでに焼香のためにみなさん列をつくりはじめていたが、わたしは走り通しだったせいか、もう身体から汗が噴きだしていて、額から汗がじわじわとでてくる。なんとか冷静を装いつつ、流れにしたがって、焼香をすませた。職場の回覧板で回ってきた地図を一瞬みただけの記憶しかなかったために、おもわぬ失態をしてしまった。それでも、無事焼香できて、安堵した。これで、本当に迷子になっていたら、まったく何のために家をでてきたのか、家族に申し開きができない。焼香後、ビールを2杯、お寿司を2個だけいただき、早々に帰途についた。電車にのって、冷や汗がどどっとでてきた。まあ、何とかなったが、あぶなかった。

■2005/02/05(土) 17:35 葬儀も命がけ

 伯母の葬儀に故郷・会津に帰ってきたが、この冬はひさしぶりの大雪で、難儀した。南会津の雪はものすごい量で、家々は雪にうずもれていた。道路では雪かきのブルが頻繁に除雪しているため、車もなかなか前にすすめない状況があった。関東に生活していると、「日本海側が大雪になっている」というようなニュースはよく聞くが、会津は天気としては、ほとんど日本海側(それも山沿い)であり、天気予報も新潟の天気予報とほとんど同じである。宿泊のお世話になった実姉のある会津若松市内でも1mを越すほどの雪があり、一晩で車の屋根には50cmほどの雪が断続的につもっていた。北千住から鬼怒川方面の電車を乗りついでいったのだが、鬼怒川をすぎたあたりからは次第に雪がふえはじめ、会津側にはいったところにある、会津高原駅ではもう豪雪であった。関東地方は青空のひろがる晴天でも、栃木県から一山越すと、もうそこはものすごい雪国・会津になっていた。ときおり吹雪いており、帽子のついたコートを着てきて正解だった。関東地方では「暖冬だ」とかいっているのが、いかに東京を基準にものをいっているのかがよくわかる。

 密棺・御通夜、そして翌日の告別式と雪は絶え間なく降りつづいていた。気温も氷点下であり、告別式のあとの火葬場では、手がこごえ、鼻水が自然にでてしまう。川崎に住む姉(長女)も風邪気味のようで、じつに寒そうだった。わたしも、身体のあちこちにホッカイロを入れて、暖をとるようにした。それでも腰の辺から底冷えがした。火葬がすむまでの2時間ほどは、ひさしぶりに姉妹弟の3人でゆっくりと想い出話をしていた。とても、ビールなど飲むような室温ではないので、おにぎりやお茶などですますことにした。親戚一同はほとんどがお寺さんに行く風習があるとのことで、焼きあがるまでの時間を利用して、そちらにでかけていった。わたしたちは、留守番役であった。

 火葬がおわり、遺骨拾いは冷気でブルブルふるえながらみんなでした。伯母の骨はか細くて箸でつまむとすぐに割れてしまうほどだった。死因は老衰だったとのことなので、それだけが救いである。94歳まで生きたのだから、長生きしてくれたのであろう。そのあとは、初七日をして、供養膳という会食があるのだが、こちらははたして電車が動いているのかも心配で、それどころではなかった。電車はなんとか動いていることはわかったが、疲れと寒さで、神奈川の自宅までもどることをおもうと、気が遠くなってしまった。この時期の葬儀は、本当にこちらの寿命も縮まるような気がした。これからも、もしこういう葬儀がつづくとしたら、おそらく、こちらのほうが先にあの世にいってしまうのでは…、と真剣におもった。

 もどる

■2005/01/30(日) 10:21 伯母さん逝く

 先日につづき、また故郷から訃報がとどいた。今朝の3:40ごろ、亡父の実家の伯母さん(父の義理の姉)が94歳でなくなったという知らせであった。身体が衰弱して寝込んでいたようだが、ついに力尽きて旅立ったとのこと。このところ、親戚の年配者が次々と亡くなってさびしいおもいにかられていたが、またひとり近親者がへってしまった。父の実家もさらにさびしくなってしまう。早々に雪深い南会津にある父の実家に別れのあいさつに行くことにした。

