なんでも/バックナンバー('99年1月〜)
1/11●正月休み 1/24●コンチェルト・カンター 1/26●ブロンの弟子たちの… 1/29●開放弦ヴィブラート 2/16●機械は考えるか?  3/6●女流は好きになれない


1999

3/27 オイストラフも筆の…

 ブルッフの1番コンチェルト1楽章をオイストラフと同じように弾いたら先生に怒られてしまった件ですが、これはオイストラフの間違えであると私は結論しました。(先に結論を云っておくと、間違えるオイストラフのほうが私は好きです←ビョーキ)

 間違いの箇所が ad.libitem の中なので、間違いとは云えないと擁護することもできますが、その結果もっと重大な過ちにつながっていることも発見しました。

 同じ間違いを、オイストラフのアイドルであるクライスラーも犯しています。ズーカーマンをはじめとするガラミアン門下もその可能性があります。

 ここまで間違えた人の数が多いと、やはり間違いとはいえないと思いたくもなりますが、間違いと知ったほうが曲の理解を深めるのに役立ちます。

 説明は困難を極めますが、とにかくもう一度やってみます。

 オイストラフとズーカーマンは、8分音符を4分音符で弾いています。アドリブ内なので、弾き方は自由です。

 しかしこの弾き方で弾きはじめ、そのアドリビテムを弾き終えることで、1楽章全体のビートは「後打ち」(アフタービート)になってしまいます。

 オイストラフ側から見れば半拍不足になる楽譜通り8分音符で弾くやり方は、その後に続く1楽章全体をオン・ビート(前拍)でとらえていくことになり、アーティキュレーション(文節区切り)の違いが生じます。

 オイストラフのアーティキュレーションは、
(うん)あんこ〜、つばきいわぁ〜
 ですが、これをオン・ビートにすると、
 うあんこつ、ばあきいわっ!
 という具合に、小股の切れ上がったアーティキュレーションになり、もしこの途中で弓を返すとすれば、スラーのかけ方が違って、運弓法の違いも生じるはずです。

 ヴァイオリンという楽器では、運弓法はアーティキュレーションと同義語ですから、歌い回しの違いが生まれるわけです。

 ピアソラのバンドネオンやアコーディオンといった楽器も、ヴァイオリンの弓と同様、じゃばらの開閉方向の違いでメロディーの「文節区切り」つまりアーティキュレーションが違ってきます。普通の鍵盤楽器より音楽を「歌わせる」ことに適しているわけです。

 ピアノをはじめとする普通の鍵盤楽器では、このようにメロディーをエスプレシーヴォさせることは不可能なのです。(そこで鍵盤楽器では Mozart のテムポ・ルバートなど、さまざまなアゴーギクが考案された)

 今次男がやっているアッコライのコンチェルトという曲では、実際に
「あんこ」にスラー、「つばきは」にスラーがかかる場所と、
「あんこつ」にスラー、「ばきわ」にスラーがかかる場所が交互に出てきます。「あんこつ」は小節線をまたぐスラーになります。

 小節線をまたぐスラーというのは、ヴァイオリン曲ではとてもたくさん登場します。
 10代のメニューインがエネスコの前で弾いたとき、通常は3つと2つに分けるフレーズを4つと1つに分けたという有名なエピソードも、小節線をまたぐスラーの最初の発見のひとつでした。
 運弓法(ボウイング)が改良されるなかで、小節線をまたぐスラーという奏法は、同時多発的に発見されていったと思われます。
 メニューインはボウイングを一生涯迷い続け、模索し続けました。
 オイストラフはボウイングを生涯変えませんでした。それがブルッフの曲で錯誤を助長するアーティキュレーションに向かわせた遠因でしょう。

 私は N.M.さんの家を訪ね、ミルシュテインのブルッフ1番を聞かされ、ずっこけてしまいました。簡略的に説明すればミルシュテインは、
「あんこつ」「ばきわぁ」と1楽章全体を歌い回していました。
 N.M.さんのコレクションのいろいろな人のブルッフを聴き比べましたが、ミルシュテインほど完璧に楽譜通りの8分音符を守った弾き方の人はいませんでした。
 その結果ミルシュテインは1楽章すべてにわたって、恐ろしく前のめりの、そしてフレーズの語尾を切りつめたアーティキュレーションで、すばらしくお洒落に歌い回していました。
 どのようにお洒落かというと、それはつまり「前のめりに急停車したキャデラックのオープンカー」のようなスタイルです。
「ハイヒールを履いたブルッフ」といってもいいでしょう。

 スタリャルスキーに師事した点でミルシュテインの弟分に当たるオイストラフは、しかしまったく違っています。オイストラフが「キャデラックのように」弾くはずがありません。オイストラフは「ウラジオストック港を出た潜水艦のように」腰を沈めたスタイルなのです。
「北極海、氷面下のブルッフ」といった感じです。

 なにがなんでも、アイザック・スターンのブルッフを聞かなければとN.M.さんの家からの帰途に思いつき、高田馬場のタイムへ行きました。LPは500円で入手できました。
 アイザック・スターンはうちの先生のアイドルだからです。聞く前の私の予想は、もっともオーソドックスなブルッフを弾いているに違いないというものでした。もしかしたらオイストラフと同じ間違い、つまり4分音符で弾いているかもとも思いました。
 予想に反し、スターンのブルッフはミルシュテインとほぼ同じ、完璧な8分音符でした。私がオーソドックスと思っていたスタイルとはぜんぜん違う、思い切り前のめりにロケット・スタートをきり、パラシュートでブレーキをかけるスタイルでした。これがオーソドックスなら、オイストラフはオーソドックスでないことになります。

