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雑感2005(その2)





■2005/12/19(月) 16:17 草津での忘年会

 今年の山岳会忘年会は草津温泉に場所を変えた。例年、湯河原でおこなってきたが、もう新鮮味もなくなってしまったからだ。17日(土)の朝8:00にJR新宿駅南口に集合して出かけることになっていた。いつも何かのハプニングがあるが、今回もK氏は集合時間に来れずにハラハラさせられ、S氏は肝心の高速バスの往復切符を忘れるという、はじめから波乱があり、先々の心配を暗示していた。切符は出発直前に再購入という形で何とか切り抜けた。乗り込むともうビールが配られ、臨戦態勢にはいっていた。不安のあったバスのトイレもしっかりとついており、もう恐れるものは何もない。バスが動き始めると、間髪いれず500mlのビールで乾杯。今年2回目の朝からの飲酒である。1回目は夏山出発時のバスの中で、今回とほぼ似た状況であった。

 土曜日の朝早くにもかかわらず、練馬ICまでは混んでいた。なんとか、無事関越道に乗ると、あとは快適だった。天気もほぼ快晴で、富士山も見えていた。この日は、順調に進み、草津温泉にも時間通りに到着。雪はおもった以上に多く、主要道路から一歩中にはいると、雪は40cmくらいあった。その中を歩いて、まずは「西の河原露天風呂」に向かう。ここは、わたしも大好きな露天風呂だ。なんといっても、その規模の大きさと、湯温が高く、広い湯の場所場所でいろいろな温度の温泉が自由に味わえる。入湯料は\500で手ごろでもある。自分でタオルを持っていかないと、これにタオル代\280がつくが、それは各自の問題である(この連絡をわたしは忘れてしまっていたが…)。ここで、宿のチェックインまでの時間を過ごした。ちょうどいい時間にそこを上がり、宿に向かった。道すがら、おいしそうなおそば屋さんがあったので、寄ることにした。まだ、昼食をとっていなかった。みんなにもちょうどいい時間であった。ビールとそばを頼んだ。ビールはともかく、そばはおいしかった。もちろん、手打ちのそばだった。コシがあり、歯ごたえも十分。そばは大好きである。いつもは駅の立ちそばしか食べないが。

 宿にはいって、夕方になると雲行きが悪くなり、雪がふってきた。予報では、そのあと大雪になるといっていた。宿の窓もカチカチに凍っており、気温は下がってゆく。わたしたちは、すでに宴会モードにはいっており、持ってきたお酒もしっかり飲みはじめていた。わたしのもってきた720mlの生絞り酒は、すでにバスの中でなくなっていた。でも、バックの中にはさらに900mlの「菊水生酒」が残っており、楽しみはこれからだった。この酒は大好きな酒の筆頭でもある。夜6:00に夕食をお願いすると、あとは温泉と宴会のくりかえし。身体が冷えるとお風呂に、温まると冷たいビールを、と。いつもなら、こんなにお風呂にはいることのないわたしであるが、今回は大好きな「草津温泉」である。つい何度もはいってしまった。硫黄泉で、ほとんど希硫酸みたいな感じの湯である。湯につかると、ほどなく手足の皮膚がシワシワになる。腕や足などはすべすべする。もちろん、最近問題になっている不当表示はここではまずないだろう。湯はたっぷりと出ている温泉だし、「かけ流し」の表示もしっかりでている。時間のたつのは早い。夕食の準備に仲居さんがきてくれる。

 一人ずつご膳がでてきた。内容もいい。それに「このあと、まだまだでますからね」という。なんとも嬉しいかぎりだ。ビールで乾杯のあとは、もう飲み放題、食べ放題。そのために来たのだからあたりまえ。料理はあとから何度もでてきた。1泊\12000で本当にいい宿である(ただし、予約は3ヶ月前にしておいた)。日本酒・焼酎もでて、腹パンパンになった。はじめたのが早かったせいか、みんな10時ごろには疲れがみえて、K氏・S氏は早々に布団に寝転んでしまった。とくに、S氏は浴衣の前をおっぴろげ、大股開きで布団もかけずに寝ている。しぶとく飲むのを信条にしているわたしはY氏の助けを借りて、彼を布団の中へ押し込んだ。そのY氏にしても、それまでは、板間に横になり、ぐっすりと寝込んでいたのだ。何かわからないことをごちゃごちゃ寝言をいいながら…。この夜は、みんな疲れて知らぬ間に寝ていた。わたしは、しっかり飲んで、最後にもう一度だけ風呂にはいって身体をあたためてから寝た。

 翌日は、猛烈な降雪。真っ白になった草津の町の中をお隣にある「大滝乃湯」に行く。しかし、どうもようすがおかしい。しずかすぎる。玄関に着くと、「12月1日から2月下旬まで工事のため、休業します」の表示。参ったな…、みんなに「いい温泉がある」と紹介してきた手前、なんとも示しがつかない。どこか他にとおもいついたのは、夏に家族で寄ったことのある温泉プール施設「テルメテルメ」というところ。雪の降り続くなか、歩くこと30分ほど。ようやく着いた。そこは、暖房もしっかり効いており、中でゆっくりと過ごすことができた。午後3:00の帰りのバスを予約してあるので、それまでの時間をみて、みんな自分の好きなように過ごしてもらった。

 買い物をして、バスセンターから帰りのバスに乗ると、またしても宴会。周囲の人の迷惑になるほどではないが、気勢はあがる。そのまま、飲み続けて真っ暗になった新宿新南口ちかくのバスセンターに到着したのは夜7:45ごろであった。ここで、解散だ。わたしは、新宿から小田急で帰れば、まっすぐで近い。しかし、最後はまた飲もうとY氏と約束していたので、横浜まわりで帰り、途中の駅で寿司を食べてから帰宅した。さすがに、その寿司屋さんで飲む気力はでなかった。帰宅して、おとなしく寝た。これだけ飲んだので、翌日はダウンかとおもったが、いつも通り起きて、いつも通り一番で出勤して、きびしく仕事についたのはいうまでもない。

■2005/12/13(火) 07:59 今年の出来事10

 そろそろ年賀状つくりにも取り組まないといけない時期だが、遅々としてすすんでいない。毎週末に忘年会がはいっており(今週末も泊り込みで忘年会)、集中して取り組む気力がわいてこない。この分では、また、年度末にバタバタとやることになりそうである。毎日を淡々と生きるのがいいとおもっているためか、今年あった自分にとっての出来事で「これは…!」というようなことはあまりない。無理してしぼりだすとすると、次のようなものか。

(1)4月に転勤して、新しい職場に移った。
(2)1月に娘の成人式があり、はじめて着物姿をみた。孫にも衣装である。
(3)9月に24年ぶりの同窓会に出て、教え子たちの立派な姿を見た。
(4)4月に自宅のPCのアップグレードをおこない、ようやくWinXPへ。
(5)6月に娘の携帯交換にあわせて、携帯をもつ。たまにしか使わないが。
(6)8月はじめに例年通り夏山へ。今年は剱岳を無事登頂。
(7)11月に勤務校の公開講座で一般の人に相対論について話す。
(8)12月の山岳会忘年会の場所を草津温泉にかえた。
(9)3月に親父の三回忌をおこなった。会津には3回帰省した。
(10)とにかく、大病もしないで、何とか過ごせた。仕事に没頭できた。

 個人的なことばかりだが、こんなところである。最近は、何でもグローバル化している。しかし、よくかんがえると、個人的にはそんなのは関係ない。そういう人もいるだろうが、わたしなど身辺のことだけでも一杯一杯である。人間の幅(器)が小さいためであろう。もう、先は見えている(ような気がしている)から、自分のできることに集中して取り組もうとおもっている。職場が近くなったせいか、精神的にも楽になり、毎早朝に家庭のゴミ出しもしている。今までにない心境の変化である。こういう変化はじつは危ない兆候なのかもしれないが…。まあ、カミさんには喜ばれてはいる。そのうち、家庭ゴミとして自分がだされるかもしれないな。

■2005/12/11(日) 12:08 痛ましい事件

 このところ、小学生が被害者になるという痛ましい事件が連続しておきている。まだ犯人が捕まっていない事件もあり、ご父兄方の心配もつづく。それにしても、被害に会われたまだ幼き子供さん本人、そしてそのご遺族の心中を察するに胸の痛むおもいである。わたしにも3人の子供があり、もしそういうことがあったら、気も狂わんばかりになるだろうことは、予想できる。犯人が捕まったといっても、亡くなったわが子がもどるわけでもなし、できるなら、犯人をわが手で引き裂いてやりたい気持ちになるのも自然であろう。

 今回の事件は、小学生の帰宅時をねらったもの、塾でのトラブルという形であるが、結果的には3人の被害者が亡くなってしまった。国内のどの地域でも、生徒の登下校をねらっての犯行はおこり得る。親が車で送り迎えをしないといけないような状況になれば、これは社会的にも大変なことになる。また、塾という学校に準じる場所での殺害は今まで安全とおもわれていただけに衝撃は大きい。こうなると一体どこに安全な場所があるのか、という疑念もわいてくる。

 もう学校も塾や予備校なども聖域ではない。社会の事件が何のためらいもなく押しよせてくる。いい、悪いでなく、それが今の日本の現状なのだろう。

■2005/12/06(火) 09:33 忘年会シーズン

 12月の声を聞くとともに、忘年会シーズンがはじまった。わたしも、先週の土日にさっそく泊りがけ(湯河原の温泉)の忘年会に出かけてきた。もう20年もつづいている「(5×前)任校」の有志での集まりである。「ビシッと決めよう会」という。幹事をしてくれているのは、初任でわたしの副担任をしてくれていたFさんである。彼は中学で数学を教えているが、すでに横浜市の数学研究会のまとめ役をしているほどの力量の持ち主である。若手がはいってこないため、いまもって、この「ビシッと決めよう会」では一番の若手で、宿の手配からビール・酒などの用意を文句もいわずにつづけてくれている。みんな感謝しているのだが、宴会などでもそれをだれも口にはださない。気持ちは十分にわかっているし、彼もそれを求めてやっているわけではないことなど、だれもが知っている。わたしも、彼からの忘年会の通知メールを毎年たのしみに待っている。

 ことしは、9名の参加だった。いつもより多く、持込み(きちんと手続きはとってある)のビール500ml缶24本はあっという間になくなってしまった。日本酒も軽く1升はいってしまい(これはわたしが持っていったが)、もっと持ってくればよかったとすこし物足りなさを感じた。なにせ、何人くるか、だれがくるか、は何の連絡もなかったため(まあ、これもたのしみなのだが)、行ってみてはじめてそれがわかるという形になっている。飲む量もだから予測でもっていくしかない。昨年はこれでちょうどよかった。今年はみんな気合をいれてきてくれたので、足りなかった。これもこれでいい思い出になる。この会を20年も持たせてくれているのは、ひとえにFさんの人徳というものだろう。こういう人がいないと、こういう任意の会は維持できない。わたし自身も山岳会を28年もやっているが、みんなの協力と目に見えない気持ちの支えがないととてもつづけることはできない。Fさん、本当にありがとう。来年もまた、よろしく。

