なんでも/バックナンバー(2000年2月〜)

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とくに署名のないものは佐々木公明が書いたものです。

2/28●純正律セミナーの報告 10/26●音楽になぜ厳しさを求めるか


2000/10


10/26 音楽になぜ厳しさを求めるか

 ヴェンゲーロフには厳しさがひとつもなく,私には物足りないコンサートでした。

 K.454 では, Mozart の歌を歌い上げるのに弓を浮かせ過ぎで,フレーズの輪郭を浮き上がらせることが二の次になっているようでした。このような歌い回しは中年のサロンのご婦人方を喜ばせるだけで, Mozart の芸術とはなんの関係もないものです。なぜもっとはっきり毅然とした基本的なデタシェで, Mozart の意志を伝えようとしないのでしょうか?
 ピアニストもまた慣れきった弾き方で,なにか音楽を商売の道具にだけ使っているような Mozart でした。 Mozart の音楽自身にも確かにそのようなあざとい側面もあったとは思いますが,慣れ過ぎて注意深さを忘れている。ヴェンゲーロフのヴィブラートにも,そのような「慣れ過ぎ」て雑になっている部分を感じました。
 また Mozart のときから,E線のどれかの音がひとつ楽器のどこかに共振しているのがごく稀に耳につきました。
 私は虚心で Mozart の音楽を楽しもうと目を閉じたりしてみましたが,例えば同じ音が2度続くときに,2音ともまったく同じように弾くヴェンゲーロフの音楽の組み立て方にはやや疑問を感じました。もちろん多くの奏者がもっと無慈悲に2音並べて弾くのに比べれば,十分に表情づけはなされていましたが,そこまで注意が払えるのに,別の箇所ではあまりにも無造作にツンツンと2音並べて過ぎてしまう箇所が数回気になりました。結果的に2音ツンツンと揃ってしまっても悪いことではありませんが,そこまでフレーズを運んでいくそのフレーズそのものの聞かせ方が,無造作なツンツンに解決する動機として弱い。簡単にいってしまえばメリハリが「ない」のではなくてメリハリが「弱い」のですね。これはピアニストにもいえますが,しかしヴェンゲーロフ自身のもっとも重大な問題点だと思います。
(CDでラヴェルのツィガーヌを聴くと,音の大小やテンポの緩急だけでなく,運弓のの鋭さと丸さのあいだにもメリハリが必要だなと感じます。ヴェンゲーロフのツィガーヌはそのメリハリの弱さが問題でした。 Mozart でも結局同じことがいえます)。

 シューベルトの大幻想曲は,15歳のときの CD でも感心しませんでしたが,今回のライブでも,むしろヴェンゲーロフには向いてない曲のように思えました。
 会場にはヴァイオリン・ケースを下げ,首に真っ黒いヴァイオリン痣をこしらえた女子高校生の姿もありましたが,彼女たちのようなオーディションに出まくっているような学生から見ても,ヴェンゲーロフのシューベルトは,弓先での弓の「返し」にアクセントがつき過ぎていることは見抜けるはずです。繋がっていなければならない音が,目を閉じて聴いていても,「あっ,今弓を返した」とわかってしまう。とくに弓先でそれが顕著です。
「慣れきっている」という印象はこういうところに現れるもので,弓先で弓を返した後のダウン・ボウはかなり「弓なり」でフレーズを終わらせていることに,ヴェンゲーロフ自身気づいていないのでしょうか? ヴェンゲーロフのダウン・ボウは「ノー・コントローラブル」と言わざるを得ません。弓の扱いに慣れ切っているだけに,妙な箇所で「弓なり」つまり「弓まかせ」の音楽になっています。15歳時の録音より格段に良くなっているとはいえ,この「弓まかせ」の悪癖は変わっていません。中間部分あたりのアルペジオのところにこの癖が出ます。

 この曲の後休憩になり,ロビーに出たらイタマール・ゴランについて話をしている「ご婦人」方を見かけました。そ〜おなんですよ。キョンファの大幻想曲のとき,伴奏のゴランは人気絶大でした。今思えばキョンファの大幻想曲は見事にオシャレな演奏でした。ヴェンゲーロフがキョンファの域に至るのにあと20年はかかるでしょう。キョンファの大幻想曲がオイストラフの同曲の域に至るにはさらに30年必要でしょう。
 ピアニストもそうです。イタマール・ゴランは確かに素晴しかった。しかし,私が先日聴きに行ったラトヴィアのピアニストは,ゴランの輝かしさにも増す厳しさを持っていました。ピアニストの世界はヴァイオリニストよりさらに競争が激しいと思います。オイストラフの伴奏をしたフリーダ・バウエルは華のないピアニストでしたが,大幻想曲での伴奏は彼女の白眉でした。リヒテルやグールドといったビッグ・ネームと肩を並べる伴奏だと思います。