 20年ほど前にもスターンの演奏を聞いたことがあるのを思い出しました。こんなふうに楽譜を読み崩すやり方がオーソドックスなんだな、と思った記憶もよみがえりました。

 以後25年、オイストラフしか聞かなくなった私はスターンのオーソドックスなスタイルを忘れていましたが、スターンのほうに理があると思いました。
 ただ、子どもにここまで前倒しに崩すようなスタイルを真似させることが果たしていいかどうかは疑問です。
 オーソドックスとはいえないオイストラフのアフター・ビートですが、楽譜から大きくズレないという意味で私はこちらが好きです。

戻る


3/6 女流は好きになれない

 今朝も朝からフジコのショパンとリストを聞かされ、あの気持ちよさは、しかし“にせもの”だと気づかされたのでした。彼女は「一つひとつの音に感情をこめて」いると自分でも云っているように、夢見るような情感をそれぞれの音に注ぎこんでいるように聞こえ、それが耳に心地好く響くのですが、ときどき3連音を無神経に叩いたり、老いて繊細にならず、単にずうずうしくなっただけという部分も見えかくれしました。
 女流の音楽家にときどきいる“巨匠のふり”をするのがとてもうまいタイプのひとりです。

“巨匠のふり”の名手は、ジョコンダ・デ=ヴィートだと私は思います。フルトヴェングラーとのメンコンをLPで、ブラームスのソナタをCDで数年前から時々聞いてきた感想ですが、メンコンではテクニックの破綻をものともせず堂々と、つまりラルガメンテさせて弾き終えてしまう“巨匠スタイル”が、フルトヴェングラーの好みにもぴったりという皮肉な結果に終わっています。
 剣道の試合で、浅い面はなかなか一本に取られないのをいいことに打たれても打たれても平然と前へ出るタイプがいます。デ=ヴィートのメンコンはそういう演奏です。良くいえば“巨匠スタイル”ですが、単にずうずうしいだけと感じる人も多いのではないでしょうか?

 ブラームス・ソナタは、そういう“巨匠のふり”をさらに押し進めた決定版で、私はデ=ヴィートが描くブラームスの夕日の色を、デ=ヴィート自身が本心からあの夕焼けの色を懐かしんでいるようにはとても思えません。彼女は、沈む夕陽の慕情は「このように表現するものだ」という公式にのっとって堂々と演奏して見せているに過ぎません。

 ラルガ面手(小手を取られようが面を打ち込まれようがへっちゃらだ〜い的・悪いおちつきぶり)は、確かにブラームスに必須の音楽的気分ですが、演奏家個人が夕焼けを見て深い悔恨の情に沈むということがデ=ヴィートの演奏にはない。暮れなずむ夕陽の表現はこうやればいいのよ、という公式ばかりが耳につく。

 彼女はブラームスを弾いたあと、死んでしまいたいほど欝に陥ることはなく、元気に楽器ケースをかついで堂々と花道を引き上げる、そういう女丈夫なのです。

 つきつめると、これは“音楽と性”という問題に至ります。音楽と性差別、あるいは女流蔑視の問題、といったほうが正確でしょうか。
 こういう問題を扱ったあるアメリカ女性の大著『音楽と性』では、メロディーに女性的なフレーズがあるのは「性差別である」とまで主張します。
 私も、将来は考えが変わるかもしれませんが、音楽上の性差別を感じつつ、現時点では自分が差別論者であることを隠しません。

 ちょっと前までは「女に音楽はわからない」と本気で思っていました。20年以上も前、離婚したときその思いはピークでした。さすがに最近の考えは翻りつつありますが、それでも「女流は信用できない」という意識はまだ根強いです。

 そういう先入観でデ=ヴィートの演奏を聞いたことも事実です。
 大著『音楽と性』を引っぱり出すまでもなく、女性は自分の音楽観を社会的な場所に打ちたてたり、くさびを打ち込む〜つまりマイル・ストーンを築き上げたり〜するのに不利な状況にあることはわかります。一方、社会的ではない場所、つまり個人的な場所で影響力を持つことは得意です。子どもに、音楽的な遺志を伝える役割にも非常に適しているでしょう。
 冒頭のフジコも「子どものとき寝床のなかで聞く母親のショパンが気持ちよく、なかなか起きる気になれなかった」と話していました。
 このような耳に心地よい音楽的な環境を、多くの評論家は「少女趣味的感傷」つまりミーハーであるとみなし、俎上に乗りにくいものとして避けてきたわけです。

 私がデ=ヴィートを男性側の視点だけでけなしたことについて、彼女を擁護する人は、デ=ヴィートが母親の立場でこの上ない“慰め”の芸術を提供していると主張すべきでしょう。

 フジコはリストの超絶技巧曲についてこう主張します。
「私のカンパネルラは、ぶっこわれそうな演奏です。機械のように正確な演奏より、私はぶっこわれそうな繊細な演奏家のほうが好きです」