 わたしは、3人の兄弟姉妹のなかの末っ子でしかも長男という生まれである。この位置関係は「頼りにならない」とみられているらしく、2人の姉たちにとっても、わたしはいつになっても危なっかしいようだ。わたし自身が親戚付き合いなどにも疎く、義理人情をよく解さないところがあるのは自覚している。今回も訃報をうけて、すぐに顔を出さなければならない立場であるにもかかわらず、判断に躊躇してしまった。しかし、こういう機会こそ、ふだんのご無沙汰ぶりをわびるときでもある、とかんがえなおし、あさっての密棺に間に合うように出かけることにした。この時期の南会津へゆくのは、わたしにとってははじめてである。雪になれているわたしでも、南会津の雪の量は半端ではない。車などとてもかんがえられないので、当然のことながら、電車でゆくことにしている。

 亡くなった伯母さんとの記憶は、残念ながらわたしにはあまりない。姉たちはその地に住んだこともあるので、身近であろうが、わたしは父の実家にはめったに行ったことがなかったからである。小さい頃は、南会津は遠い場所だった。今でも父のほうの親戚関係に疎いのは、どうもそういう背景があるようにおもう。この帰省ですこしでもそういう溝がうまればいいのだが。準備をして、すみやかに会津に向かおう。

■2005/01/25(火) 08:00 義祖母逝く

 昨夕帰宅すると、故郷から義祖母の逝去の知らせが届いていた。享年101歳の大往生であった。わたしのカミさんは、この義祖母の孫のひとりである。昨年の1月に満100歳を迎えて、親戚中があつまってこのめでたい長寿を祝った。多少足腰はよわってはいたものの、まだ自分で食事もしっかりとれる元気な人だった。昨年末から体調をくずし、入院していた。とくにどこが悪いというのではなく、自然のながれにそって、少しずつ身体が弱ってきていた。今年の正月も無事迎え、満101歳の誕生日も無事すますことができた。ようすを診にかえったカミさんのはなしでは、だいぶよわっているようにつたわってきたが、わたし自身はこの冬はなんとかこせるのではと正直なところおもっていた。雪国のさむさはこたえるから、いまはあたたかい病院で静養して、またあたたかくなったら元気に自宅にもどれるだろうと内心はかんがえていたのだ。100歳まで生きるひとの生命力は並大抵のものではないし、きっといま少しは長生きしてくれるとしんじていた。だが、やはり衰弱はわたしの想像するよりもずっとすすんでいたみたいだ。最後は意識もほとんどなくなっていたようで、おそらく眠るように安らかな死だっととおもう。

 この義祖母には、カミさんとの結婚以来、四半世紀にわたってお世話になった。子供たちも帰省の際には会うのを楽しみにしていた。その生活ぶりをみていると、長生きするひとの生活習慣がどういうものかを、目のまえでおしえられた。本や話で見聞きするのとは、まったくちがった生活ぶりがわかり、自分の生活にもいつの間にかしっかりと影響をうけた。入試の仕事で、御通夜・告別式とも残念ながら出席できない。3月に法要があるので、そのときにはぜひお線香をあげにうかがいたいとおもっている。すばらしい人生をみせてくれた義祖母に感謝したい。そして、おおくの孫、曾孫たちがそれをしっかりひきついでいってくれることを願っている。合掌。

■2005/01/23(日) 17:28 パソコン不調

 いやはや、まいってしまう。またしても、パソコンの不調である。つい3日前までは快調であったのだが、2日ほど前に「ウイルスバスター2005」に無料バージョンアップしてから、調子が完全におかしくなった。ネットに接続していて、どこかのページにジャンプしたとき、いきなり画面が黒くなって再起動がかかったり、画面が青くなってフリーズしたりという現象がおこりはじめた。友人の「パソコンの師匠」に訊くと、どうもこれはWindows98SEをつかっているため、システムメモリが十分に確保できない状態がおこっているせいで、おこる現象ではないかという。XPでは、この現象はおこっていないという。このままでは、ネットに接続するたびにはらはらするので、心臓によくない。気温も一年中でもっとも低いこの時期、ひょっとすると死ぬかもしれないな、などと心配になる。