 ヴェンゲーロフは昨晩はずいぶん気合いが入っていました。 Mozart ではうなり声も出ていました。うなり声を出すほど曲にのめり込むのは,私は嫌いではありませんが,そのたびに足で床をならすのは少し気になりました。もっと太い音がほしいというときに限って足を鳴らしていました。なんだかずるい感じがしました。バス・ドラムでも置いてやりたくなりました。
(実際,ジャズでは音が足りないと思えば迷わずそうするでしょう。ラカトシュ・アンサンブルもそのようにアンサンブルすることに抵抗を感じないでしょう)。

 気合いを入れるのはいいのですが,シューベルトの最後部の無窮動で弓がコマを乗り越えてしまいました。ピツィカートの鳴り損ないも一ケ所あって,それは音楽の進行をさまたげませんでしたが,コマを乗り越えちゃったのは上手の手から水が漏れたというのでしょうか。こういうことも音楽に厳しさを求めていかないと,起こり得ることです。

 ブラームスはさすがに安心して聞けました。ただし CD よりもダウン・ボウの激しさは増し,音楽を「深く掘り返し過ぎ」るような弓でした。指揮者でもよく「掘る」人はいますが,あちこち「掘る」つまり「あっちもこっちも聞かせたい」と思うあまり,曲全体のメリハリは希薄になっています。ブラームスのソナタ3番は,しかしヴェンゲーロフには適した曲だと思いました。ただしこのピアノ伴奏は一度音を大きくしてしまうとやはり「あっちもこっちも聞かせたい」状態でがんばってしまう人らしく,ヴェンゲーロフと息が合っていること自体が問題のような気がしました。

 CD のブラームスではクレーメルをも凌いでオイストラフに並ぶ出来でしたが,生の音にはやはり美音ばかりを追い求める甘さが出ていました。
 私は昨日の昼間,ヴィクトリア・ムローヴァとシゲティのストラヴィンスキーを聴いたのですが,この二人の音楽に対する姿勢の厳しさは音にも出るし,ステージでも張りつめた空気をつくりだすのに役立ったろうと思います。なによりも決してサロン音楽にはならないという,重要な要素が,音楽に厳しさを求める演奏家たちのトレードマークになったのが,まさにシゲティ以後からです。
 ハイフェッツ,あるいはティボーからヌヴーに至るようなヴァイオリン音楽の古いスタイルは,シゲティ以降一度断ち切られたはずなのに,ヴェンゲーロフは再び19世紀に逆戻りしたいように見えます。
 昨夜の曲目のなかで「ウィーン奇想曲」や「ロズマリン」は,クライスラーのなかでもどちらかというと古いタイプに分類される曲で,しかしヴェンゲーロフの本当の「お気に入り」はこのへんにあるのではないかと,勘ぐってしまいます。やはり音楽に厳しさを求めている人の好みとは微妙に違う,と思わせる選曲なんですね。
「中国の太鼓」はむせかえるような音の魅力を初めて知りました。うなり声とともに弓で掘り返すようなもはやヴェンゲーロフ独特の運弓が,曲にぴったり合った感じでした。昨夜の演目のなかではこれがいちばんでした。
 
 アンコールはラフマニノフのヴォカリースで,ピアニストはこのときやっと本領を発揮したようです。どちらかというと,オボーリンのような地味な感じが持ち味の人なんですね。しかしスタインウェイのデュナーミクはもう少しあるはずですが。

 アンコール2曲目バツィーニの「ロンド」,こういう小手先の曲をアンコール最後に持ってきてブラヴォーと言わせる選曲のセンスには,私はつきあいきれません。
 ヴァイオリン界にはウルトラCをこなす選手は毎年何人も誕生しますが,テクニックだけを問題にすればラカトシュのほうが優れて見えますし,そのラカトシュのテクニックでさえ(最近ラカトシュのお父さんらしき人の演奏を聴いたのですが),なんだかウルトラCをこなす人はいっぱいいるなぁという感じがします。