 私はフジコのカンパネルラのどこが繊細かと反論したいですがそれはひとまず置き、彼女の主張が正しいと認められる日はいつか来ないといけないだろうと感じます。

 私は国家が核配備することの是非はともかく、核兵器に匹敵する演奏内容があるとすれば、そしてその演奏が表現する無限というものがあるのならば、そういう力に惹かれます。

 そうではない、機械のような演奏ではなく「愛の無限」以外にこの地球を救うものは本当にないのだよと主張する人たちの主張がいつかは勝たなければならないことに、私もうすうすは感づいています。
「愛」だって? ちゃんちゃらおかしいやい、このすっとこどっこいのあっちょんぶりけ! と云われないような、まぁビートルズがやったようなやりかたとか、やりようはいろいろあるのでしょうね。
 ヴァイオリンでそれができる女流は、そう多くはない。少なくとも“巨匠のふり”が得意なだけの演奏家には。

 多くの女流ヴァイオリニストは「音楽(芸術)的セクハラ」ともいえる風潮のなかで、自分の場を、占める位置を探しているという状態でしょう。
“巨匠のふり”つまりヴィルトゥオジックということは“おとこ価値”社会が築き上げた公式に乗るということで、コンクールで優勝するためには必要なことです。
 コンクールなんかくそくらえ! とデ=ヴィートは主張するでしょうか?
 していないのです。
 でも、すべきなのです。女なら、母親なら、練習しても練習しても(毎日11時間レッスンしても)ふるい落とされるような生き地獄のような環境にわが子を追いやるだけの“おとこ価値”だけがのさばっている音楽を“する”のはまちがいです。盲従してはだめです。

 女流ヴァイオリニストが生きにくい世の中で、現在もっとも器用にダブル・スタンダードを生きているのはチョン・キョンファだと思います。彼女には二つの異なるタイプのファンがいるのが、その証でしょう。ブラームス・ソナタは一瞬店頭で聞いた限りですが、やはり一瞬店頭で聞いただけのデュ=メイの描く夕景よりもリアリティがありました。
 母親であることが芸術家であることと矛盾しないような“おとこ価値”の社会に片足を置き、もう一方の足は、自分の息子に音楽を伝えるというキョンファしか入れない個人的世界のなかで繭をつむぐという足場に置かれている。うらやましい限りです。
 それに対し世評に高いデュ=メイのブラームス・ソナタは「かなり風変わり」という域からどの程度突出できたか、もっと詳しく聞かなければわからないのかも。キョンファが武器であり慰みであるような音楽を可能にしたのに対し、デュ=メイの生む音楽が“慰み”に堕していなければいいと思うのですが。

 コンクールのときはだれでも“おとこ価値”の社会に片足突っ込まざるを得ないようで、諏訪内晶子がもっともわかりやすい例です。彼女の演奏がもっとも“おとこ”ウケしたのはチャイコ・コンクールのときでした。しかし私自身は、今現在の諏訪内のほうに可能性を感じるように変わりつつあります。

 大著『音楽と性』のオビによるとBACHの時代からマドンナまで性差別の根は深いのだそうですが、“男の武器”対“女の慰み”という図式を超えて、どの段階まで音楽に厳しさを付与するかという観点から私は考えたいと思います。
 それは結局シゲティの厳格さと、クライスラーの甘美さのバランスをとるということにもなるのかもしれません。

 女流で私が唯一頼れるのは、モニカ・ハゲットだけです。彼女の音楽に全面的にもたれかかっても私には失うものが何もない気がします。似て非なると私が考える寺神戸亮の音楽にもたれかかれないのは、彼がいつヴィルトゥオーソを目指す野心に目覚めやしないかという心配を感じさせるからです。ハゲットにそんな野心がないのは、彼女が半月弓のまん中へんを不器用に扱う姿を見れば一目瞭然です。
 ヴィルトゥオーソとは結局“地球資源を効率よく食い尽くす技術”そのものです。コンクールはオリンピックであり、パラリンピックの精神はありません。盲目のヴァイオリニストでも「出て勝たなければならない」のは、オリンピックのほうです。それではヴァイオリン音楽は歪むか、少女趣味的感傷の世界に収まるだけでしょう。
 今ではヴァイオリンという楽器さえ貴重な資源なのですから、演奏家は地球にやさしい音楽をどう生み出すか腐心すべきです。(Aを半音下げれば楽器にかかる張力が減り、寿命を延ばす。逆に高くすれば、軍拡競争と同じで楽器の自滅につながる/『サラサーテ』の kitami さんの説)
 キョンファだって、子どもを地獄の特訓の方向、つまりヴィルトゥオーソに追い立てることに熱中すれば自分自身のバランスを崩しかねないわけです。
 現にそれをやってる私自身がいうのだから、説得力あるでしょ?

 天才育成マシン、ブロンから生まれた天才たちの憂鬱が私にはますますはっきり見えてきました。そういう意味で、ヴェンゲーロフのブラームスのソナタの端正でていねいな演奏は(少し覇気がないけど)地球にやさしい方向へ進んでいるのかなと、なんだか懐かしく思えます。

戻る  ひとつ前に戻る(オイストラフも筆の誤り)


2/16 機械は考えるか?(かなりくだらないたわごと/他の掲示板投稿用に書いたが長すぎて機械に拒否されたがせっかく書いたので)