 同じ職場での付き合いはそれなりにあるが、どの職場でもそこを離れれば、よほど気が合ってでもいないと、その後の付き合いは疎遠になる。上記の会は、わたしが中学校で教えていた時代からのものだが、何とわたしはその職場には3年しかいなくて、高校へ転出した。それから、高校も5校も転勤したが、こういう付き合いをしている人はじつに少ない。長くいてもそれに比例して付き合いも深くなるわけではないのだ。こういう出会いがわたしを支えているのはいつも感じる。現任校でも、すでにそういう付き合いになりそうな人との出会いはある。こういう付き合いを大切にしていきたい。それは、わたしの大事な宝でもある。お互い、何を求めるでもないが、そういう付き合いがじつはとても大切なのだろう。いい出会いがいい仕事をさせてくれる。楽しみもつくってくれる。そう信じて、毎日をおくっている。

■2005/11/30(水) 16:12 百葉箱

 百葉箱を無事所定の場所に立てた。高校になんで百葉箱が…?とおもわれるだろうが、まさにその疑問は正解である。本来ならこういうものは高校にはない。わたしの勤務する高校は、そのまさかが現実になってしまったのだ。というのも、世界的に活動している「GLOBE(グローブ)プログラム」というのがあり、その活動校として文科省から指定されてしまったからだ(全国で20校)。どうも、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の県単位のサポート校になっている関係で、神奈川県教委が勤務校を名指しで指定してきたらしい。その辺の事情はわたしが転勤してくる前の話であり、判然としない。ただ、わたしが転勤してくると、さっそくその担当にされてしまった。東京学芸大学での2日間の研修をしっかり受けさせられて、いつの間にか「GLOBE Teacher」とかいうのになっていた。本人にはまったくそういう意思などないのだが、まあ仕事とあれば、仕方ない。しかし、研修を終えてもどってきて、予算のことなどが判明してくると、どうも話はまったくいいかげんなものらしかった。県からの予算もすこしはあるが、本校でやることにした「大気調査」「水質調査」に必要な機材を購入するような満足な予算も出ないとのこと。まったく、文科省の役人が偉そうに「文科省で指定して(だれも頼んでないっていうのに)やってもらうので、各校その自覚をもって、全校をあげて取り組んでほしい」だとさ。トッツァン坊やみたいな官僚がそういっていた。出すものは出さずに、一体どうしろというのだろう。

 まあ、腹の立つことばかりであるが、やることになった以上はやるしかない。わたしは主に大気調査の方を担当することになったので、雲の観察と気象データを取るのを生徒に指導して、やってもらうことになった。しかし、肝心の気象観測器具を入れる百葉箱はない。近くの小学校へ見にいったり、理科教材屋さんのカタログなど見ても、百葉箱だけで25万円前後する。どの小学校にも設置が義務付けられているようであるが、ほとんど活用はされていない。それをもらえたらともおもったが、それは制度上できないみたいだ。管理職はすこしは気にかけてはいたようだが、彼らは仕事は現場でやるわたしたちに割り振ると、もうそれほどは気にはかけない。自分はおいしいところだけ(たとえば、外部で文科省から指定されてこういう観測をやっています、みたいにいうのだろう)はしっかりもっていく。あれこれ、この百葉箱をどうするかで、3ヶ月ほど悩んだ。最終的には自分たちで手作りするか、とも話しあった。しかし、片手間にできるようなものではないこともわかってきた。

 その後、いっしょに物理を教えているK先生がPTA関係の伝で、近くのT建設の方を紹介してくれることになり、ありがたく電話で連絡。学校へも来ていただいた。そして、その方にお願いして作ってもらうことになった。費用は本当に申し訳ないほどしか出せないため、こちらも恐縮してのお願いだった。11月の中旬にその百葉箱が完成して、学校へ届けられた。本当にうれしく感謝感激だった。白ペンキはこちらで塗ることにした。これは当然である。中間テストのある時期にすこし時間をとって一気に塗り、そして立ててしまおうと計画した。予定通りにペンキも3度塗りくらいできて、きょうの昼すぎ、生徒と理科のI先生にもお手伝いいただき、一気に立ててしまった。立てる穴は昨日、おなじ理科のT先生とも協力してもらい、80cmほど掘っておいた。まだ、もう少し掘る必要があったので、テスト監督が終わると、ひとりでスコップを使い、のこり10cmほど掘った。そして、近くの部室にいた2人の生徒さんにも声をかけて、ペンキの乾いた百葉箱を移動してきて、立ててみた。見事なくらいにぴったりと立ち、近くから石やプロックのかけらをもってきて、補強しながら土盛りをした。そして、ついに立った。じつに研修からもどって半年近くも経っていた。

 あとは、中に観測器具をいれて、観測態勢にはいるだけだ。それにしても、予算もないのにどうして県教委などが勝手に文科省などに指定校にする旨を申請したりするのかはまったくわからない。それでなくても、日々の授業や補習、一般向けの公開講座、会議や部活動などなどもう身体がいくつあっても足りないくらいなのに、そこに目的のそれほどはっきりしないこういうプログラムをもってくるのか、不可解だ。おそらく、自分たちの手柄にするためにやっていると勘ぐられても仕方ないのではないか。わたしのように、単なる「ヒラ教員」は上からいわれたことは、基本的には文句もいわずにせっせとやるしかない。まあ、こういう仕事が嫌いなわけでもないから、自分としては、これがキッカケでそういう観測などが好きになってくれる生徒もいれば、それはそれでうれしい。ただ、口は出すが、手は汚さない式のお役人体質は、どうもわたしには情けなく感じられる。もう、外は真っ暗である。こういうことを書いてまた管理職から怒られるかもしれない(すぐに公務員の守秘義務を出す)な。でも、立てるものは立てたのだから、文句の一つぐらいはいいだろう。ああ、疲れた(-_-;)。

■2005/11/27(日) 20:08 部分入れ歯

 わたしは、はずかしながら、部分入れ歯をしている。というのも、上の歯は全部そろっているのに、下の奥歯やその前あたりの歯を虫歯で失ってしまっているのだ。まだ幼い頃は歯の手入れをよくしなかったのと、歯医者が大きらいで、とうとう奥歯がガタガタいうまで放っておいたのがいけなかった。結婚してすぐの頃に、最後にのこっていた奥歯も根っこをやられ、朽ち果てた。それ以来、この部分入れ歯にお世話になることとなった。ただ、どの部分入れ歯もぴったりしたのには出会えず、しばらくはしているが、歯肉が痛くなったりして、そのうち装着しなくなってしまうのを常としていた。保険を使ってでなく、15万円近くもかけてさえ、そうであった。

 今年の1月ごろに、またしても、部分入れ歯のブリッジ用として使っていた犬歯が弱ってしまい、ぐらついてきてしまった。頬がはれるほどの痛みで、結局抜くことになった。ついでに診てもらうと、下の歯がないため上の歯が変形しつつあるという。また、部分入れ歯をつくるしかない。いままでで懲りているので、あまり乗り気ではなかったが、とりあえず保険でできる範囲の安いものをつくってもらった。実は、これがおもいの他いい出来ばえで、ひさしぶりに奥歯でものをかめるようになった。うれしかった。ときどき、歯茎が圧迫されて痛むこともあったが、歯医者に通って何度も調整してもらったら、具合はどんどんよくなっていった。

 つい先日から、また歯肉の具合が悪くて痛みがでてきた。今まではすぐに歯医者にいって調整してもらっていたが、どうにも面倒くさい。そこで、歯医者がやっているのは、ただ電動ヤスリで歯肉にあたるところを研磨しているだけなので、自分でもやれるのではとおもい始めた。そういえば、実家で一人暮らしをしていた親父もよく入れ歯を自分で研磨していた。親父にできて、わたしにできないはずもない、とおもうとやる気がでてきた。さっそく自宅にある紙ヤスリを集めてみると、何と荒削りから仕上用までそろっている。恐る恐る歯肉に当たっている辺りを慎重に研磨してみた。ときどき口に入れて調子をみながらやってみたら、なんと痛みなく装着できるようになった。仕上げには、目の細かい仕上用でていねいに磨いておいた。歯医者にいかないとこういうことはできない、と思いこんでいた感がある。やってみたらじつに簡単だった。器用な親父にとって、こんなことはたやすいことだったのだ。わたしも、以後は自分で調整できると自信がわいてきた。入れ歯が合わないと気分も暗くなるし、歯肉もいたい。でも、これからは自分の手で気のすむまでなおして使おうと思いなおした。歯医者にいく気の重さからも開放された気分だ。なんでも、見よう見まねでやってみるにこしたことはない。

■2005/11/20(日) 11:13 すこし気がぬけて

 昨日午後の公開講座で、わたしの当番はおわった。2回計4時間40分であった。この時間のために、およそ半年の準備をしてきた。パワーポイントのスライドにしたのは、60枚ほどであったが、そこまでに頭のほうの準備に相当の時間をついやした。まだまだ、自分自身がこの「相対性理論」を十分なほど理解できていないことがいやというほどわかった。これからも、勉強はつづくだろう。

 なかなか構想が仕上がらないときに、ちょうど物理学会主催の公開講座を聴けたのはとても参考になった。とくに、風間洋一氏と安孫子誠也氏の講演は今回の講座用のスライドをつくるときの最後の参考として役立った。そのときに何冊かもらってきた公演内容の冊子は図などを使わせてもらった。本当は著作権にかかわることなので、承諾をいただいてからとおもったが、もう時間的に間にあわなかった。しかし、図はコピーしたわけでなく、全部わたし自身が相当に変形してつくりなおしてつかった。もちろん、話しの内容はそっくりに話すことなどできるわけもないので、わたしが自分で勝手に解釈した内容で話した。風間氏・保江氏・安孫子氏にはこの場を借りて、感謝しておきたい。

 公開講座がおわると、わざわざ遠くから来てくれた友人たちと反省会にでかけた。風邪などをひいて聴講してくれる方々に迷惑がかかってはいけない、と多少は自重していたので、心おきなく飲めるこの瞬間をずっとまっていた。彼らからも「いい講演だったよ」といってもらえて、本当にうれしかった。数多くの講演を聴いているY氏の講評は気になっていたので、なおのことであった。パワーポイントでのファイル作成などは今回がはじめてであったが、何の参考書を読む時間もなかったので、ヘルプを読みながら、やれる範囲でつくってみた。まあ、何とか人さまにお見せできるものをとがんばってはみたが、これは初心者に毛のはいた程度のものしかできなかった。これは、これからだろう。

 とにかく、やっとおわったので、ホッとするのと重荷がとれたようで、今気持ちの上では楽になった。こういうときが、精神的には一番あぶないのだが…。

■2005/11/19(土) 11:58 今回は相対論

 先週につづき、あと2時間ほどすると、公開講座の2回目がはじまる。前回のつづきで、きょうは「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」について実験などもはさみながら話しをする予定でいる。スライドは予定を大幅におおくなってしまい、相対論だけで50枚ほどになってしまった。時間通りにやる予定でいるが、最後の質疑応答をいれるとすこしオーバーしてしまうかもしれない。まあ、あまりセカセカしないで、じっくり話しをしようとおもっている。話すことで自分の勉強にもなることはいつも同じであるが、極力間違った内容を話すことのないように、下調べは十分にしたつもりだ。来られるひとに土曜日の午後のひとときを楽しんでもらえれば、とおもっている。

■2005/11/12(土) 13:06 今度は自分の番だ

 あと50分ほどしたら、公開講座「世界物理年2005〜相対論へのお誘い〜」がはじまる。勤務している高校でおこなっている一般の方向けの講座である。連続10回あるうちの2回(きょうと来週の土曜日)が、わたしの担当になっている。これに向けて、忙しい仕事の合間をぬって準備をしてきたが、あと50分とせまってきて、背中がゾクゾクするようで、なんとも落ち着かない。人前で話すことは仕事柄それほど気にはならないが、物理の専門的な内容をどれだけわかりやすく明解に話すか、何度も練習はしてきたが、どうにも心もとない。あれだけ、あれもこれもとかんがえてきた内容も、この時間になるとパニックに陥ったようで、頭からぬけてゆく。記憶力がわるいのは自覚しているが、はたして予定通りに話が進むのかはまったく自信がない。そんなときのために、とつくっておいたPower Pointでのスライドも今となってみれば、あまり助けにはなりそうにない。県から支給されたノートPCをお借りしたのだが、Office2003のままでSP1もSP2も修正を入れていないため、スライド表示のところでテキスト文字がずれるというバグがある。こんなのでは、せっかくつくったスライドも今ひとつビシッと決まらない。でも、もう手遅れだ。あれこれかんがえるとかえって胃が痛くなる。もう、こんなのを書いている状況でないため、いったん終える。

 ほぼ2時間にわたり、話をした。実験も「光電効果」の実験と「ブラウン運動」の観察を入れて、充実した時間を過ごすことができた。スライドの不具合はなんとか口でおぎなって切りぬけた。2時間の講演はあっという間の時間にしか感じなかった。緊張していたことはまちがいないが、終わったあとは気持ちのいい爽快感だった。来週はいよいよ、「相対性理論」について話す予定でいる。

■2005/11/07(月) 17:02 公開講座で感激!