 冷静に見て,ヴェンゲーロフだけが突出しているという状況ではないと思います。むしろハイフェッツ,オイストラフの時代に比べ,ヴァイオリニスト全体のレベルは21世紀に向けて下がってきている,と言わざるを得ません。
 ジャズメンでさえ,人々をスイングさせくつろがせるために,しかし厳しいフレーズを突き付けてきます。私はそういう厳しさで,いつもリラックスしているつもりです。


2000/2


2/28 純正律セミナーの報告*

 二ヶ月も経ってしまいましたが、去年暮に開いた「純正律セミナー」の報告です。
純正律研究の第一人者である玉木先生の話を聞くために、数名の方々が集まってくだ
さいました。ありがとうございます。

 音律の違いを聴き分けることは、そう難しくはありません。誰でも出来る感じで
す。一緒に参加した我が家の小学生の子どもでも、ユーミンひとすじで育ったうちの
かみさんでも「わぁ〜、こんなに違うんだぁ」という感じでわかることが出来ます。

 シンセの和音(ドミソ)で、多少ミが低いのが純正律とのことです。この音は、玉
木先生のホームページでも聴けます。しかし、ダウンロードした音は短いせいもあり
やゝわかりにくく、コンピュータにかなり優秀なスピーカーを繋ぎたいところです。
ヘッドホーンなどでも、かえって音に集中し過ぎてわからなくなる場合があります。
音の大小は問いませんが、室内にしっかり響かせたほうがいいようです。一度わかっ
てしまうと短くてもいいのですが、玉木先生のホームページのサンプルは容量を軽く
するため短くなっています。

 また、ホームページのサンプルでも違いはわかるのですが、何度も繰返し聴くうち
に、どっちが純正律でどっちが平均律だか自信喪失することがあります。玉木先生の
ように毎日純正律の中に棲んでいれば一瞬の発音でもわかるようですが、そうでない
者にとってはなかなか確信を持てない部分もあります。

 さらに複雑なのは、ヴァイオリンは純正律の楽器ではない、ということです。クラ
シック音楽で使うヴァイオリンは、ピタゴラス音律で調弦するわけです。

 またまた話が複雑になりますが、玉木先生が非常にわかりやすい説明をしてくれま
した。

 それが北島三郎の話です。

「は〜るばる来たぜ、は〜こだてへ〜」の「は〜こだてへ〜」の部分は、北島のさぶ
チャンは(と玉木先生)「ピアノに合わせちゃダメなんだぜぇ〜」と吹聴しているそ
うです。つまり、北島のさぶチャンも「平均律ではダメなんだよ」と、感じているよ
うです。

「は〜こだてへ〜」の部分は「み〜みみみみ〜」だそうです。

 この「み〜みみみ」をちょっと低くしたいなというのが「純正律」で、高くしたい
なと感じる場合は「ピタゴラス音律」になるそうです。

 説明自体はとてもわかりやすく、いつも覚えておきたい説明法だと思いました。し
かし、それでは実際には平均律よりどれぐらい下げて「函館〜」の部分を歌えばいい
のでしょうか? 逆にどのぐらい上げればピタゴラス音律になるのでしょうか?

 平均律のシンセとピタゴラスのヴァイオリンをバックに歌う場合、どうすればいい
のでしょうか? いろんな疑問が次々出てきて、確かに純正律と平均律を聴き分ける
ことは簡単ですが、そこから先は極端に難しい問題になるようです。(大袈裟にいう
と、宇宙の神秘ほど難しい問題のような気がします。世界七不思議のひとつという感
じです)


 純正律セミナーを開いたのが12月30日でした。翌31日、私は10年ぶりぐらいで
「紅白」を見ました。

 まだ純正律の音の記憶が私のなかに残っていて、松田聖子と渡辺貞夫のデュエット
になんだかすごく違和感を感じてしまいました。二人の、サックスの音と声がちゃん
と合ってないように聞こえたのです。

 金管楽器は演奏中に音階をいじることができますよね。つまり音律を変えることが
出来ます。トランペットやチューバなどは、余っている指で管の長さを微妙に変える
ことが出来ます。わかりやすいのはトロンボーンですが、金管楽器はすべてあれと同
じことが程度の差はありますが、出来るわけです。

 木管楽器であるサキソフォーンは、演奏中に音階をいじることは難しいでしょう。
穴の開閉を半開きよりさらに少なくすることで、音階が変わるような気もしますが、
サックスのようにバクバク開閉するやつは調整が難しそうですね。フルートや、小学
生の使うリコーダーなどもやってみるとほとんど不可能でした。