 じつは、Windows XP Professional Editionは手元にあり、いつでも入れられるのだが、Flight Simulationなどのゲームをするときにつかうジョイスティクなどとの相性がまだ安定していないことや、その他のデバイス類のXP用ドライバが正常にうごくのかが確認できないものがあり、まだバージョンアップに踏みきれないでいた。しかし、ネットに安心して接続できないのでは、これまたつらい。何とかこの危機を乗り切って、安定したマシンにしたい。そのためには、XPの導入を早急に実行にうつすときがきたのだろう。具体的な方法は、一応はかんがえている。予算もそれほどかからないので、まずは準備にはいろうとおもう。世間ではもうとっくにXPが標準的なOSとしてつかわれているが、よほどのことがないとOSを換えるつもりのないわたしは、今頃になって、ようやく動きだそうとしている。

 パソコンの不調というような「外圧」がないとなかなか動きださない。これでは、どこかの国の政治家や官僚さんたちと同じみたいではずかしい。いま少し、あたたかくなったら、やるしかない。

■2005/01/16(日) 15:54 センター試験

 きのうときょうはセンター試験である。関東地方でも「雪」という天気予報で、昨年同様にかなり心配したが、何のことはない、寒いが何とか雨ですんだ。山間部では雪のところもあったやに聞くが、それも試験にはほとんど影響はなかったようで、ホッとしている。わたしに直接関係する試験ではないが、授業で教えている生徒も何人かは受験しているので、やはり人並みに心配はする。ただし、こういう進学に関わる試験は基本的にはその生徒自身の問題だとかんがえているので、試験の結果などには、正直なところ、それほど関心があるわけではない。まあ、「がんばってください」というほどである。きのうおこなわれた試験の中の「物理TB」は新聞に問題が載っていたので、今朝例年通りに解いてみた。何とか全問解けた。昨年度の問題とほとんど同じようなものもあり、もう問題の飽和状態に近づいているのがわかる。他の教科のものも興味はあるが、時間がもったいないので、自分に関係するものだけでやめた。

 わたしは、センター試験世代でも、さらにはそれ以前の共通一次試験世代でもないので、こういう試験がどれほどの緊張感があるのかは、正確にはわからない。ただ、自分の受験したころの問題(自分に関係する物理だけにかぎると)にくらべて、もう格段の簡単さである。問題は素直になっているし、訊いている内容も浅い。これだけの試験で、大学に入学できる制度(センター試験利用受験)があるが、この内容のもので大学にはいるのなら、「学力低下」など論ずるもバカバカしい。当然も当然だからである。もっとレベルをあげてむずかしくしろ、というのではない。こういうテストの性格上、どうしてもマークシート法に頼らざるをえず、それが問題の出題傾向にある枠をつくってしまう。そういう限界がある。それでもいい、と受験生や大学の先生や国民全体が納得しているなら、何も文句をいうすじあいはない。

 人は、自分が高校生くらいのころに受けた教育を基準に教育問題を考える傾向があるそうなので、わたしの目にもあるサングラスがかかっていることはまちがいない。あの当時の教育がいいとはとてもいえない。いえないが、「いい時代があったか?」というとない。いつも悪い。悪いけど、多少なりとも実力をもった学生がふえてくれるのはいいことだ。きっと実力のある学生がふえているのだとおもいたい。しかし、共通一次試験にしてもセンター試験にしても、これを通ってきた人たちがもう社会の一員として出ているのだが、特段に優れているとおもえるところなどは、見かたが悪いのか、ほとんどない。結局、何のためにこんな大掛かりなテストをしているのか、わたしにはさっぱりわからない。大学ごとの個別試験で一体なにが悪いのか、疑問は深まるばかりである。