 土曜日(11/5)の午後に東工大でおこなわれた日本物理学会公開講座「奇跡の年から100年〜アインシュタインの3つの理論〜」というのにいってきた。なかなかいきたい講座があっても部活やら用事でいけないことがおおい。この日は、かなり前からあけておいた。大岡山の東工大にいくのも本当にひさしぶりだ。横浜ですこし本屋などをのぞいて、そのあと、開始30分前くらいについた。会場はデジタル多目的ホールところだった。最初は、それほどのひとはいなかったが、開始直前にはかなりのひとになっていた。こういう公開講座にどれほどのひとがくるのかはわからなかったが、想像以上であった。「みんな勉強家がおおいのだなー」とまずは感心。何せ、この講座を聴いたからといって、なんの得にもならない(金銭的には)。でも、高校生から年配の方まで幅広い聴衆だった。「物理の好きなひともいるのだなー」と2度目の感心。

 講演は3つ。風間洋一氏の「特殊相対性理論:光と同時性からの革命」、保江邦夫氏の「Brown運動の理論:ほろ酔い機嫌のアインシュタインに学ぶ」、安孫子誠也氏による「アインシュタインが「奇跡の年」にいたるまで、およびその後」の3つであった。風間氏の文章は物理雑誌「パリティー」で何度もお馴染みだったので、ご本人の話も当然たのしめた。保江氏のじつにユーモラスな講義はほのぼのとして、最高であった。氏のかかれた『数理物理学序説シリーズ』は何冊か読んでいたので、なおのこと、親近感がかんじられた。安孫子氏はずいぶん昔に「エントロピー学会」などの席で何度かお会いしたことがあったが、お元気そうで、安心。話の内容は『アインシュタイン相対性理論の誕生』講談社現代新書でかかれていることと重なっていたが、ご本人の話で、あたまの整理ができて、じつに参考になった。

 ということで、3つめに全体をつうじてさらに感動。いい講座であった。しかも、この公開講座は無料で、しかも立派な冊子がついている。これが、じつによくまとまっている。物理学会もこういうことをするようになったか、と感慨もあったが、こういう変化はありがたいことだ。午後のひと時を惰眠ですごさなかっただけでも意義のある1日だった。また、機会があれば、またでかけたいとおもった。

■2005/11/01(火) 07:53 早いもので11月

 また、ことしも年末がちかづいてきた。きょうからは11月。のこり2ヶ月でことしもおわり。まだ2ヶ月ある、とか、もう2ヶ月しかない、とかひとによってとらえかたはさまさまだろう。わたしは、それほどのプラス思考者ではないので、後者にちかい感じだ。

 めずらしく、今月はいまのところ飲み会ははいっていない。まあ、そのうち声がかかるかもしれないが…。予定といえば、5日(土)東工大での物理学会講演会参加と12日(土)・19日(土)の職場でおこなわれるコミュニティースクールの講師をすることくらいだ。月末には中間テストもある。その問題つくりはそろそろかかろうかとおもいはじめてはいる。季節的には晩秋といっていいのだろうが、どうもまだ陽射しはあたたかい。本日より、ようやく衣替えして、長袖のYシャツにした。昨日まで半袖ですごしていたので、なんとなく暑い。気温自体がまだ例年より高いようだ。体感だけでなく、昨年、一昨年などの日誌をみると朝の気温も高い。道理で紅葉がだいぶおくれているらしい。

 もう夕暮れ時も早い。7校時目のある月・金などは授業がおわると、もう4:15ですぐに暗くなる。きょうは東京での日の入りは16:46とのこと。これでは、ぼんやりしているとすぐに暗くなる。用がなければ、できるかぎり早く帰宅したいものだ。

■2005/10/24(月) 07:57 恒例のいも煮会

 ことしも「いも煮会」のシーズンになった(といっても関東地方では関係ないが…)。私たちの山岳会でも年度当初に計画していたので、昨日(2005/10/23(日))、我が家で実施した。天気も快晴で、これなら河原にでも行って、ともかんがえた。が、全員飲む予定なので、河原は無理。いつものように室内でおこなうことにした。

 朝はいつものように4:00過ぎにおきたが、準備するにははやすぎるし、前日の中学生向けの体験授業の疲れもすこしのこっている。ゆっくりと朝を過ごし、7:00から調理にかかった。まずは、「いも煮」の基本になる里芋を8袋分ほど水で泥をきれいに流しおとし、ザルにいれておく。それを1個1個皮をむいていく。これが、一番時間がかかる。1時間半ほどかけて直径38cm、深さ18cmの大鍋半分ほどまでためる。そこに水をいれて、一旦煮立て、アクがでた湯をすてる。そして、再度水をいれて、本格的に煮立てる。このとき、食材(多種のキノコ類、豚肉、ねぎ、ダイコン、シラタキなど)はどんどん鍋に放り込み、とにかく煮る。里芋がやわらかくなっていれば、よい。味付けは最後にやる。ダシの素、砂糖少々、ミリン、塩少々、の順にいれていき、最後に醤油をいれる。これで、味の濃いうすいが決まるので、ときどき味加減をみながら、ちょうどいい具合になるまで醤油を加えていく。ちょっとうすいがまあいいかというところで止める。煮立てていると味は濃くなるからである。そのまま、しばらく煮立ててから、火を止める。30分くらいおいて、味を具材にしみこませる。大鍋なので、それほど冷えることはない。食べる30分くらい前から再度弱火でクツクツ煮る。これで、食べるときにはすばらしい「秋」が味わえる。もちろん、これを肴にビール、酒、焼酎と好きな飲み物でやるのが一番だ。昨日は、ビール4L、酒1升、焼酎1本飲んだ。ほとんどの方が紳士なので、夕方5:00には自然におひらきになり、みんなしずかに帰っていった。

 これでまた、山岳会のことしのイベントが1つおわった。のこっているのは、忘年会だけだ。ことしは会場をいつもの湯河原から草津にうつした(2次会・3次会といくなら遠方の温泉地のほうがやすい!)。すでに宿もとってある。わたしの大好きな日本一の温泉地なので、ことしはもう出かけるのが楽しみでしょうがない。これをエサに毎日の仕事にはげんでいきたい。

■2005/10/20(木) 08:08 ようやく秋晴れに

 関東地方の南岸に長くいすわりつづけた秋雨前線も消えた。台風20号がいっしょにもちさってくれたくれたようだ。今朝の出勤は、稲刈りのおえた田んぼの中をのんびりと歩いてきた。職場に着いたのは7:05。いつもと同じだが、快晴の空だと気分がまったくちがう。服装は、10月からは衣替えなので、本来なら長袖といいたいところだが、まだ半袖のカッターシャツである。体質的に汗かきであり、歩いたりするとすぐに汗がでる。だから、よほどさむくならないと衣替えはしない。今年は平均気温もまだ高いから、おそらく11月まではこのままの服装ですみそうだ。だれも見ていない田んぼの中をあるいて出勤・帰宅するだけなので、服装にはほとんど気をつかわない。ただ、習慣でズボン以外は、毎日洗濯したこざっぱりしたものを着るようにしている。このところの雨つづきで生乾きの衣服がふえていた。きょうからはまた、すっきりした服装ができそうだ。

 あさっての土曜日は「学校説明会」と「体験授業」があり、通常の出勤になる。こういうときは、前4週間・後8週間以内に代休がとれることになっているが、実際にはまったくとれる時間などない。ま、期待もしていないが。どちらにしても、部活動などでは、ほとんど毎週でてきているのだから、月8時間しかとれない代休などとる余地もない。家でゴロゴロしていても仕方ないので、でてきているというのがほんとうのような気もする。そして、日曜日は恒例の山岳会「いも煮会」である。我が家に集まってもらい、「寒いから…」などといいながら、結局は我が家の居間(じつに狭い)で男が集まって飲む。「いも煮」をつくるのはわたしの係だ。当日は、朝から里芋の皮をむいて、おいしいのをつくってみんなにたべてもらいたい。日本酒もおいしいのを用意しておきたい。たのしみだ。

■2005/10/10(月) 07:37 秋晴れ遠し

 この3日連休も関東地方では、ほとんど雨で、今も梅雨どきとおなじようにしっかりと降っている。秋山へ紅葉を見に…と計画していたが、とてもこの天気ではでかける気持ちもおこらない。こういうときは、静かに家で読書やパソコンでもしているのがいちばんだ。ようやく、気温もさがってきたので、FlightSimulatorの季節がやってきた。現在、室温で20℃ほどだ。これくらいでないと、CPU温度がガンガンあがるこのソフトはつかいづらい。本来、CPUなどにつかわれているVLSI部品などは温度があがってもそれほど特性はかわらないのだが、それでも限度というものがある。室温が30℃以上にもなる季節にはやはり気になる。10月になれば気温も下がるだろうとおもっていたが、今年の秋はおもったよりも高温だった。この3日間の雨で、気温は肌寒いくらいにさがってきた。ようやく、安心して飛ばせる季節到来というわけである。きょうは、ゆっくりと飛んで、ひさしぶりにHPの「ヒコーキざんまい」を更新しようかな、などとかんがえている。

 昨年の3連休も台風が来たりで、散々だった。あちこちで、体育祭や運動会などが予定されていたみたいだったが、これではできそうにない。もともと、9月の下旬から10月の中旬くらいまでは、関東地方では秋雨前線が停滞して、ちょうど春から初夏にかけての梅雨どきとおなじような天気がつづく。今年は昨年にひきづづき、夏が異常に暑かったせいもあり、秋雨の時期がかなり長びいているのかもしれない。おおきなスケールでの大気温度の調整がいまなされているとかんがえられる。カラッとした秋晴れには今すこし時間が必要かもなのかもしれない。