 以前、別の掲示板で uchi さんが書たことですが、ハイフェッツが BACH のドッペルを二重録音で出したそうですね。

 ハルトナックは、すべての弦楽器をこなせたハイフェッツなのでその気になれば弦楽四重奏を一人で録音することができたはずだと書いています。

 結局ハイフェッツのドッペルのレコードは“回収”という前代未聞の事態になったそうです。

 http://www3.rm.mce.uec.ac.jp/theme/mubot/mubot.html

バイオリンを弾くロボットのホームページです。数分待っていると演奏も聞けます。お世辞にもうまいとはいえませんが。

「機械は考えるか」というテレビ番組を見て、いろいろ教わりました。コンピュータは結局、人間をだまそうとする方向に進むそうです。

 コンピュータじゃなくとも、私はすでに CD というやつにだまされています。電話だって、人間の喉という器官のふりをしている機械だともいえます。

 それから「コンピュータにも心がある」と考える人がいても、それをとやかく云うことはない、とも教わりました。自分の愛犬に心があると思っている人に「あなたは犬おたくだ」などと決めつける人がいないのと同じレベルの話だそうです。
 そう考えると、ロボット・バイオリンのへたくそな演奏にも、これを作ったご本人はその音楽に涙したでしょうし、ホームページからダウンロードした音声にもどことなく愛敬を感じました。
 そうなんですね。20世紀の終わり、ロボットはとうとう初めてヴァイオリンを弾いたのです。きちんと弓を持ち、顔はないけどちゃんと顎に挟んで、そして左手の6本の指で。
(前にも書きましたが、4の指の例外を6本指で補います)

 最初の電気で動く音楽ロボットは、まぁ厳密なことをいわなければ、リズム・ボックスというやつでした。カラオケが初めて世間に広まったころ出回ったと記憶します。へたなドラマーを「リズム・ボックス以下」とけなしました。リズム・ボックスは「死んだリズム」と同義語でした。
 今では人間が「機械のふりをする」のがおしゃれとみなされるほど、機械が生み出すリズムは生きたリズムに近づいてきました。
 機械にだまされるようになってきたわけです。

 完璧な演奏ロボットがいつかできれば、ハイフェッツの演奏を再現できるでしょう。そんな日は、来るのでしょうか?
 もうひとつ考えなければいけないのは、それではピアノ・ロールというのは、あれは完璧な演奏の再現なのでしょうか?

 そんな日は来ない、というのが、「機械は考えるか」という番組のなかである数学者が主張していました。ヴィトケンシュタインも同意見のようでした。(それがど〜した? ヴィトケンなんて名前が重いだけじゃぁっ!)

 私も、ハイフェッツのレコード回収事件のことを考えると、そんな日は来ないと思えます。

 もう一人の自分ほど、完璧な演奏ロボットはいないはずです。完全に同じテンポ感、リズム感、歌い回し、弓使い…。
 そのもう一人の自分が、斉奏ではなく二重協奏曲を弾いたときの、ハイフェッツはどんなパートナーよりも遠い自己におそらくギョッとしたでしょうね。(遠くの親戚より近くの他人という質屋の看板もある!)

 ジュリアードのジャズ・クラスでは管楽器のアンサンブルをわからないほど微妙にずらすよう教わる、という話も「それがジャズ・スピリッツだから」と解釈されます。しかし、それは同時に…、というか逆に「金管アンサンブルの完璧なロボット化」になっていないでしょうか?

 昔のジャズの名(迷)楽団には、アル中や麻薬中毒者がぞろぞろいてアンサンブルも乱れていた。それさえも再現する「完璧」さというわけです。なんとコンピュータみたいなことをするのでしょうか?

 チェスの世界チャンピオンが IBM ディープ・ブルーに破れました。これもテレビ番組解説の受け売りですが、ディープ・ブルーは何億も先の手を一瞬に、しらみつぶしに検証するそうです。まことに、ジュリアードのジャズ・アンサンブルに好く似た発想です。破れた世界チャンピオンは「異星人と戦っているようだ」つまり最後まで「人間」と戦っている気はしなかったということでしょう。
 世界チャンピオンは敵を愛することも、コンピュータに愛着を感じることも、対局中にはついになかったようです。

 これって、どこかハイフェッツと、その彼のもう一人の自己との関係にも似ていませんかね? ハイフェッツは自分と完全に同じもう一人の自分が「人間ではない!」と気づいたのではないでしょうか。

 音楽は、一人で演奏しても成り立たないのでしょうか? どんなに下手なパートナーでも、あるいは耳を持たない動物相手でも、自分が聞かせたいと思う他人が必要なのでしょうか?

 その音楽を聞かせたい相手つまり他人が自分自身だったという、ハイフェッツの失敗は、結局自分自身から一歩も外へ踏み出せなかったことへの罰なのでしょうか?
 あるいは自己ほど遠いものはほかになく、ハイフェッツの演奏をもってしてもその遠い自己に音楽の言葉は届かなかったのでしょうか?

 当時ソビエト政府は、音楽家の海外演奏旅行を年間90日に制限していたそうです。たぶんオイストラフはその90日を使い切ってしまったのでしょう。アルゼンチンを「チェスの世界大会への出場」という名目で訪れています。オイストラフもやはりチェスに近づき、また別の方法で音楽の本質に迫る道筋を探したのかもしれません。

戻る  ひとつ前に戻る(女流は好きになれない)


1/29 開放弦のヴィブラート

 ブルッフ協の出だしの音、オープン G (ゲー)にヴィブラートをかける方法は前に書き込んだ通りオクターブ上の弾かない D 線の G にヴィブラートをかけるというものでした。初めてこの方法を習ったときはとても感心したのですが、長男に練習させているうちに「?」という感じになってきました。彼自身も、指さえ動かしていればいいつもりになっているようです。
音だけ聞いていると、実はヴィブラートなんてかかってないということに早く気づくべきでした。目で見ていると騙されます。
 最初の G の音がヴィブラートに聞こえるようにするには、相当おおげさにかけないとヴィブラートの音になりません。このことには、実にいろんな問題が含まれることになります。