■2005/01/10(月) 07:52 成人式におもう

 今朝は、5:40に自宅をでて、長女を美容院まで送りとどけてきた。たぶん今頃は着物の着付けでいそがしいときだろう。そう、娘はきょう成人式をむかえる。長男のときは、とくに何もしなかったので、さらっと終わってしまったが、女の子はやれ着物だなんだとめんどうなことが多い。ふだん着物などとは縁のない生活をしているのに、こういうときだけは、変に日本の昔風にもどる。この着物代だけでも相当な額で、昨年からいろいろなところから電話攻勢やハガキ攻撃を受けた。が、我が家に高額な着物を買ってやるだけの経済的余裕などありはしない。故郷に住む姉のところから、姪っ子が着た着物をそっくり借りてきて、それで済ますことにした。これはじつに助かった。振袖をお店から借りるだけでも相当の額になるのである。たった1回着るだけのために、それだけの費用をかけるのはもったいない。べつにケチるわけではないが、着物をきただけで「成人」になれるわけでもなし、無駄なことは避けたかった。

 わたしも家内も成人式には出席しなかった。「なんで?」といわれても、いまとなってみると、どうしてかおもいだせない。ただ、出席するなんてかんがえもしなかったのではないか、といまとなってみるとおもう。「成人」なんて自分で決めることだし、おそらく「自分はまだ成人といえるほど大人になりきれていない」とおもいこんでいたのかもしれない。わたしが、自分で「大人」になったなーと本当におもったのは、教員の仕事に就き、はじめて自分の給料をもらったときのように記憶している。勤務してまだ半月もしないときに、はじめて給料をもらった(バイトでは、もう何年も前からお金は手にしていたが)。なんと、まだ半月しかはたらいていないのに、しっかり1ヶ月分の給料(+引越し代)が現金で給料袋にはいっていた。あのときのことはいまでもしっかりおぼえている。両親にも少し送金したような気がするが、あとはしっかりつかってしまった。完全に自分だけのお金であった。もう、アパート代もなんでも自分で全部やった。精神的にも両親とは離れたようにおもう(郷里から学生時代からはなれてはいたが、まだ学生の身)。本当に自分だけで生活できた、このときがわたしの「成人式」であった。あれからもう30年ちかくがたとうとしている。自分だけの「成人式」は、いまでもわたしのこころのなかにある。

■2005/01/03(月) 10:45 新春恒例大江戸ツアー

 毎年1月2日は「大江戸ツアー」をしている。今年も昨日行ってきた。参加者は例年になくさびしく、わたしを入れて3人。しかし、天気もおだやかで、ゆったりと静かな東京(大江戸)を散策してきた。10:00に横浜駅集合。11:00新橋駅出発で、浜離宮→芝埠頭→芝大神宮→増上寺→東京タワー→愛宕山→新橋と一周してくるコースをのんびりと歩いた。とくによ浜離宮から見た新橋方向のビル街。新旧の対比がおもしろい。かったのは、浜離宮で、ここは3人ともはじめてというので、園内をゆっくり堪能した。新橋駅で駅弁とお酒などを買いこみ、浜離宮にはいると、少し歩いたところで日あたりのいい東屋があったので、そこでさっそく駅弁を肴に新年会の一次会をひらいた。わたしの駅弁は¥380の質素なものであったが、歴史をかんじさせる庭園とすばらしい天気の中では、豪華な料理にもまさる。ワンカップのお酒もここでは、銘酒にかわる。同じようなことをかんがえる人はおおいようで、わたしたちが宴会をはじめると、周囲でもぽつぽつ宴会をはじめる人たちがでてきた。こちらは早めにきりあげて、庭園内をほぼ一周する。海へとつづく堤防ちかくには、将軍の「お上がり場」というのがある。ここに、大阪から逃れてきた15代将軍慶喜が上陸したとある。当然のこと、会津藩主松平容保もいっしょだった。当時のままという石段をながめ、何ともいえない感傷にひたる。今回のツアーのメインはここだったので、ゆっくり過ごせたのがうれしい。ここをでると、あとは予定のコースにしたがって歩いていった。人のあつまる場所をはなれると、この時期は東京も人通りはあまりない。新橋駅にもどったのは、ちょうど16:00で、当初の予定どおりであった。その後は、横浜にもどり、恒例に新年会へ。2箇所で飲み、21:30ごろ気分よく帰宅した。来年はどのコースを歩くかは、まったく未定である。今年のツアーもいい歩きができた。