■2005/10/05(水) 08:04 日常的なことなんて…

 作家で「大江戸シリーズ」などを書かれてる石川英輔さんが、ある本のなかで、「江戸時代の日常食をしらべているが、よくわからない。」といっていた。わずか150年ほど前のことでも、そういう資料(図版もふくめて)がないという。毎日、ごくふつうにやっていることなどは、どの時代でも、記録しておくようなことはあまりないためであろう。ちなみに、2日前の朝食になにを食べたかなんてことは、毎日同じものを食べている人以外は、答えられないだろう。わたし自身もおなじで、毎日習慣的にしていることは答えられるだろうが、それをこまめに記録しておくことなど、まずない。やはり、何か印象にのこったこととか、いつもとちがうことがおこったときなどに、写真を撮ったり、ちょっとメモをのこしたりする。仕事にしても、おなじことがいえる。日常的にやっていることは、とくに意識することなく、淡々とすぎていく。今年、転勤してきて、わずか半年しかたっていないが、もう長年いるような錯覚をおぼえることがある。転勤してきてすぐの4月には、多少の違和感をもってみていたことも、もうそれほど注視をすることもない。これは、慣れることで決して悪いことばかりではないのだが、ある面ではこわいことでもある。「初心忘れるべからず」とはいえ、これほどむずかしいこともない。

 わたしは、個人的にはほぼ毎日「日記」をつけている(それも実に長い期間)。しかし、それでも日常に何気なく食べているものを書くことはまずない。珍しいものを食べたり、まれにしか飲めないお酒でも飲んだときには、書きこむことはある。こういう行動パタンは、ほぼだれでも同じであろう。そして、このこれは大げさにいえば、国家レベルの話でも同じであるとかんがえて、そうまちがいはない。つまり、こういう毎日の記録の積みかさねが「歴史」といわれているものだと推測すると、そこには、非日常的なことの累積が記録されているだけともいえる。あたりまえのように過ごしてしまっていることを、記録することはまずない。しかし、毎日あたりまえにやっていることが、じつはその時代の「生活」であり、それがわからないことには、その時代の細部についてはわからないことになる。年表にのっているものは、そういう意味では、非日常的な出来事の集積ともいえる。

 毎日の生活は、淡々としていて、なんともとりとめもない。その一日一日が明日をつくるなんていわれても、実感できない。でも、確かにそれはまちがいない。日常のことをきちんと意識的にやることは、困難なことではあるが、それができればおおきな変化をもたらすであろうことは、いままでの個人的な経験でもよくわかる。ただ、そのむずかしさはいくつになっても、むずかしい。それは、過去のひとたちでも同じであったはず。みなさん、最近変わったことはありましたか?記録してありますか?

■2005/09/23(金) 14:04 文化祭準備中

 昨日の午後から勤務校の文化祭の準備がはじまった。きょうも、かんがえてみれば「秋分の日」で祝日なのだが、ふつうどおりに学校はやっており、生徒たちも朝7:00前から学校へ来て準備をしている。職員にも一応、分掌ごとに持ち場が決まっており、時間を決めて、場所ごとの指導・監督などの係が割りふられている。といっても、ほとんどは生徒たちが自主的にうごいてやってくれるので、わたしたちはただ椅子に腰掛けたりして、見ているだけだ。勤務校の生徒たちは見ているかぎりでは、みんなで協力し合って、楽しそうに準備している。もちろん、どんな学校でも、いやいややっている生徒もいるだろう。ただ、田舎っぽいこの学校では、どちらかというと、地方の普通高校のような雰囲気をかんじさせる。素直でいい生徒がおおい。

 教員はヒマかというと、じつはそうではない。この時期に前期の成績を出すための仕事があるため(二期制のため)、空いている時間を利用して、成績処理などがおこなわれている。わたしは、この4月に転勤してきたが、またしても教務部になり、その仕事に従事している。担当は1学年だが、これがなかなか忙しい。それと平行して、10月からはじまる後期の総合学習講座への生徒振り分けや日程調整などの仕事もあるため、この文化祭を楽しんでいる余裕はあまりない。もちろん、後期の授業の準備もこの時期を除くとあまりできない。それで、まだ仕事のはじまらない朝方や放課後を利用して、授業につかうプリントなどを印刷したり、授業展開などを検討したりしている。

 いままで勤務してきたさまざまな学校で、文化祭を経験してきた。それぞれの学校でやり方もちがうので、一概に比較はできない。まあ、強いていえば、現在の勤務校では生徒たちがほとんど自主的にうごいてくれるので、こちらから「ああせい、こうせい」といわなくてもいいことかな。怒鳴ることもないので、ストレスは感じない。夜もおそくまで準備に打ち込む生徒がおおいが、遅くても19:00までには下校させるようにしている。この3月までは、帰りの時間はとても気になった。駅までのバスの本数は減るし、時間もどんどん不定期になってくる。帰宅には1時間半くらいかかることもおおかった。でも、今はどんなに遅くなっても、歩いて15分もかからないので、本当にたすかっている。学校に残って教材研究などをしても、ストレスはない。ゆったりとした気持ちで、仕事ができる幸せをかんじている。これから、日も短くなる。帰りも田んぼ道をのんびり歩いているが、まるで小学校・中学校時代にもどったようで、なんともおかしい。月の明るい日は、実った稲穂がきれいにみえる。そう、中秋の名月の時期なのだ。真冬になれば、この学校へ転勤して来れたことが、より一層幸運だったことがわかるだろう。

 明日からは2日間、文化祭である。台風17号もどうやら直撃はなさそうなので、すこし安心したが、生徒の準備が雨などで無駄にならないように祈るだけだ。きょうも帰りは遅くなりそうだ。

■2005/09/20(火) 07:39 同窓会を終えて

 日曜日の夕方6:00に大和駅で山路先生と待ち合わせした。時間通りに駅で合流。まだ、同窓会のはじまる時間にはすこし早いが、日曜日でいつも飲みにいっている酒場もきょうはお休み。ぶらぶらしていても仕方ないので、会場のホテルにむかうことにした。駅の近くのホテルで、何度も来ているところなので、すぐに到着。会場は7階であることを掲示板で確認。エレベータでのぼる。7階で降りて見渡すと、すでにかなりの卒業生たちがきていた。24年もの年月を瞬間でうめるのはむずかしい。見知っている生徒さん(自分が担任をしていた)は比較的容易に顔がわかった。が、本来、人見知りのところのあるわたしはちょっと気恥ずかしい気持ちで、受付で手続きをした。教員できているのは、まだ、わたしと山路先生だけのようだ。山路先生は1組、わたしは8組の担任だったので、そこで名札をもらった。これは、助かった。名札がないと、正直名前を思い出せないことがおおい。顔はおぼえているものだが、顔と氏名を一致させるのにはけっこう時間がかかるのだ。現在も毎日、いろいろな生徒さんと接しているし、過去の卒業生と混同しておぼえていることもままある。すぐに見分けのつく生徒さんもいれば、相当に変わってしまい、なかなか思い出せない生徒さんもいる。こういうときのために、いつも同窓会にはアルバムをもっていっている。今回もこれを持参した。こういうときのアルバムなのである。

 幹事さんのあいさつで、定刻どおりに開会した。担任からもあいさつを、というので、先輩の山路先生からあいさつがはじまった。まだ、この時間にはわたしと2人しか来ていなかったので、次はわたしである。なにもかんがえてこなかったため、すなおに会えてうれしいこと、声をかけてもらえて感謝している旨、などを話したが、いつもながら支離滅裂な話しになってしまった。すでに亡くなられている綾部先生や中島先生のことなども自然におもいだされて、すこし感傷的になってしまった。元気でおられれば、こういう席でぜひお会いしたかった。わたしが卒業時に担任した3年8組の生徒さんたちとは、ときどきクラス会をしており、6年ぶりほどではあるが、まだ記憶にあたらしい。その生徒さんたち以外は、ほぼ24年ぶりとなる。もう、生きているうちには会えないかもしれないな、となかばあきらめていたMさんにも会えて、近況を聞いてほっとした。どちらかというと内気なところがあり、1年と3年で担任をしたが、卒業後、ずっと気になっていた。今回、24年ぶりで会えて、ほんとうにうれしかった。元気でいてくれるだけで十分なのだ。中には、不幸にして、もう先立ってしまった生徒さんの話もあり、胸がいたんだ。

 立席パーティー形式だったので、ホールの中央には料理もならんでいたが、何も食べなかった。ビールとお酒だけ飲みながら、できる限りおおくの卒業生とすこしでも会話できれば、と会場内をまわった。この学年はたぶん340名ほどの生徒さんがいたように記憶している。きょう、集まってくれたひとは、その3分の1ほどの100名前後であろう。いろいろな同窓会やクラス会にいっても、この比率はほぼ一定している。不思議なものである。ふだんは、お酌してまわることなど、ほとんどしない(どうも面倒くさくて)のだが、この日は、すなおにお酌してまわった。いろんな生徒さんとも話しをした。かれらもまだ40代にはいったばかりで、思い出ばなしには、ちと早い。どちらかというと近況を語りあったという印象をうける。「先生には何度かおこられて、殴られたよ」とかいう話しもけっこうあった。今だったら、即、懲戒免職であろう。あの頃は、わたしも毎日必死で生徒と向き合っていたので、それで気合がはいっていたのかもしれない。「すまなかった」とすなおに謝罪したが、ほとんどの生徒さんは「今の先生たちは本気で怒らないので、生徒たちが好き放題やっているんじゃないのかな」とかいっていた。わたしにも、その辺のことはよくわからない。こういう機会が、これからもあるのかなー、などとかんがえていたら、もう散開の時間があっという間に来てしまった。2時間なんてこういうときは、瞬時にすぎてしまう。

 労をとってくれた幹事さんたちが2次会も用意してくれていたようだが、3年8組の生徒さんたちも2次会にいくという。両方とも誘われたが、からだはひとつ。とりあえず、クラスの人たちとひとときを過ごし、その後、幹事さんたちが用意してくれた会場へ移動するということで、ホテルを出た。クラスの人たちでも、24年ぶりの人もいる。お互いに名刺を渡したり、連絡先を聞いたりして、またの機会の手がかりを得るようにした。わたしも定年を迎えてしまえば、そう連絡もとれなくなってしまうかもしれないからだ。クラス会の話しもでて、近日中にまた連絡をくれることになった。また、楽しみができた。こういう何気ないことが仕事をしていても励みになるものなのだ。本当は、学年全員とはいかないまでも、もう一度、彼らと修学旅行でもしたい気持ちなのだ。今度は、いっしょに夜おそくまでゆっくり飲めるし、これからが本当の人間としてのつきあいじゃないのか、という気がしているのだ。そのためにも、健康にだけは気をつけたい、と少しでもセーブする気持ちもわいてくる。

 クラスのメンバーとの2次会も終わると、幹事さんたちが用意してくれた場所へ移動。行ってみたら、多くの卒業生たちもまだ飲んでいて、会話がはずんでいた。ありがたい。ここでも、中学生時代にはほとんどゆっくり話す機会のなかったひとたちと話せて、感謝。あまりの盛り上がりに、もう、この会場で、終電は行ってしまった。来るときから、帰りはタクシーだな、とはおもっていたが、その後の成り行きで、クラスの男子たち(遠くは埼玉からもきてくれた)と朝までカラオケで歌いまくった。朝5:00まで終夜歌いまくり、日のあがってきた5:00過ぎに、次の再会を期して、別れがたくはあったが、みんなと別れ、家路についた。ほんとうにひさしぶりの徹夜であったが、眠いよりも頭のなかが過去とのうめあわせに忙しいようで、辺に冴えていた。いつも早朝4:00にはおきているので、この時間ではもう寝れないだろう。家にもどって、風呂にはいって、ゆっくりと心をおちつけた。そして、一応寝床について、うつらうつらしていたら、寝てしまった。起きると、昼前の11:00になっていた。ほとんど何も食べていなかったので、空腹をおぼえ、早めの昼食をとった。