 ナベサダは手加減なしのソロを展開していましたから、松田聖子の声の質のほうが
飲まれた感じに聞こえました。これはどうしてなのかなぁと未だに不思議です。普通
のジャズ・ヴォーカルではこんなことにはならないのに。

 一方「だんご3兄弟」で登場したCobaのアコーディオンに、違和感はありません
でした。ラカトシュと共演したCobaですが、アコーディオンをゆさゆさ揺さぶっ
て、無理矢理音階を変えようとしているように見えました。アコーディオンはオルガ
ンと同じ理屈で音が減衰しにくい楽器ですよね。もし、アコーディオンが完璧な平均
律で作られてるなら、人間の声にはもっともマッチしないはずです。しかし「だんご
3兄弟」はとても歌に合っているように聞こえました。

 サックスというのはピタゴラス音律になっているようですね。ジャズ・ヴォーカル
でも、実はサックスとヴォーカルという組合わせはあまり例がない。往年のジャズ名
盤ではコルトレーンとジョニー・ハートマンぐらいしかない。木管楽器とタイマン張
ったヴォーカルというのは、とにかく珍しい。逆にサッチモ、ディジー・ギレスピ
ー、クリフォード・ブラウン、チェット・ベイカー、J・J・ジョンソンといった金管
楽器の名手たちは、実に自らも歌ってしまうほどヴォーカルに合わせてくるのが得意
です。

 木管楽器のほうでは、例えばチャーリー・パーカーのソロで歌う気にはならない。
(ギレスピーは名曲 Salt Peanuts をパーカーのバックで歌ったけど、あれって歌と
いうより奇声だよね)

 木管のソロとヴォーカルが交叉するようなアルバムっていうのは本当に少なくて、
スタン・ゲッツのボサノヴァやグローヴァ−・ワシントンjrのフュージョン系、あと
はラップに限られるんですよね。つまりビッグ・バンドのようにユニゾンになったと
きだけ、人声と木管楽器は共存しているような気がします。

 で、クラシックの世界でもピタゴラス音律の楽器、例えばチェロとソプラノが共演
するというような例は、あるのでしょうか?

 バリトン歌手にヴァイオリンがオブリガートをつけるコンサートなんて、聞いたこ
とありますかね?

 ピタゴラス音律の楽器というのは、人声を模しているわけですよね。ヴァイオリン
は確かに人声に近い楽器といわれますが、正確にはソプラノ歌手に近いわけで、チェ
ロやコントラバスだって人声に近いわけです。馬のいななきといわれるエリック・ド
ルフィーのバス・クラリネットだって人声に近いと思います。

 でも、人声が純正律なら、ピタゴラス音律の楽器とは合わない理屈になるわけで
す。そういうふうに納得していいのかなぁ?

(N.M.さんからちょっと聞きかじったのですが、昔エルマンとカルーソー、クライス
ラーと誰か、メニューインとフィッシャー=ディスカウなど、ヴァイオリンと歌手の
共演はあったそうです)。

 純正律について、問題を複雑にしているのはもうひとつ、鍵盤楽器です。

 まず我が家のクラヴィノーヴァを調べました。やり方は以下の通り。クラヴィノー
ヴァのG(ゲ−)とヴァイオリンのGを合わせます。ヴァイオリンのほうはいちばん太
い開放弦です。ヴァイオリンでその開放Gとぴったり協和するH(ハ−)を隣の弦で探
ります。2本同時に鳴らして和音がぴったり鳴るHを探るわけです。そのHを、クラヴ
ィノーヴァのHと較べます(つまり10度上のHです)。クラヴィノーヴァが平均律な
ら、このHがびっくりするほど高いのだそうです。

 ところが、我が家のクラヴィノーヴァは、まったくヴァイオリンのHとぴったりでし
た。その後、うちのヴァイオリンの先生のところでも同じことをやってみまし
た。YAMAHAのグランドはほんのかすかに高いかなという程度でした。クラヴィノー
ヴァに較べて勘ですが10セント弱の差ではないかと思います。(この「10セント弱」
という数字の根拠ですが、私は体調のいいときでA=440と442を聞き分けることが出
来ます。クラヴィノーヴァは電源を入れたときいつも440に戻っています。子どもた
ちはいつも最初にそれを442にリセットし、ヴァイオリンのA線の音を採っていま
す。体調が悪いときの私は、440が443ぐらいになってもまだ同じピッチに聞こえる
ことがあります。つまり3Hz 程度の差がないと体調の悪いときは音程を聞き分けられ
ません。そんな経験から、ピアノのHの音は私の聞き分けられる限界に近いほどのわず
かな差でした。限界をまぁ2〜3Hzとしましょう。10セントは2.6Hzですから、まぁ
10セントぐらいかなと、思います。これは特に耳が良くも悪くもない、まぁただの音
楽リスナーとしては平凡な値だろうと思います。
 平均律では半音が100セントですが、純正律の半音は114セントぐらいになるらしい
ので、その差は14セントです)。