 まず、オープン G にヴィブラートがかかるのは、結局、弾いていないはずの D 線にかけた指のヴァイブレーションが楽器に伝わって、楽器の“揺れ”がオープン G のヴィブラートになるらしいということです。
 もっと強くかけると弓まで揺れだし、一種の“弓からのヴィブラート”にもなるようです。

 オイストラフはノン・ヴィブラートのようです。もともとオイストラフのヴィブラートは控え目でよく分からないのですが、普段はノン・ヴィブラートを好む傾向があるので、そう推測されます。
 CD を聞いてはっきりしないのは、もともとオイストラフがヴィブラートをはっきりさせない癖がある上に、録音がモノラルなのに「位相がめちゃくちゃ」な音源のせいでもあります。
“位相”というのはなんだかよく分からないのですが、先日カラオケを作ってもらおうとコンピュータに取り込んでもらったときに「これは位相がめちゃくちゃだ」と言われたので覚えているわけです。
 何か円グラフ(オシロスコープ?)のようなものの中心に音のかたまりのようなものがぐちゃぐちゃと並んで見え「きちんとしたモノラル音源ならこれが一直線にならなければならない」ということでした。
 縦の中心線の右側がステレオの右側に相当し、左側がステレオの左側の音に表示されるらしく、モノラルなら中心に一直線に並ぶということのようです。
 なるほどそれがぐちゃぐちゃの線になっているのは、考えてみると、耳で聞いたときも感じられたことでした。
 左右のスピーカーの中心に発音位置が固定(定位)してればいいのですが、ときどきちょっと右に振れたり左に片寄ったり、落ち着かない感じです。
 想像ですが、これは一時流行した“疑似ステレオ”用に加工された音源でしょう。東芝はこれを“STEREO”とみなし、発売したようです。

 そんなわけで、オイストラフがどう弾いているのか確信を持てません。オープン G の後半が多少揺れているので、これが位相の乱れによる揺れなのか、弾いていない弦を弾くことで生じる開放弦のかすかなヴィブラートなのか、微妙です。
「た〜〜ありららった、ら〜ああ〜」という出だしの最初の「た〜〜」が開放弦ですが、この長い音符の最後のほうが少し揺れて聞こえます。この正体が何か、今ではもう判らないのかもしれません。
 一方メロディー後半の「ら〜ああ〜」の「ら〜」にはハッキリとヴィブラートがかかっています。これに比べ、トップ・ノートはノン・ヴィブラートのような気がします。あるいは、開放弦のヴィブラートはこのぐらい微妙でよいということでしょうか? それともステージで“はったり”をかますため、かかりもしないヴィブラートをかけようとしたでしょうか?(オイストラフ盤はスタジオ録音)

 いろんなことが教訓になります。ステージでは“はったり”でヴィブラートをかける奴がいるかもしれないということ。その“はったり”を指摘されても「いや、あのぐらいかすかでいいのです」と演奏家はごまかせること。
 ステージというのは、そういう意味で姿・形を見ていると騙されるかもしれないということ。ヴァイオリン演奏というのは他の楽器に比べても特に、演奏中の顔つきが音楽の表情と取り違えられることが多いということ。

 もっとも芸術的な顔つきの持ち主はハイフェッツだったという指摘。その逆の意味ではクレーメルも姿・形のグロテスクさが、おぞましい曲などにはマッチするということもあるようです。
 コミカルなフレーズを弾くときにとぼけたマイムを見せる人もいますが、 CD になったとき音がコミカルな表情を持ち得ているかどうか疑ってみる必要があるでしょう。ギル・シャハムの頼り甲斐ある表情に私はとても心強さを感じますし好きなのですが、音の頼り甲斐があるかどうかという問題はまた別のことでしょう。
 ヴァイオリニストに比べると、ロック・ギタリストのほうがずっと慎ましやかなステージ・マナーを見せる場合があるほどです。「いつも目立たないこと」を心掛けたというクラプトンの例。とはいえ、ジミヘンのように歯でギターを弾いて Foxy Lady を表現した例もありますが。(左利きなのに右利き用のストラトの弦を逆張りして使っていたので、歯が弦に届きやすかったと私は見ています。右利きの他のギタリストには真似しにくかった芸当です)

 ヴァイオリンではこれらの姿形の要素はマイナスでしかありませんが、オペラ歌手では演技の勉強も必須と聞きます。歌手は自分の身体を“楽器”と認識していると同時に、プリマともなれば、歌舞伎役者並の伝統芸能俳優とでもいうべき“誇り”を持っているのかも。ときどき、物凄い演技派と思われる歌手がいたりします。

 というわけでブルッフ協のトップ・ノート、これだけを集めたビデオ・クリップなんてあったら面白いでしょうね。我が家には子どもの発表会のビデオなどで、先輩たちの演奏がきちんとヴィブラートがかかっているか確認できそうです。
 プロが弾いたブルッフ協となると、ビデオでは諏訪内晶子があったかどうか…という程度ですが。

戻る   ひとつ上に戻る(機械は…)


1/26 ブロンの弟子たちの憂鬱

>Nishioさん

 コンチェルト・カンタービレの中でヴェンゲーロフが表現している憂鬱について考えました。
 いつも Nishio さんが「技術的な話はいいから、その曲を聞いてどう思ったのか聞かせてほしい」とおっしゃるので、私も耳の痛い思いでした。

 あの曲を聞いて何か前向きに感じるものは何もありません。私は「ただ美しいだけの音」には酔わないのです。感じるのは、退屈あるいは憂鬱といった気分です。
 たとえば相撲でだれかが優勝したからといって、そのときの高揚した気分と同じようなたかぶりを感じましたと書けば日本人同士ならある程度その気分を分かりあえるでしょうが、まさかあの曲からそんなことは感じませんでした。ヴェンゲーロフはその場にうずくまっているように見えました。シチェドリンが気分を高揚させているのとは対照的に、初演者はある種の憂鬱さを感じさせました。

 そんなことを感じさせていることを、当の演奏家は気づいていないと思います。piano さんの70歳のお母さんが、ふと後ろ髪を引かれたというその気分こそが、この曲の本質ではないでしょうか?