 いい同窓会だった。こういう機会をつくってくれた幹事さんたちは大変だっただろう。もう、住所不明のひともおおいはず。何とか連絡のついたひとをまとめて、これだけの会を開くというのは、大変なことだ。心から感謝したい。これからが本当の大人の付き合いなのだろうな。わたしは、そんなことをおもいながら、この日は一日ボーとしていた。みんなの顔が次々に浮かんできていた。

 今朝は、だるい。歳のせいか、きょうあたりから徹夜の飲み食いのつかれがでてくるのであろう。でも、これもいい想い出だ。

■2005/09/18(日) 07:41 同窓会を前に

 いまほど、卒業アルバムをながめていた。24年ほどまえに卒業していった生徒さんたちのアルバムを。わたしが、3年間担任をして、送り出した最初の卒業生たちの思い出のものだ。新卒で教員になり、そのまま新1年生の担任に。そして、夢中で3年間をいっしょに送り、そして、かけぬけるように去っていった生徒さんたちである。

 この春ごろ、その卒業生のある女子からなつかしい電話がかかってきた。この秋にはじめて学年全体の同窓会をする予定なので、出席できないか、という。もちろん、よろこんで参加させてもらうことにした。その同窓会が今夜ある。電話をしてきた女子(というのはもう失礼だろう、りっぱな女性である)は、わたしも担任した生徒さんで、顔もはっきりとおぼえている。いうまでもないが、中学生時代の顔である。卒業していってから24年以上もたつ。この間、1度もお会いしたことはない。今夜、どんなメンバーが集まってくれるのかは、何の情報もない。ただ、8クラスもあった当時の卒業アルバムを押入れの中からようやくさがしだし、むかしの記憶をたどるように見かえしている。

 卒業時にわたしのクラス(3年8組)であった生徒さんたちとは、何度かクラス会をやっており、交流はある。ただ、学年全体で集まるのは、今度がはじめてだ。当時の同僚の先生方もこられるらしい。なつかしい。学年主任をしてくれていた綾部先生や当時の校長先生などは、すでに病で亡くなられて、もうこの世にはおられない。生徒さんたちの中にも、若くして亡くなられたひともあり、胸がいたむ。わたし自身、自分が50代までなんとか健康でいられるだろうとは、当時はおもっていなかった。だから、いまこうして四半世紀をこえて、当時の生徒さんたちと会えるとは、幸運の一語につきる。

 みんなそれぞれの人生を送っておられるだろうから、時期わるく今夜は会えないひとも多数いるかもしれない。でも、わたしにとっては、教師として最初の卒業生であり、一生忘れることのできないひとたちである。みんな40代になり、社会的にも一番充実しているときでもある。わたしの記憶にあるのは、まだ幼さののこる中学生時代のかれらのことだけだ。おそらく、今夜の最初の顔合わせでは、誰だったか、おもいだせない生徒さんもおおいことだろう。卒業アルバムにある顔と人生の荒波をのりこえてきている現在のかれらとは、容易に一致するはずもない。うちとけて話をしているうちに、ひょっとするとあの時代にもどれるかもしれない。そんなおもいもあり、卒業アルバムをみながら、予習にはげんでいるところだ。

 卒業したら会えない、とわたしはいつもおもっている。だから、目のまえに生徒さんがいるうちにやれることはやる。そういう気持ちで仕事をしてきた。しかし、こういう再会もときとしてある。教師冥利につきる。同窓会での教師の役割は、本当はない。でも、こうして声をかけてもらえるだけでもうれしい。卒業生どおし集まるための口実にでもなれれば、それで十分だ。今夜はかれらの交友のじゅまにならないように、おとなしく「恩師らしく」ふるまっていよう。もう、わたしも、十分に歳だ。かれらに会えるのも、ひょっとするとこれが最後になるかもしれない。いつもそうおもいながら、貴重な機会をつくってくれた幹事さんたちに感謝している。ありがとう。

■2005/09/08(木) 07:38 ようやくお酒の季節

 昨夕は、仕事も一区切りつけたのと、台風14号が関東地方をはなれ天気も回復してきたので、一杯やることにして、出かけた。台風による雨がつづいて、気温はそれほどではないにせよ、湿気はすごく、蒸し暑い。よって、いつもの店にはいると、すぐにビールの生大をたのみ、冷やっこと枝豆、手羽でグビビっと一気に飲みほした。毎晩、発泡酒またはその他の雑酒をさびしく飲んでいるので、外で飲むときには、本物のビールをまずはいただくことにしている。やはりホップの苦味がちがうのか、舌の鈍感なわたしでも、なんとなくちがいはわかる。本物はやはりうまい。

 ここで、軽く飲んだら、すぐにきょうの本命である日本酒コースへ移動する。じつは、友人のYさんに以前おしえてもらったおいしい青森の酒「田酒(でんしゅ)」というのがおいてある居酒屋が次の店である。店にはいると、早速注文。1週間前ほどに来たときには、切らしていて飲めなかった。今回は、まだ開店早々なので、大丈夫だろうとおもっていた。そうしたら、またしても、注文のあとにお酒が切れていることがわかり、結局飲めなかった。地元の青森・七戸あたりでもなかなか手に入らないというから、先週からずっと切れたままであったのだろう。それだったら、メニューにはっきりと「切れてます」とかいてあったほうが親切である。わかっていれば、べつのもっとツマミのおいしいお店に行ったのに…。それにしても、残念だった。

 お酒は好きであるが(今年にはいって飲んでない日はまずない)、銘柄にこだわったりはほとんどしない。旨い酒だな、というくらいはわかる。でも、あまりそんなことはどうでもいい。よほどまずい酒ならいやだが、そんなことはそうあることではない。お酒の薀蓄(うんちく)を語ったりもきらいだ。要は酒を飲みながら、だべるのが好きなだけだ。家での晩酌は、習慣みたいなものだ。

 すこし涼しくなって日本酒のおいしい時期がちかづいてきた。秋は好きな季節なので、この時期にゆっくりと飲みたい。もう、量を飲める身体でもなくなっているので、適量をたのしく飲みたい。付き合いで飲む酒はおいしくないので、飲まない。

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■2005/08/30(火) 16:10 物理講習会終了

 しぶとく、講習会についてかく。ようやく、物理講習会がおわった。ホッとしている。昨日でおえたのだが、まだ余韻はのこっている。これをやっている間は、毎日こちらも必死で予習をし、どういう風に短時間で解説するか、などなどあれこれかんがえているので、他のことはほとんどできなかった。これは、昨年、前任校でおこなったときもおなじであった。ほとんどの問題は、国公立中位レベル以上の大学もしくは私学の難関大学の問題なので、生徒も解答を読んでくるだけでも大変なことはいうまでもない。教える立場のわたしにしても、それはおなじだ。

 とにかく予定していた70題は一通りはおえた。が、じつはこれからが本番なのだが、ここまでの14日間頑張りとおした生徒たちは立派である。そして、お付き合いしてもらったことを感謝している。使った問題集で改善したほうがいい点にも気づくことができた。これは、自分も生徒とおなじ視点で問題を解いてみなければ、けっして気づくことはなかったとおもう。この次にまた講習をするときのいい経験になった。

 どんな参考書や問題集でも、最低は3回ほどはやらないと身につかない。とにかく、くりかえす時間があれば、よけいなことをかんがえているヒマに、何度でも読みかえし、手をうごかしてみるのが一番である。この多感な時期に、なにも受験勉強に…、などということなかれ!この時期に、物事に心底打ち込む経験をしないひとは、まずなにをやっても一生おなじだろう。勉強の中身はわすれることもあるだろうが、実体験としてこういうことをやったという感触は一生のこる。それが、そのひとの実力となり、習慣となる。願わくば、がんばった諸君に「志望校合格」の栄光がおとずれることを。わたしは、しずかに酒でも飲んでいるから。

■2005/08/27(土) 13:03 物理講習会あと1日

 今朝も9:00ちょうどから、物理講習会をはじめた。前期(7/21〜7/28)に7日間やり、後期は8/22(月)〜8/29(月)までの7日間をやっている。合計で14日間。入試問題の良問を毎日5題ずつやり、合計70題やることになる。きょうで、65題までおえた。物理の入試の範囲の重要例題73題をすべてやることを目標にしていたので、なんとか計画通りにできる可能性がでてきた。もちろん、全問をすべて生徒が理解、できるようになることなど最初から目標にしていない。とにかく、高校物理で学ぶ内容が、入試問題としてどのような形で出題されるか、その重要項目がどういうものなのかを、なまの入試問題で学んでもらうことを主眼とした。

 当初10名以上いた受講生も気がつくと、5名ほどに減っていた。これも、ほぼ想定していたことだ。すごいハードな勉強なので、よほどの切実感がなければ、ついてこれるはずはない。これを乗りこえた生徒は、9月からの勉強では、かなり精神的に助かるのではないかとおもう。とにもかくにも、入試問題ばかりの問題集を一通り勉強してしまったのだから、あとは、2度目、3度目と繰り返して学んでいけば、物理の勉強に関しては、スムーズに進むとおもう。これから、物理の勉強をはじめる生徒たちとは、もうはるかに差はついている。

 この講習会の目的の裏には、じつは、わたし自身の勉強もふくまれている。毎日細切れのように授業していると、高校物理を丸ごと集中して勉強する機会というのは、そうない。それに、自分で物理を学ぶといっても、どうしても好きなものに偏りがちになる。生徒に教えるとなると、嫌でも全部の範囲をもれなく復習しなければならないので、こちらとしてもとても勉強になるのだ。いっしょに学ぶ仲間がいれば、学びやすいのは、生徒でも教員でもおなじである。あまり、自分の負担にならないように、生徒が自分で解答を書き、調べる方式にした。わたし自身も生徒とおなじペースで教材研究をすることにした。おかげで、何とか目的はほぼ達成できた。

 ちなみに、こういう講習会をするしないは、教員個人が決めることである(勤務校では)。わたしは、昨年も前任校でおなじ形式でやったので、転勤してきた現在の勤務校でもおなじようにやってみた。こちらもとても勉強になった。また、冬休みにもやろうかとおもっている。あと1日。何だか、少しさびしい気持ちがしないでもない。最後まで、きっちりやろうとおもっている。

■2005/08/12(金) 08:26 山行記完成!