 10セント弱という私の「勘」が正しければ、うちの先生の所のグランドはHの音に
関してだけですが平均律に非常に近いが、気持ち平均律より低い方へ寄っている感じ
です。ましてピアノは音が減衰するのでなんの問題もないそうです。

 さらに私が最も平均律の弊害が出ると思われたクラヴィノーヴァは、H に関しては
純正律に近いこともわかりました。クラヴィノーヴァでオルガンやエレクトーンの、
つまり減衰しない音種を出しても、わりときれいな和音に感じられるのは、少なくと
もクラヴィノーヴァがガチガチの平均律ではなかったからだということもわかりまし
た。

 純正律セミナーでも、統計をとったら現実の多くのピアノは平均律ではなかったと
いう話も出ました。(まぁ、調律師の数だけいろんな調律法があったということは想
像に難くないです)

 また BACH の「平均律クラヴィーア曲集」は、日本人だけが「ウェル・テンパー
ド」という語を誤訳したわけではなく、西洋でも「ウェル・テンパード」は平均律の
ことであると誤解していた一時期があったそうです。このへんはセミナーのオブザー
バの黒木さんの話で、玉木先生の話ではありません。

 いずれにしても私は、クラヴィノーヴァには少し安心しました。

考えてみればスティーヴィー・ワンダーが使っているエレクトーン(シンセの)なん
か、和音が濁っていたりうなりがあったりしてはいないようです。

 それで正月明けの一時期の私は、ポピュラー音楽はすべて純正律ではないのかと考
えたりもしていました。あるいはその逆に、純正律とはポピュラー音楽のことではな
いのか、とも思い迷っていました。

 純正律の出るシンセを探しに近所の楽器店を、かみさんと長男に行ってもらいまし
た。二人は、ローランドの「ミュージ郎」を買えばいいんだよと報告してくれまし
た。純正律もミーントーンもベルクマイスターも、もっとたくさんの音律も全部入っ
ているそうです。また二人が行った店はロック系の店で、店員が「純正律なんて言っ
てくる奴はクラシックの奴だけだ」とのたまったそうです。

 それで、上記のように思い迷ったわけです。

 その後の私は、アイルランドの、ヴァイオリンの入ったロック・バンド「コアー
ズ」に行き着きました。そのいきさつは掲示板に書いたように、曲の基調になってい
るヴァイオリンの音が、純正律かどうかはわからなくとも何か古い音律に聞こえまし
た。ベリー・ダンスのバックで演奏されるイスラムの音楽のようにも聞こえました。
Mozart はトルコ風、トルコ・マーチ、あるいは『後宮からの誘拐』というようにイ
スラム文化への関心を示しましたが、それは音律への関心でもあったのだろうと思い
ます。

 玉木先生はトルコ・マーチ付きソナタを、純正律と平均律の両方で聞かせてくれま
した。ピアノ・ソナタの話は私にはわかりません。しかし、ヴァイオリン協奏曲#5の
「ア・ラ・トゥルカ」は、単に Mozart が生きていた当時に「トルコ風」というウェ
アが流行したというとらえ方だけで演奏されるべきではない、と私は確信します。純
正律かミーントーンかはわかりませんが、それら古典音律が持つ一種「剥き出しの魅
力」、セクシーであると同時にピュアであるような音律に Mozart の関心は向いてい
た、と私は思います。

 少なくともこの程度の、 Mozart が音律について払った最低限の関心ぐらいにはて
いねいに目を向けた、そんな協奏曲5番を聞いてみたいわけです。

 ちょうど「トルコ風」をやっていた長男にもそのことを叩き込みたかったのです
が、忙しさにまぎれ十分に伝えきれませんでした。

「何がトルコ風なのか」という問いを、私はことあるごとに子どもたちと考えていけ
たら幸いなんだけどなぁと思います。それは Mozart の時代の Mozart の音楽のなか
にふと現れてしまったはるか大昔の旋律なんだろうなぁという感じです。時を経て、
ハチャトリアンの協奏曲のなかにも再び現れたり、コダーイが集めた古いハンガリー
のダンスのなかにもあったり……。