 私の周りは今、不景気だなぁと思います。あるいは、不景気を感じた人だけがこの曲から憂鬱を感じ取ったかもしれません。景気のいい国の人たちはこの演奏から黄金のような響きを感じたかもしれないですね。(まぁ、ヴェンゲーロフが住むオランダは現在不景気だそうですが)

 価値観というのは、ある日突然ひっくり返ると思いませんか? 「美しい音」どこまでも美しい音。醜さも含めそれさえも美しく聞かせてしまうほどの美しい音。
「美しいよ。でもそれがどうしたの?」とさえも言わせないほどの神々しさを持つ音。ヴェンゲーロフの音はそれほど美しかったと思います。ヴェンゲーロフはそういう領域に到達したともいえるでしょう。しかし私は、そういう領域に追い込まれた者の憂鬱を感じ取ります。

 ヴェンゲーロフはオイストラフの「ひ孫」弟子(?)とは少し違います。
 オイストラフは25歳のとき、12歳のボリス・ゴリドシュテインとともにコンクールに出場しました。27歳のとき優勝しましたが、そのとき14歳になったゴリドシュテインもその下につけていました。オイストラフから「将来自分を必ずしのぐ」と予言された少年のその後はわかりません。わかっているのは、ゴリドシュテインがやがて自分よりさらに24歳年下のザハール・ブロン少年の才能を見抜き、グネシン音楽学校に推薦したということです。
 グネシンは「天才の工場」といわれました。グネシンから、まるでミグ戦闘機のように天才が量産できる、あるいは「できた」と、当時のソビエト政府は本気で考えたでしょう。
 天才ヴァイオリニストの量産…、おそらくそれは当時のソビエト政府にとって軍事技術の開発と同義だったと思います。(アメリカもやっていました。アメリカ政府がやったのは、原潜を早期警戒する天才イルカの量産です。それとも私は『ゴルゴ13』の読み過ぎ?)
 悲しいことですが、ダヴィット・オイストラフの存在は軍事的には最大級の核兵器に匹敵しました。ソビエトでは政治的に利用されなかった音楽家など一人もいなかったのですから。

 ヴェンゲーロフは本能的に自分の音楽的ルーツを感じ取っているはずです。
 でも、ザハール・ブロンは天才養成マシンに過ぎなかったこと。あるいは東欧や中国のオリンピック体操選手も、結局はソビエト政府の施策のもとにあやつられていたに過ぎなかったこと。そんなことをヴェンゲーロフやレーピンが感じているでしょうか? 感じてないでしょう。
 でも演奏を聞く者は嗅ぎ取ることができます。ヴェンゲーロフが美音の領域に追い込まれた大きな憂鬱を。それはかつて結局は軍事利用されることになった強力な音色、音域、デュナーミク、とは反対の方向にあると、それだけはヴェンゲーロフ自身もわかっていると私は推測するのですが。

 音楽、あるいは音楽家はいつも戦争に利用されました。しつこくいいますが、オペラ『後宮からの誘拐』の主人公は戦争です。ステージを見て気分を高揚させるのは悪いことではありませんが、それは国技を見て君が代を歌うのと同じではないはずです。

 優れた演奏家はミラーボールのように多くを写す多面体です。ヴェンゲーロフも自分で気づかぬまま、私のような不景気な人間の心を写しているかもしれません。

 ならばなおさら、私はやはり piano さんの年老いたお母さんがふと足を止めたという事実が、すごく気になります。単なる取越苦労でしょうか。

 これが「コンチェルト・カンタービレ」を聞いて私が感じたことのすべてです。シチェドリンの故郷のすがすがしい風を感じた人もいたでしょう。人それぞれです。
 でわでわ。

戻る   ひとつ上に戻る(開放弦ヴィブ)


1/24 ヴェンゲーロフ/コンチェルト・カンタービレ 

 新聞の書評欄で見たのですが、最近はわかりにくい哲学がはやりだそうです。

 ヴェンゲーロフの持つ美学も、私にはわかりにくいもののように思えます。私にもわからない音楽というのが当然あり、音楽はすべて初めて聞いたとたんにその価値を感じ取れるなんてことはないわけです。
 シチェドリンの曲そのものは、現代曲とはいえ今ではもうわかりにくい部類に入らないでしょう。わかりにくいのは、ヴェンゲーロフの演奏が示す美点についてです。似たようなものに、フランクのソナタを弾くティボーの例があります。

 スタイルとしてヴェンゲーロフはフランス=ベルギー楽派に向かっているという、“わかりやすい”解説はできます。“わかりにくい”のは私の場合そのフランス=ベルギー楽派そのものです。私は“退屈な美学”という言葉でフランス=ベルギー楽派を自分なりに咀嚼してしまっています。それがいいことなのかどうかが、また、わからないのです。