 いまほど、今年の夏山の山行記をアップした。月曜日(8/8)に一応書きおえたが、山路さんからもらった山行記と時間のすりあわせをしたり、手直しをしたりして、ようやく作業もすみ、今朝のすずしいうちにと急いでアップした。このところ、暑い日がつづいており、日中は室温が35℃前後まであがるため、朝か夜しか作業ができなかったが、深夜から雨がぱらついて、今朝はかなりすずしくなった。お盆前にゆっくり作業できるのはこのとき、とばかり6:00前からパソコンを起動して、作業にはいっていた。CPUのセンサーもまだ40℃で、作業には適温だ。写真はまだ載せなかった。というより、写真はまだ届いていない。今回は自分では1枚も撮らなかった。すべて、仲間にまかせていたので、それがCD-Rに焼かれて届くまではどうしようもない。それに、山行記じたいがこんなにはやく完成したのは、じつにはじめてである。山路さんからの山行記も8/9(火)には届いた。これも早すぎる。山をおりてからわずか5日間で仕上げたわけだ。今回の気合のほどがしれる。

 この山行記を書くと、ようやく、山をのぼりおえたという気持ちになってくる。今年は10月にも秋の山を予定している。それをかんがえるにも、この山行記ができないとおちついてかんがえられない。けっして義務感でやっていることではないが、気持ちの切り替えというのはおもったほど簡単ではない。1つ1つのことにキリをつけて、次のステップにむかう。これは何にでも大切なことだとおもう。

 明日はお盆だ。父母の仏壇に花でもかざって、そして親父には好きだった日本酒でも添えて、しずかに今年の山を無事におえたことを報告したい。山でもめずらしく親父の夢をみた。ふだんはわすれたように生活しているが、けっこう気にしているのがわかる。父母を見送って、年月はたつばかりだ。

■2005/08/07(日) 10:31 山行記遅々として進まず

 金曜日に書きはじめた「05夏山山行記」であるが、尾根に登りはじめたところで、キーを打つ手がとまってしまった。そのままにして、渋谷に出かけて、ひさしぶりに大学時代にいっしょにバカをやった仲間と会った。飲んで、話して、気がつくともう終電近く。まずい!と急いで、電車を乗り継いで、自宅近くの駅にたどり着いた。もう、午前さまになっていた。トボトボ歩いて自宅にもどった。娘たちはまだおきていて、さわいでいた。学生時代から一気にタイムマシンのように現実にもどった。わたしはすでに老いの見えはじめたおじさんなのである。

 暑い。昨日は自宅でおとなしく山行記のつづきを書こうと決めていた。しかしである、エアコンもない我が家では室温が35℃近くになる。日当りだけはしっかりいいからだ。短パン・Tシャツ、首にはタオルをまいて、汗まみれでパソコンに向かう。CPUの温度を示すセンサーは60℃近くを表示している。このままでは、パソコンも暴走してしまう。足元にあるパソコン本体に扇風機をむけるが、焼け石に水、いや火に油である。そうおもい、今朝も気温の低い早朝から取り組みはじめたが、記録を書いた手帳を取りに下に行くのもおっくうなほど暑い。現在で34℃ある。ただ、とにかく一通りは書いてみないと、校正もできない。もう、額から流れおちる汗をふきふき、べたつく指でキーボードにむかう。

 本当なら、きょうの更新にあわせて、夏山山行記を仕上げてアップする予定でいたが、甘かった。いくら気合をいれてみても、この暑さでは、わたしの暑さ負けより早くパソコンのCPUが音をあげてしまうかもしれない。エアコンなどはいらないが、パソコンにだけは必要かもしれない。5つのファンは空冷に必死だが、うごかす空気が35℃もあっては、ほとんど意味をなさない。ま、あわてても仕方ない。気温の下がる夕刻まで待つしかないかとあきらめつつある。

■2005/08/05(金) 09:38 夏山山行記書き

 先週の土曜日、7月30日早朝から夏山に出かけてきた。目的の山は北アルプス北部にある「剱岳」である。学生時代に一度登っているが、もう30年近くも前のことであり、実質的にははじめてみたいなものである。単純に室堂から入り、別山尾根をつめてピストンで登るのが一番省エネでいいのだが、今回はあえて、学生時代にも登った「早月尾根(標高差2200mで日本第2位)」を登り、室堂へ降りてくるコースを組んでみた。山岳会のメンバーの力量からして、もっともふさわしい登り方であり、みんな満足してくれるだろうと勝手に想像して、計画をたてた。

 日本国内の山々の中で、一般的コースとしては最も難易度の高い山であり、危険もともなう山である。実際、われわれが行った前日には2件の遭難があり、2名がなくなっていた。そのニュースを早月尾根の末端にある馬場島できいたときは、自然に緊張感が高まった。この尾根の最上部(標高差400m)はきびしい岩稜であり、岩登りの世界だ。翌朝から登るというのに、付け焼刃的な柔軟体操などをはじめるありさまだ。どう騒いでも、登ってみなければ、状況はつかめないのだが。

 くわしい山行のようすは、べつに「2005年夏山山行記」というので、これから書く予定でいる。幸い、何とか天気にはめぐまれて、無事予定通りに下山できた。予備日としてとっておいた日にちが2日ほどあまった。本当なら自宅でのんびり休養していればいいのだろうが、自宅では暑くてとても集中できない。「ちょっと仕事にいってくる」と出かけてきた。が、もう夏期休暇にしてあるので、出勤にはならない。だれにも邪魔されずに一気に山行記を書きあげてしまおうとおもっている。そろそろ、気合もはいってきたので、はじめるつもりだ。山登りが本当におわるのは、この山行記を書いてからだ。それがおわったら、また飲みにいく。今夜は渋谷だ。

■2005/07/21(木) 07:55 夏の物理講習会

 このところ仕事がらみのことを書くことが多い。別のことを期待されている方には申し訳ない。今回もまた、本日よりはじめる「05夏の物理講習会・前期日程」について少し書く。

 いつも通りの出勤なので、7:05には職場に一番乗りした。校内は夏休みにはいったためか、どことなく間の抜けたような雰囲気をかんじる。まずは、出勤簿に捺印。今月は、捺印が押されていない日にちは、現在のところ2日だ。自分でもよく来ているな、とちょっと感心する。自宅に書斎をもたないわたしには、多少はそういう意味での逃げ場所でもあるから、これは自慢にもならない。マンションの1室をいつも自由につかっているみたいなものなので、むしろ感謝すべきことだ。お湯を沸かし、コーヒーを飲みながら、きょうの講習会のはじめにいっておくことを頭の中で確認している。紙に書けばいいのだが、どうもその辺は昔からものぐさである。

 いま、前任校で物理を教えていた生徒が早々と物理実験室に到着した。夏の講習会にくるというので、先日、下見にまできた。彼は、まじめを絵に描いたようなところがあり、それが美点でもあるが、また反面、若者のかたくなさを感じさせもする。が、昨今、要領の良さだけで上っ面がわかったようなものが増えている中では、貴重な若者である。彼のような生徒を伸ばすのも、わたしたちの仕事であるが、そういうことを自覚している教員もこれまた少ない。

 講習1日目は、9:00ちょうどにはじめて、12:00前におわった。75分間で5問の厳選入試問題を解いてもらい、そのあと、解答の確認。質疑応答。などして所定の内容をおえた。予備校・塾などとちがい、講義はほとんどしない。もう、そういう形のものは飽きた。時間に追われた講師が一生懸命に説明・板書したものを受講生は必死で写す。それなら、最初から解答を正確に作って、配布したほうが早い。75分で5問はつらくないかと生徒に聞いたら、じっくり考えられたので、よかったという。もちろん、全問の正解を期待してはいない。どの大学でも合格ラインは7割もいかない。よって、5問中3問できれば上等である。しかし、じっくり考えたあとの解答見直しなので、できなかった問題も頭にしっかり残る。それがねらいだ。解答がおわったあとは、少し時間をいれて、実験をみせた。これは、生徒も不思議がっていた。強力なネオジム磁石が1つ不明になったが、ひょっとするとだれかが黙ってもっていったのかもしれない。でも、あんなのを携帯のそばにでもいれたら、携帯はダメになっているだろうに…。もし、そういう生徒がいたとしたら、憐れである。処置に困るだろう。

 明日も2日目がある。もう、前期の準備はほぼしてあるが、きょうのようすをみても、やはり数式と計算に振りまわされている生徒が多い。計算がしっかりできないのは、普段の練習が足りないからだろう。これは、何も生徒だけのせいではない。そういう計算法もふくめて、勘所をちょこっと解説する。あとは、個別に質問に応じる。ただし、テキストにしている問題集の問題に関してだけである。あれもこれもに対処できるほど、わたしの実力はない。問題集の隅々までやったわけでもないので、毎回ハラハラしながらの講習になる。こちらも勉強だ。教えたつもりで、じつは自分が勉強しているという、ちゃっかりした勉強法でもある。

■2005/07/17(日) 17:42 サイエンスカーニバル

 自宅のある市で、明日の海の日、「サイエンスカーニバル」がひらかれる。会場は勤務校のある場所から少しはなれたところにある小学校を借り切っておこなわれる。わたしの勤務する高校でも、物理科を中心にいろいろな実験を用意して、一般のひとたちにふだんなかなか「生」でみることのできない実験を見てもらう予定でいる。これらの実験は、わたしが個人的にはじめた「数理科学研究会」に集まってきてくれた有志の生徒たちが放課後おそくまで残って手伝ってくれて完成することができた。この活動のなかで、生徒たちの発想におどろいたことも多数あった。やはり、若者のもつパワーはなにものにも変えがたい。

 どんな実験書にものっていない独創的な実験も何個かは用意できた。実験理念の基本ベースには「シンプルな実験がよりベターだ」というのがある。今回目指したことはこれにつきる。どんな立派な実験でも、それがブラックボックスになってしまっていては、何の意味もない。だから、無骨でもいいから、実験の原理がはっきりと見えるように極力配慮した。いっしょに物理を担当しているK先生は、松本出身のまさしく物理屋にふさわしい人である。毎日のようにいろいろな実験をかんがえては、二人で、実際にやってみている。失敗がほとんどだが、ときに成功する。二人で、子供のようにはしゃぐときが一番たのしい。この学校へ転勤してきて、これが最高に幸運だったとおもう。同僚を自分で選ぶことはできないから、こういう方と毎日をすごせるのは、じつにありがたいことだ、と自分ではひそかに感謝している。若きころ、後輩のSさんと「実験アカデミー」というのを作り、まだ当時はほとんど知られていなかったゴミ袋でつくる熱気球などを苦心して完成したときのことなどを、ふとおもいだす。彼は、もうこのような世界は離れてしまっている。

 明日は、いよいよ本番だ。まったくのボランティア活動なので、こちらがただ楽しみたいためにやるようなものである。これだけのために、相当な準備をしてきた。仕事で授業をするのよりは、どう比較しても、こちらのほうが楽しい。自分が理論的に知っていることなどを総動員しても、実験の予測ができないときなどは、こどもに返ってうれしさ倍増である。そして、実験の結果をみて、またおどろく。こういうのは、教科書に書いてあるようなちゃちな実験ではあじわえない。やはり、わたしたちも生徒たちもまったくはじめてというような実験だと、どんな生徒でも黙る。目が点になる。そういうときに、物理の教師をしてきて本当によかったと心底おもう。明日は、いつも通り学校へゆき、再度、予備実験をして、生徒と会場へ向かう。もう、3週間ほど休んでいない。でも、こういう充実感があれば、疲れもそう感じない。まだやってない実験の材料をさきほど手に入れてきた。それを、早くやりたくてもどかしい。もうこうなるといい歳をした、単なる科学バカおやじである。

■2005/07/10(日) 07:48 部活動と顧問

 この雑感では、仕事のことはあまりふれないようにしている。が、ときには、やむをえず書いてしまうこともある。中学以上になると、どの学校でも「部活動」の話題がでてくる。生徒も部活動は学校生活の一部のようにいわれているためか、それにまきこまれる。わたし自身も、小・中・高・大とスポーツに夢中であった。それぞれに顧問の先生がいたのだが、わたしの時代は、それほど顧問が前面にでることはなかった。そもそも、部活動は「クラブ活動」という学校の教科外のものが、いつの間にか常態化してしまった異種である。世界的にみれば、学校で部活動などやっているところは、むしろ少ないとおもってまちがいない。わが国では、これをやるのが当然みたいな風潮になっている。おかしい。