 

 純正律の話をすると、ヴァイオリニストAは平均律的で、Bは純正律的だという比較
に陥りやすいように思えました。現に私自身そのような比較をしてもみました。冒頭
の北島三郎の「は〜こだて〜へ〜」を高めに採って気持ちがいい人はピタゴラス的、
低めに採るのを好む人を純正律的という話を単純に鵜呑みにするなら、レーピンは前
者、大進は後者になるように、私には感じられます。まったく逆に感じる人もいるよ
うですし、いや、二人とも平均律であると感じる人もいるようです。

 このへんは、私の耳の限界です。しかしかっちりピタゴラスにはまっているような
演奏家はいても、かっちり平均律で乗ってくる演奏家はむしろ少ないのではないでし
ょうか? 少しでも歌心のある演奏家なら、機械的な平均律から外れてくるように思
えるのですが。メニューインや樫本大進はその外れ方の振幅が大きいタイプであるよ
うに私には思えます。

 絶対音感を持つヴァイオリニストも、本当に平均律のなかに棲んでいるとはいい難
いのではないでしょうか。確か小野アンナの音階教本では、5〜6歳の時期にドの♯
とレの♭は別の音だと習いますよね。確かH(ハ−)の#をHis (ヒス)と習います。
さらにダブル♯をHisis(ヒシス)、ついでにC(ツェー)の#はCis (チス)、ダブ
ル#はCisis(チシス)とか習いました。しかし絶対音感の持ち主は、5歳ぐらいでこ
の問題を納得できないと思えます。

 現実にはドの♯はドより114セント(約29Hz)高く、レの♭は90セント
(約23.4Hz)しか高くないそうです。5.6Hzも差があります。A=440のクラヴィノー
ヴァを445まで上げた勘定になり、私の耳でも十分に識別できる数値です。

 しかし絶対音感を持つヴァイオリニストはドの#もレの♭も、ドよりきっかり100
セント高く弾いてしまうのでしょうか? 

 そうではなく、90セントのレの♭を聞かせると「う〜ん、ドの#だが中途半端」と
か答えます。または「ドか、ドの#」ともしばしば言います。絶対音感の持ち主は
「どかどのしゃあぷ」という鍵盤があれば、その音も覚えてしまいます。その鍵盤の
名前を仮に「ぷ」としましょう。今「ぷ」という新たに追加された鍵盤を叩くと絶対
音感の持ち主は「ぷ」と答えるはずです。5万人にひとりとかまことしやかに言われ
る絶対音感の能力というのは、鍵盤がいくつに増えてもその鍵盤の名前と音を直感的
に結びつけられる能力だと推測されます。

 で、純正律では1オクターブに69個だか鍵盤がいるそうです。平均律で絶対音感を
身につけてしまったヴァイオリニストは、自分が覚えていた鍵盤の数が圧倒的に足り
ないことに、大人になる頃に気がつくのでしょうか? それは結局、表現力の不足に
気がつくのと同じことです。鍵盤という自分の持ち駒の不足に気がつく、そんなヴァ
イオリニストがいるでしょうか? 私は、絶対音感の持ち主がむしろ自分を過小評価
し過ぎていると思います。絶対音感という言葉に惑わされ、自分のなかに実はまだま
だたくさんある鍵盤を叩いたことがない人。それが絶対音感神話の呪縛にとらわれた
まま大人になった人のような気がします。絶対音感は「まぁ、わざわざ捨てるまでも
ないか」とか「捨てるのは本当はもったいない」とか思われているのでしょうか。そ
れはつまり88鍵だけを残し、他に倍以上もある叩いたことのない鍵盤を全部捨てるこ
とになるんじゃないでしょうか。そっちのほうがもったいない気がします。

 多くの絶対音感の持ち主も、鍵盤と鍵盤の間に他の鍵盤が実は無数にあるというこ
とに気づいていると思うのですが…。

 さて、まだまだきりがないのでひとまずこのぐらいにします。いろいろ数字を並べ
ましたが間違いもあるかと思います。

 今回はヤマハの本『音楽の正体』(渡邊健一著)を参考にしました。


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