 同曲の定番=名演とされたティボーの弾くフランクのソナタはとても退屈で、私はその“退屈”を感動の道具にする以外、未だその鑑賞法を知りません。

 前にも投稿したように、大島弓子漫画の主人公が聞くフランクのソナタはティボーのこの退屈な演奏以外にぴったりくるものは想像しがたいのです。
 大島漫画の主人公がいつも“退屈”しているように私には思えるし、その退屈をオモチャにして遊んでいるのが大島漫画の面白さのように感じています。
 さしあたって、小さな子猫ほど退屈をオモチャにするのがうまい生き物はないでしょう。ヒロイン“チビネコ”をわざわざ出すまでもなく。

 深窓の令嬢とか、そんな言葉を思い浮かべるのもティボーのこの演奏です。こんな退屈な演奏のどこが面白いのだろう? と私などは思います。退屈な演奏をボ〜ッと聞いているのが似合う令嬢が本当にいたような、そんなティボー=コルトーの時代だったのだろうなぁと、想像するばかりです。
 もちろんフランクのソナタを聞いていれば、そんなボ〜ッとした令嬢の胸の内も実は穏やかではないということぐらいはわかります。それは曲が優れているからで、また共演ピアニストのコルトーが、時折とんでもなく“はずれる”ので、ふと眠気から醒め、この放心状態の窓辺の令嬢の置かれた状況がただならぬものであると、知るからです。

 私は中野の「くらしっく」でいやというほどこの退屈を味わったような気がします。まわりの他の客も、この曲のときはみんな退屈そうでした。ブロードウェイの中にも小さなクラシック喫茶があり、そこのタンノイのスピーカーが恐ろしく退屈な音を出していたのも覚えています。
 当時の私はそういう“退屈”が好きだったかもしれません。でもその後にメニューインの Mozart の#7(#6?)がかかったりするとすごく元気が出ました。
 20年ほど前の私は、多感そうでもあり同時に意外と単純だったと思います。

ヴェンゲーロフの演奏には、今日のシチェドリンに限らず、いつもこの退屈な美学を感じます。それは私にはわからない美学であり、最初に書いたように「わからないから優れている」のかどうか、それさえわかりません。
 特に今日の演奏ではピアニストのコルトーのように“ときおりとんでもなくはずす”奴もなく、まず、すべてが完璧に進行していくので「自分にはわからない」ということが不安になります。
 こういう不安です。
 もしかしたら私には理解できない高いレベルで、ヴェンゲーロフは退屈してるのではないか? あるいは何か憂鬱の種を抱え込んでいるのか?
 それとも取るに足らないただの退屈な演奏なのか?
 どちらかがわからない不安です。

 コルトーのように時折“熱情”してしまう音楽家は、微笑ましい限りです。
 ヴェンゲーロフにはそれが足りないのが、私は不満です。重音でも決して激情することのないきれいな和音は、私には音色の幅のわずかな不足に感じられます。
 確かに“伸びのあるつややかな高音”はよく聞き取れました。ちょっと他では類を見ないきれいな音でした。そのきれいな音を出し続けるヴェンゲーロフ自身の美学は、どこにあるのでしょうか?
「きれいな音だなぁ。だからずっとこの音を鳴らしていたい」というのがヴェンゲーロフの音楽センスなのでしょうか? まさかそんな単純ではないですよね。

 フランス=ベルギー楽派なので、デュナーミクの振幅は「はい、そこまで」とカットされてしまうのでしょうか? もっとレベル・メーターの針が振り切れるような、しかし振り切れる寸前で留まれるような、そんな挑戦をヴェンゲーロフに望んではいけないでしょうか?
(コルトーの場合、メーターの針は振り切れてますが……)

 問題は「きれいな音だなぁ。だからずっと…」の部分にもありそうです。まずうんと単純に「きれいな音を出し続けて何が悪い」という反論もあるでしょう。こういう単純な反論が、実はもっとも問題の本質を突いているかも。(私にはわからない部分です)

 私が感じているのは「きれい」にも2種類あり「人を寄せつけないほどのきれいさ」と「人をうっとりさせ続けるきれいさ」で、ヴェンゲーロフは前者のように思えます。冷たい、冷徹、厳しすぎる、といった低いレベルではなく、もっと「至上の美しさ」の域にあるようです。
 そういう「至上の美しさ」に「うっとりし続け」てもいいわけですが、私はその状態に身をゆだねるのはいやです。なぜいやなのか、自分でもよくわかりません。

 ヴェンゲーロフが立つ美音の領域は、何かふたつのものが対峙する片方の極にあると思います。馬鹿げた言い回しですが、その地は「悪魔に魂を売る」ことも「天使に身をゆだねる」こともどちらも選べる位置のようです。
 ヴァイオリニストは「悪魔のトリル」を弾くときや無伴奏パルティータの無窮動を弾くときに、どちらの位置に立つこともできると思いますが「至上の美しさ」に「うっとりし続け」ることは、私には「悪魔側に」重心を多く置くような気がして、それがいやなのかもしれません。

 私は自分が不健全なので音楽ぐらいは健全なものが好きですし、シチェドリンの「コンチェルト・カンタービレ」は健全な部類だと思います。たまたま昨日 TV の「もののけ姫」を見たので、あの「だいだらぼっち」のための曲といっても無礼にならないと思います。
 が、その曲を献呈されたヴェンゲーロフは何か別の意図を持っていないと、確信はできないのです。
 例により録画した画面は見ない主義ですが、ちらっと最後に目に入ったヴェンゲーロフのわざと健全そうに見せたような笑顔が、むしろ病的に私には見えたのですが…。