 教員の世界でも、いつの間にか、この部活動の顧問をもつのは当然みたいになっており、転勤時などでも「どの部活動をお願いできますか?」みたいに管理職から質問される。とくに、希望を出さないと、一番みんなに敬遠されがちな部活動(毎日遅くまでやっている…いわゆる熱心な部活動)にまわされる。そういう部活動は世間的には「熱心だ」みたいにいわれていることが多い。とにかく年中活動しているので、顧問は多数いて、それで分担して、何とか土日などのやりくりをしている。部活動を熱心にみる教員がいい先生みたいにみる保護者の目もある。わたしのように「部活動などボランティア活動である」などと公言していると、管理職からも同僚からも白い目で見られる。しかし、どの教育関連法令集をみても、「教員は部活動の顧問をしなければならない」などと明文化されたものをみたことはない。文部科学省もこういうことには、知らぬ存ぜぬを決め込む。ただ、現実には、そこそこのレベル以上の学校では、部活動はじつに盛んだ。それ自体に、わたし自身も文句をいうつもりはない。こちらも楽しくやれるなら、それは何の問題もないからだ。ただ、助っ人顧問で、仕方なしにやっているのに、「見るのが当然だろう」みたいな雰囲気にはどうも違和感をもつ。学校で本当にやらねばならないものは何か、かんがえてみれば、それはおのずとわかるはずである。

 いま勤務している学校でも部活動はさかんだ。きょうも午後から部活動にいく。学校では「顧問のいない部活動はありえない」ことになっているので、だれかかならず「顧問」がつく。何かの事故があったときは、その顧問の責任になる。わたし自身は、顧問を2つしているが、それに伴う報酬などは一切もらっていない。請求するとスズメの涙ほどの手当てがでるようだが、いちいちこまごました文書をださないといけないので、面倒くさい。もともと、ボランティアであるとおもっているので、割り切っている。これで、責任問題になったとしても、それはわたしの怠慢であろうから、甘んじて処分を受けるしかない。生徒たちとお互い好きでその活動をするのは、ほんとうに楽しい。でも、何の興味も関心もないものをただ義務感だけで見ていなければならないのは、あまり気分のいいものではない。まったく個人的に立ち上げている(学校未公認)「数理科学研究会」は毎日、楽しい。来てくれている生徒もいい。そんな雰囲気でできるなら、顧問という名前などなくても、土日でも喜んでやりたい。現在、日本中でおこなわれている部活動は、全部でないにしても、どこかおかしい。いろんな学校の先生方と話す機会もあるが、いつもそうおもう。それでも、気弱な自分はほかの職員から白い目でみられるのもいやなので、とぼとぼと土日の部活動に足をはこぶ。ま、実際に歩いて行くのだが…。

■2005/07/03(日) 20:12 猫

 我が家に、とうとう「猫」がきてしまった。高校生の末娘が同級生のところから、勝手にもらってきてしまい、いつの間にか家の中を飛び回っている。わたしも、家内も動物はそれほど好きではないので、いままで犬も猫も飼うことを許さなかった。が、末娘はかなりのしぶとさで対抗して、ついに友だちといっしょに我が家にのり込んできて、生後4ヶ月ほどの猫をおいていった。実力行使である。わたしの実家や家内のところでも、猫はふつうにいた。それは、ペットでもなんでもなくて、ねずみ退治のための使用猫みたいな感じで、日常の一風景でしかなかった。小さいころからいたし、特段に意識することなどなかった。ところが、いまやペットブームである。餌も人間様よりいいものを食っているのもいるらしい。

 しかたなく、おくことにしたが、面倒は娘がほぼ一人でみるように厳命した。わたしたちは、よほどのことがない限りは、世話はしないことにした。生まれた家で、トイレの習慣はつけていたようで、きちんと決められたところでしているのは、感心している。ふつうの雑種猫で、毛色は茶。名前はつい先ほどまで決まってなかったが、「直太郎(なおたろう)…愛称チーくん」と決まった。どうも歌手の名前らしい。餌は、昔風に残りご飯にじゃこやカツオ節を少々という地味なものしか出さない。最初はなかなか食べようとしなかったが、何も食べさせないので、いまはそれを仕方なく食べている。それでいい。家のものが全員留守にするときは、留守番である。どうも、そのときは、ただ寝ているだけらしい。わたしが早朝に起きると、まねをして、起きてくる。正直迷惑なのだが、まるで人間に話すように「おい、きのうは何してたんだ」などと会話をしている。はじめてきたときは、ビクついていた。まだ来てからそれほど経っていないが、いまはしっかり家の中でくつろいでいる。不思議なもので、子猫1匹が家の中の雰囲気をかえている。何かしているわけではないのだが、ただいるだけでちがうようだ。ほとんど手のかからない「亀さん」は飼っていたが、これも娘のもの。でも、自分で世話をしなくては、とおもってくれて、実行している娘にこれ以上にきつくいうつもりはない。仲良くやってくれれば、それでいい。もう、これ以上に動物はふやしてほしくはないが。それでなくても、ゴキブリもしっかりいる。

■2005/06/27(月) 15:47 暑い(~_~;)

 いま、物理準備室内は32℃。窓をあけて、風はいれているが、風そのものがジメジメしていて暑い。梅雨の中休みということらしいが、どうも昨年と似ている。関東地方から以北でも、空梅雨みたいなのだ。夏季休業まではまだ半月以上もあるので、こんな軟弱な梅雨でおわっていいわけはない。もっと、ビシッと降ってほしい。予報では、今夜は少し雨が降るようだが、おおきな崩れにはならないようだ。天気図をみると、梅雨前線は太平洋沿岸からかなり離れたところに停滞していて、しばらくは北上する気配はない。これでは、恵みの雨はなかなか降ってくれない。

 そうこうしていたら、なにやら西から雲が出はじめてきた。予報で少しにわか雨があるらしいといっていたが、それらしい。しかし、それでも暑い。じっとしていても、顔に汗がしたたりおちてくる。それでなくても、汗っかきのわたしには、これくらいの暑さでも、おおいなる刺激である。生まれは夏だが、どうも汗線がおおすぎるのか、このごろはいつも汗まみれで授業をしている。1日が終わると、ほぼ厚手のハンカチが2枚ほどじっとりと濡れる。常時、2枚用意しておいて、部屋で1枚干して乾かし、乾いたほうを白衣のポケットにいれてつかっている。きょうも、午前中ですでに交換した。それに反比例するように、トイレにはほとんどいっていない。まだ、出勤して1回もいっていない。ほとんど汗ででてしまっているのかもしれない。職員で白衣を着ている人が多いのだけれど(これはどこでもそうなのだが、じつに不思議だ。配給されるのは、理科・家庭・養護の各教諭しかないはずなのだが…)、さすがにこの暑さでほとんどそういう方々は、白衣は脱ぎ捨ててしまっている。理系のわたしは、白衣の下には、いつもTシャツを着ており、いくら暑くても白衣を着ている。それが、理系の意地というものでもある。というより、学生時代からの習慣でしかないのだが。真夏でも平気で白衣を着ていてこそ、真の理系人間といえる。と自分ではおもっている。ま、たいした問題ではないけれど。それにしても、ことしの梅雨も暑いなー。

■2005/06/20(月) 15:28 証拠つくりの文書

 どの職場でもそうではないかと想像するが、つくられる文書の8割は何らかの「証拠つくりのため」のものでないかな?こういう無駄なことはいっさいしていないという職場・職種もあることはもちろん承知しているが、大半の文書はこれに近いものではないか、とわたしは個人的にはおもっている。わたしの勤務する学校という組織においても、これはまさにそのとおりである。すぐに結論のでるようなことでも、何度も何度も各分掌や学年に文書で降ろして議論してもらい、そうしてようやく、ごく当たり前の結論になる。以前なら口頭ですんでいたことでも、いちいち文書にしないとなっとくしてくれない。パソコンのような情報機器がいきわたったので、本来なら職場内メールでもまわして、あっという間に回覧して結論を出して、実行するほうに力点をおいたほうがすっきりするとおもうのだが、どうもそうはならない。紙の枚数だけ、増えるだけである。これは、お上から降りてくるのも同じ。公務員の不祥事が報じられるたびに、何枚も綴じこんだ冊子が何度となく配布される。「自分たちはこれだけきちんと注意の文書も出し、指導しているのですよ」、としっかり証拠づけるために。

 こういう姿勢は、公務員だけでなく、どの組織でもほぼ蔓延しているのはないか。内部告発による訴訟が多くなったせいか、返ってこういう防備のための措置がますます増加しているのだろう。種々の学校で出す文書の大半もこれと同類だとおもってまずまちがいない。わたしも仕事上で、こうした文書を嫌々ではあるが、つくることはよくある。「説明はきちんとしましたよ。これが、その資料です。」「エェ!聞いてなかったのですか?それは、もうこちらの責任ではないですよ…」という構図である。文書の一人歩きである。それも、ただ「こちらには責任はないんですよ」という証拠つくりのための文書が。情報機器がゆきわたって、返って使う紙の量がふえたというのは、当初の予想とはちがい、まったくの皮肉である。こういうことは、だれもいわないが、以前はきちんとそういう議論をしていたことをおもいだす。何かいつも「証拠つくり」をしているようで、ほんとうにむなしい。何とかならないかなー。

■2005/06/14(火) 08:05 物理の実習生を迎えて

 先週の月曜日(6/6)から、物理の教育実習生がきている。勤務している高校の卒業生で、教員をめざしている物理学科の学生さんだ。こちらに転勤してきたら、すでに今年度実習にくることが決まっていた(これは、どの学校でも前年度に予約してある)。さて、指導をだれがするかになったが、先輩教師のKさんはあまりのり気でない。わたしはというと、本来なら前任校で今年度実習生の指導をする予定になっていた。転勤でその実習生にも迷惑をかけてしまった形なので、罪滅ぼしの気持ちもあり、わたしがその指導にあたることになった。

 教育実習にくる学生さんが全員、教育の仕事につくことなどないことなどは百も承知。しかし、指導するときには、建前としては、いずれ教員になって活躍してくれるだろう、ということを念頭においてやる。そうでなければ、こちらだって真剣に指導しようという気持ちにはならない。要するに、自分たちの後継者をつくるという気持ちである。わずか、2・3週間で教員がやっている仕事のノウハウなど教えることなどできるわけはない。が、真剣に学んでくれる実習生なら、この仕事の根っこの部分だけでもきちんと理解して実習を終えてもらえればとおもいつつ、ともに物理室で授業の準備をしたり、実験の装置をそろえたりする。授業の進度という面でみれば、たしかに生徒にはある一面での負担を強いることになるのかもしれない。しかし、この仕事に就くものなら、どこかで通らなければならない道である。やる気をもって、生徒にも、その真剣さが伝わってくれることをねがっている。失敗など当然なので、こちらもそんなことで叱ることはない。むしろ、その失敗をいかしてほしい。わたしだっておなじ失敗はしてきたし、今でも失敗はつづいている。どこかには、完璧なる教員がいるのだろうが、残念ながらわたしは遭ったことがない。

 放課後まで生徒たちと物理の問題解きに打ち込んでいると、実習生もきてくれて生徒と問題をかんがえてくれる。こういう雰囲気が本当は真の実力をつけてくれる。問題について生徒たちと議論していると、こちらも新たに知ることもおおい。生徒に教え、生徒から学ぶ。こういうときに、物理教師になれてよかったとかんじる。定年などなくて、いつまでも教えていいのなら、物理実験室でたおれるまでそうしていたい。若いときにはもどれないが、気持ちはいつも青年教師のつもりでいる。放課後のひとときを実習生と「物理談義」ですごしていると、ほんとうに若い気持ちになれる。最近とやかくいわれる「若い人たち」だが、そんなことはない。いつの時代でも、若者はそうだったし、わたしは素直に彼らに期待している。きっと、わたしたちなど超えていくことはまちがいない。