■2005/01/01(土) 14:37 新年を迎えて

 昨日の雪(関東地方では21年ぶりの大晦日の降雪)で、車も出せなくなり、ひさしぶりにゆったりと自宅で新年を迎えた。とくに、必要な買出しもないので、自宅でパソコンをやったり、本を読んだり、TVを見たり、酒を飲んだりして過ごしている。どうも昨年までのお正月とは気持ちのあり方がちがう。何がちがうかというと、ものすごく気分がくつろいでいるのである。どうしてか、それはわかる。今、説明する。

 昨年、一昨年と2年間、入学者選抜委員会(通称:入選委員会)というのに入っていて、しかも前任者は転勤ですでになく、何の引継ぎもないまま、自己流で入選作業のPC部門を担当してきた。もっと若手のバリバリやれる人がいればいいのだが、どうもみなさん遠慮深くて、やる人がいない。転勤で移ってきたわたしにその仕事は自動的に回ってきた。それがもう3年前近くになる。1年くらいは仕方ないだろうとおもっていたが、結局引き継ぐ人もないまま、次の年も継続して2年間やった。3年目も、という声もあったが、1年生の担任になって、授業も3年が主というわけでもなくなったため、今年はとくに強く固辞したわけでもないが、やっとこの仕事を離れることになった。まもなく、4日からの仕事がはじまると、入試の準備にかかることになる。が、今年はそういう切迫感もないので、じつに気持ちが楽なのである。今年担当してくれる方には申し訳ないが、これは事実だからどうしようもない。興味のある人は、昨年度の「雑感2004」のはじめの頃を読んでみてほしい(といっても、作り方が悪いので、下までスクロールするのは大変でしょうが…申し訳ない、現在、何とかしようともがいている最中)。昨年の元日にはもう仕事のことをかんがえていた。今年はまったく何もかんがえていない。酒も気持ちよく飲める。物理の補習をしているので、そのことは頭にある。しかし、それは全く気にならないし、かんがえると楽しい。

 現在の職場に転勤して、そのまま入選の仕事(それ以前の職場でも入選は何度もやっているが)に入り、それが当然だとおもっていた。しかし、こうしてその直接の仕事をはなれてみると、けっこう気になっていたんだなー、とわかる。今年はPCでのあのピリピリしながらデータを処理したり、加工したり、いろいろな書類を作ったりすることはないんだ、とおもうと本当に肩が軽くかんじる。現在では、この作業中でのミスがあれば、担当者に直接責任がくる。それは当然だし、わたしもそのつもりで慎重に緻密に仕事はしていたつもりだ。たしかにストレスはあるが、仕事を無事終えたときの達成感は、担当していない人たちに話してもわかるまい。この仕事のせいとはおもわないが、髪の毛もずいぶんとさびしくなった。もう、スキンヘッドのほうがましである。今年まもなくはじまる入試の仕事でもこのPC担当の仕事環境は変わるまい。ほとんど1人でこなすとおもっていい。今年度の担当者の苦労もわかる。わたしは係ではないので、余計な口出しはできないが、何かお役に立てることがあれば、できる範囲でお手伝いはしたいとおもっている。今年は係ではないため、仕事の流れがどうなっているのかはよく知らない。こういうみんなが嫌がる仕事を引き受けていただいた方には感謝の気持ちしかない。わたしたちのバックアップで何とか無事仕事を終えて、楽しい反省会(ま、飲み会だが)ができることを祈っている。

 それにしても、本当に気が楽だ。いい正月が過ごせている。

■ 雑感2004へ  ■ 雑感2005(その2)へ ■ 雑感目次へ  ■ TopPageへ