戻る   ひとつ上に戻る(ブロンの弟子)


1/11 正月休み

 正月休みってあまり練習できないんですよ。ドラえもん、ポケモン、コナンの3大スペシャル番組とか。
 それでも9日のレッスン初日には二人とも次の曲へ進みました。

 長男の無伴奏パルティータ#3は、1曲目プレリュードが最良の出来で私は60点ぐらいをつけます。2曲めのルールはなんだかゆっくりしたテンポに当人が落ち着けてしまい、まぁ早く弾いて弾けない曲ではないのでいいとはいえ50点というところです。
 プレリュードは曲自体だれが弾いても感動できる曲ですが、長男も人並みにある種の感動を与えられる弾きっぷりなので、まぁギリギリの合格点というところです。
 簡単だと思ったガボットとロンドは実はロンドのほうが難しく、40点ぐらいの出来でした。さらに二つのメヌエット、ブーレ、ジーグとみんな40点ぐらいのものでした。
 うちの先生によると「カール・フレッシュの楽譜はBACHを冒涜している」とまで言う人が一部いるのだそうです。が、私はフレッシュの f や p のつけ方はとりあえず理にかなっていると思いました。
 とくに最後の2曲、ブーレとジーグでのこまかい f と p の繰り返しは今の段階で、子どもには説明のしやすい“わかりやすさ”を持っていると思います。

 ブーレでは、一人の人間が自問自答しているような f と p の繰り返しが出てきます。
 自信たっぷりになにか言ってみた。でも本当は違っているかもしれない。そんな様子がフレッシュがつけた f と p から浮かびます。冒涜しているのだとすれば「そんな迷っているような舞曲があるか」という反論でもあるのかもしれません。でも昔の舞曲って、TVか何かで見ましたが、なんか動いては止まり動いては止まりしていたような気もするので、踊りというものが何か物語りするものであっても私は一向に差し支えないような気がします。

 そう考えてくると、最終曲のジーグは、実は無伴奏ソナタとパルティータ6曲のフィナーレでもあり、これまでの登場人物がすべて出揃って、それぞれが勝手なことを言い合っている、そういう f と p の細かい繰り返しに聞こえます。
 フレッシュが考えたことは、この無伴奏曲集は全体でひとつのオペラにも匹敵して、6曲目のボードビル風のジーグはオペラのフィナーレに相当するぐらいに、なんか希有壮大なことになっているのだと思います。(このへんも“冒涜”といわれそうですね。BACHはそんなロマン的な大げさな曲を書いていないとか)
 ボードビル風と思うのは、登場人物が順番に喋っていく風に聞こえるからで、ただしそれぞれは脈絡のない勝手なお喋りというか、自己主張をしている感じです。
 ソプラノが勝手にアリアを歌い、横のほうで関係ない旋律をバリトンが声を張り上げている。全員が「我こそが」という感じで勝手にアピールする。
 パルティータ全曲の最後は、フレッシュ版では私にはそんなふうに聞こえます。

 長男にはもっとパントマイムの気分で、一人何役もこなして、多少おどけるぐらいに弾いてほしかった。まぁ、…そんな余裕があるはずもなく、あったとしても1曲目から通してここまで集中力を持続させるのは無理なんだろうなぁとあきらめましたが。

 順番が前後しますが、二つのメヌエットはフレッシュの楽譜では、最初のほうが徹底的に音をつなげさせるようにテヌートがいっぱいついています。後のほうが跳ねるような感じで対比を見せるように解釈されます。私自身それをさらに強調するような弾き方に誘惑を感じましたし、長男にもそう弾かせましたが、CD を後で聞いてみたら、そんなふうに重音をたっぷり引っぱりすぎるような弾き方はむしろ悪趣味だったなぁと反省しました。
 ここは愛らしく弾くのを主眼としなければいけなかったようです。コーチがこければ皆こけます。

 次男もダンクラの『ロッシーニの主題によるエア・バリエ』がようやく終わりました。特訓をして、教則CD と同じ速さで弾けるようになったんですよ。
 でも先生の前の本番では、緊張からものすごくゆっくりでした。ノーミスで弾かなければという何か強迫観念に憑かれているようで、先生は手放しで褒めてはくれませんでした。
 でも次男はそれで満足したようです。(次男の性格はホント不思議で、先生が褒めたりしたら彼は怒りだし、泣き出してしまうのです。???です)
 次男には、自分で「こういうふうにしたい」という何かイメージがあるようです。それが自分に出来ないとわかると、楽器を投げ出しそうなほど怒ります。
 私と次男は共闘を組み「15歳までに兄ちゃんに追いつく」なんて言ってるのですが、どうなることやら。

 そんなわけでバイオリンのレッスンはわが家では、やはり「かなり苦行に近い代物」なんですよ。「典型的な音楽一家」に見られると照れます。そんな状態は、そうしょっちゅうはないです。むしろ音楽でも受験地獄に片足突っ込んだ状態であることにかわりないです。(<タケさん)

 さてと、長男は昨日からブルッフの1番コンチェルトです。ごく普通にペーター版ですが、コーチする身としても何か肩に力の入る曲です。
「弓の元から先まで思いっきり全弓使えよ」
 なんて言いたくなってしまうのですが、まず私自身が少し頭を冷やさないといけないようです。

戻る   ひとつ上に戻る(ヴェンゲーロフ)


HomePageへ戻る(INDEX)