■2005/05/27(金) 16:19 モーツァルトを聴きながら

 前期中間テストもきょうが最終日。わたしの担当する3年物理のテストも本日おこなわれた。朝のうちに「解答例」(一応これを基準に採点する)もつくっておいたので、テスト終了後、空き時間を利用して一気に採点した。仕事を自宅に持ち帰る習慣のないわたしにとっては、職場にいるあいだの「ちょっとしたスキマ時間」でも利用してやる。まとまった時間がとれれば、それが一番であるが、試験期間中といえど、いろいろな会議や研修会もはいる。だから、やれるときに1枚でもやる。このスキマ時間利用法は、大先輩教師だった故・中島正忠先生から盗んだ方式である。これをもう四半世紀つづけている。この方式だと、気づかれすることなく、採点などが自然におわっているから不思議だ。まとめてやろうとすると、返ってつかれるから、この方式のほうが自分にはあっている。そんなわけで、きょうはこの時間にはすべての仕事はおわって、あとは帰宅までの時間をのんびりと本を読んでいる。読んでいる本は、数学の本だがキャラハンという人の書いた『時空の幾何学…特殊および一版相対論の数学的基礎』という本だ。これは、じつに明解でいい本である。BGMには、わたしの大好きなモーツァルトの『ピアノ協奏曲第26番ニ短調K.537「戴冠式」』を流している。これもわたしの好きな指揮者ジョージ・セル、ビアノがロベール・カサドシュの演奏である。第2楽章:ラルゲットがとても気にいっている。物理室にボロいCDラジカセが置き去りにしてあったので、きれいに直して(掃除もして)それで聞いている。音質などははっきりいってどうでもいい。生演奏が聴きたければ、コンサートにいけばいいのだから。まもなく勤務時間もおわる。

 いつもなら、自宅まで歩いてのんびり帰るのだが、きょうは18:30から現任校の歓送迎会があるので、出席する。歓送迎会のメインは転出・退職したひとを送りだすことだから、転入してきたわたしなどは、お呼びがかからないかぎりはだまって飲んでいればいい。あすも午前中は部活動指導で出勤する。この物理室でのんびりと仕事をしていると、それほどのストレスはない。こういうのは、おそらくは「贅沢」な生活なのかもしれない、とときどきおもう。こういう公共の場所を私的空間のようにしてつかえるのは、ほんとうに感謝感激である。実験装置を組み立て、何度もあれこれためしてみる。物理の問題などをかんがえたり、生徒用に問題をつくったり、これで給料をもらっているのだから、ありがたいことだと感謝している。あまり深刻にはかんがえていないが、生徒たちに物理のおもしろさを感じてもらい、一人でも「物理が好きですよ」といってくれるとうれしい。このために、わたしも日々、自分自身でも物理を楽しんで勉強しつづけている。おそらく、死ぬ瞬間までやっても修得はできないことは薄々自覚はしているが。モーツァルトの曲がもうすぐおわる。

■2005/05/25(水) 07:47 自宅PCも完全にXPへ

 昨夜、自宅でつかっているパソコンに1箇所だけWindows98SEのなごりを残していたHDD(データ用につかっている)をフォーマットして、ファイルシステムをNTFSにした。すでに、以前のデータ類は移すべきものは160GB のC:\にコピーし終えてあったので、いつやるかだった。XPから98SEは見えるから別段データドライブのファイル形式を変える必要はないともいえるが、このHDDにはもう使えないアプリケーション類のファイルがたくさん残っていたので、全部をデータ保存用にするには、一度全部をきれいにフォーマットして、つかいたいとかんがえていたのだ。このHDD自体は80GBあるので、わたしがこの先どう頑張っても、このドライブに入りきれないほどのデータ類(まあ、そのほとんどはわたしの個人的なつまらないものだが)を保存することはちょっとかんがえられない。もうこれで十分である。これに残せるものはのこしておこうとおもっている。これらのデータの中には、自分でパソコンをもつようになった15年ほど前からのデータがほとんど残してあるから、一応移行はしたものの、データをフォーマットで消去するときは、なんとも寂しい気持ちになった。きれいさっぱりに「捨てる」ということがあまり上手にできない性格なのか、未練たらたらであった。現金なもので、フォーマットが終わってしまうと、なぜか気分はさっぱりしたが。もう特別な方法でも使わないかぎり、あれらのデータを復活させることはできない。

 一時的にC:\ドライブに退避させておいたデータもこのデータ用ドライブに再度移動した。たっぷりと容量はあるので、いままでの、そしてこれからのデータはできるかぎりこのデータ用に保存して、ときどきCD-ROMにでも焼きつけてとっておきたい。こんなものは、わたしの自己満足であることは承知している。本とおなじで、本人がいなくなれば、そんなものはほとんど「ゴミ」でしかない。だれかが使うなどというのは、ほぼ幻想であろう。こういうのを残す、のこしたい、というなにか本能めいたものが人にはあるのかもしれない。2つのHDDをあわせると、一応は240GBもの保存環境をもつにいたったわけだが、一体これがどれくらいの情報空間なのかは実感としてよくわからない。写真やDVD関連のデータなどほとんど保存していないわたしにとって、この膨大な記憶容量は想像を絶している。40MBのHDDを秋葉原のバッタ屋で7万円もだして買ってきたころがまるで夢の中のことのようにかんじる。

■2005/05/21(土) 17:03 雑感できず

 このところ、「雑感」をかんじているヒマもないほど時間におわれていた。もう、以前のように通勤時間の問題もないし、それらにともなうストレスはとても少なくなっていることは事実だ。そういうことではなくて、仕事上のことで、ちょっと大変になっていたからだ。それは、一緒に転勤してきた理科の同僚が、病で急にたおれられて、その授業の補填に追われてしまったからだ。その方の不注意とかではないし、これはだれにもおこりうることなのだが、来週からの前期中間テストを控えて、生徒たちには迷惑はかけられない、と教科一同が授業を分担してこなす日々がつづいた。幸いにも、教頭もいつもは細かいところまでうるさい人なのだが、じつに協力的で、専門の化学で授業にとりくんでくれた。わたしは、2年・3年の物理はいつもどおりにできていたが、1年生の「理科総合B」は2クラスだけ担当していた。その同僚も2クラス担当していたので、その分はわたしが通常の授業としておこなうことになった。非常勤できてくれている方にも多大のお手伝いを願い、何とか予定していた問題作成なども無事終了。試験範囲までの授業もかろうじて間に合って、来週の試験をむかえることができるようになった。臨機応変な対応と、教科の同僚たちの尽力で何とかここまできたが、まだ先の見通しはたっていない。一番心労で苦しんでいるのは、その病気でたおれた同僚であることは、いうまでもない。心配はしないで、病気をきちんとなおして元気に復帰してくれることを願っているが、それまではまだしばらくわたしたちの授業の補填はつづく。非常勤のひとにきてもらうにも、現在はそういう人がどこでも不足しているため、すぐには補いはつかないという。

 理科の教科会があると、みんな「疲れたねー」とおなじようにいう。どの人も、ぎりぎりの状態になっているのがわかる。現在の勤務校はSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の県レベルのサポート校になっており、以前からそうであるが、科学教育には相当に力をいれている。7時間目には「サイエンス」の科目もおいて、じつにていねいに生徒たちの指導にあたっている。有名大学へいれるというのではなくて、本当に科学の力をもった生徒を送り出したいという願いでやっている。自分の持ち時間でなくても、時間があいていれば、教科の先生以外のひとも気軽にやってきてくれて、いっしょに授業をしてくれている。こういういい雰囲気をもったところなので、わたしも時間の許すかぎり生徒とともに学ぼうとおもっている。ただ、疲れがたまることも事実なので、無理をして倒れるほうが同僚にも迷惑がかかると自重はしている。空き時間には実験装置の準備をしたり、プリント作成、試験の問題作成、生徒の質問に答えるなど、いろいろやることもおおく、「雑感」しているヒマがほんとうにとれなかった。きょうは、土曜日で試験前というので、部活動も一休み。散歩がてら、学校へゆき、来週からの試験問題の作成を昼過ぎまでやってきた。ついでに、印刷まですませて、ようやく一息ついた。自宅にもどって、軽い昼寝。おきて、パソコンにむかったら、めずらしく雑感できるような雰囲気になった。忙しいとは「心を亡くす」と書くが、ほんとうにこのところ心を亡くしていたような気がする。気をつけても、こればかりは自分でどうなることでもないのだが…。

■2005/05/06(金) 14:58 結婚式は疲れる

 結婚式といっても、べつにわたしが結婚するわけではない。もうすでに、四半世紀も結婚は実践している。今回は、この3日に会津でおこなわれた姪(姉の末娘)の結婚式によばれて、出席してきた。めずらしく、家族5名(全員)での出席で、ボロい我が家の車も、人数の重みでこころなしか、動きがわるかった。自宅から会津若松までの370kmほどの距離を運転していった。ゴールデンウィーク中はいつもなら外出はさけるのだが、このような祝い事では仕方あるまい。もう昨年中からこの予定ははいっていたし、それにあわせて種々の仕事もこなしてはいた。

 しかし、転勤がはいったため、それなりのストレスが生じた。職種はおなじでも、職場がかわれば、やりかたもまた一から覚えなおしになる。何回転勤しても、こういうことはまず慣れない。それに、歳をとるにつれて順応性もおちる一方。これでは、周囲の雰囲気を自然にかんじるようになるには、かなり時間がかかりそうである。

 話をもどして、結婚式である。式も披露宴もいい内容だった。かわいがっていた姪というわけで身びいきでいうわけではないが、あまり形にとらわれずにやったのがいい。仲人さんはたてなかったので、お婿さん、お嫁さんの紹介は本人たちを一番よく知っているそれぞれの母親がおこなった。これは、とてもよかった。職場の上司とかがよくでてくる場面であるが、母親に優る人はまずいないだろう。それと、スピーチもみなさんできるかぎり「短く」を心がけておられたようで、目の前にご馳走をおいて…というようなイライラ感もなかった。じつは、わたしには披露宴で「南部俵積み唄」を歌う余興の係りがまわってくる予定になっていた。そのため、それが終わるまでは、おちおち呑み助になっていてはいけないというプレッシャーがかかっていた。しかし、いつまでたってもお声がかからない。宴の終了の時刻まであと残り15分ほど、というあたりで、新婦の母親(わたしの姉)がやってきて、「ごめんね、どうも、余興の打ち合わせで手違いがあったみたいで、きょうは歌はないんだって…」という。あれほど、神経を研ぎ澄まして、日々練習をかかさなかっただけに、まことに残念だった(といいたいところであるが、本心ホッとした)。それからの残り時間は、ピッチをあげて呑んだのは、いうまでもない。しかし、たしかに気づかれはした。

 この日のプレッシャーの急激の解放がたたったのか、翌日の帰京時の車では、眠さがぞっとでて、いつになくSAに何度も立ち寄り、長い時間かかってようやく自宅にもどれた。自宅で荷物の整理がおわると、恒例の晩酌。呑んですぐに寝てしまった。ま、事故もなくいってこれたのは幸いであったが、相当につかれる結婚式であった。今度はだれの番なのかな?

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