稗田地蔵堂遺跡 (ひえだ) 33.992139,130.930944 gsi gsi衛星モザイク wikimapia

山口県下関市大字稗田字地蔵堂(稗田南町) (ひえだ) (日吉?)
稗田 | ひえだ阿禮 | ありとか意富久邇阿禮比賣命とか多婆那王と関係ありでしょうか
弥生中期 - 箱式石棺 +連弧文銘帯鏡+ 蓋弓帽 2+管玉      AD1C〜
 



下関市立考古博物館 画像検索 - 企画展
沖縄写真通信 - 下関市立考古博物館
蓋弓帽と連弧文銘帯鏡
稗田地蔵堂の丘の上に作られた墓の中から、
棺の中に葬られた人の両側に1本ずつ置かれた蓋弓帽と、
連弧文銘帯鏡が一枚発見された。




 蓋弓帽  出土例
(石厳里201号墳 1931発掘)

共出遺物として
(AD08)「居攝三年」銘夾紵   漆盤
(AD04)「元始四年」銘夾紵漆耳杯
深い位置に主体部がある造りの
しっかりと土封された木槨方形墳丘墓と
楽浪漢墓系遺物の例として
王根墓(石巖里219号墳)
三雲K1出土鏡と三脚日足+鳥文が共通

 : 脱字, 欠字, 故意の省略   , : 衍字, 故意の添字   誤字 : , 美之美人   □ : 判読できず   ・・・ : 文字数拾えず
稗田地蔵堂 連弧文銘帯鏡
149φ 149087 清白鏡 前漢鏡 銘帯 欠損 1969年出土 東博蔵
巨エ白□□□ □沄□之□□ ・・・澤流 而日 懐糜美人 外承驩之可 ・・・・霊京 願永思而毋絕
cf.) 立岩K35 #9 連弧文銘帯鏡
181φ 06763 屑C白而事君 志沄之合明 伋玄錫而流澤 疎而日 美人 外承可兌 而永思而毋絕
(異体字) :笑也《玉篇》 (異体字)
(倣い時に差し替わり) (再度の倣いによる遺伝)
 
cf.) 石寨山遺跡 重圏銘帯鏡 (外
162φ 00718 清白而事君 流澤 疏遠而日 懷糜美之 外承驩之可 慕窈窕于靈景 願永思而毋絕
cf.) 立岩K10 #2 重圏銘帯鏡 (外
178φ 01883 屑鉛虫ァ事君 之弇明 伋玄錫之澤流 疏遠而日 懐糜美之 外承驩之可兌 思窔佻之令京 願永思而毋絕
cf.) 立岩K10 #3 重圏銘帯鏡 (外
154φ 06755 清白而事君 流澤 遠而日 美之 外承之可 之靈京 願永思而毋絕
cf.) 南小路K1 連弧文銘帯鏡
164φ 01753 巨エ白而事君 惌沄之弇明 伋玄而流澤 而日 □□美之 外承ᬦᬦ □永思而毋絕
このような洗練された蓋弓帽は樂浪漢墓でも見たことが無い
金銅四葉座金具
漢代鎏金柿蔕飾
柿蒂,柿蔕,
柿のへた
蓮の花弁のデザインを取り込んだ蓋弓帽ですね
漢帝からの帥升の貰い物だったとしてもおかしくないレベルの品ですね

 

清白鏡 女性墓には副葬されていないか? (連弧文銘帯鏡重圏銘帯鏡で巨エ白銘をもつもの)

石寨山遺跡 7号木棺墓 雲南省昆明市滇池 連弧文銘帯鏡(150φ) ←1958出土鏡 (BC278-AD115)
(23-34)木棺墓 1956出土鏡→ 重圏銘帯鏡(162φ)
三雲南小路遺跡 1号甕棺墓 福岡県前原市 連弧文銘帯鏡13以上
(160φ-188φ)
重圏銘帯鏡3
(160φ,160φ,180φ)
推定AD1C
稗田地蔵堂遺跡 箱式石棺墓 山口県下関市稗田 連弧文銘帯鏡(149φ)   推定AD1C
二塚山遺跡 15号甕棺墓 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 連弧文銘帯鏡(159φ)   推定AD1C-2C
東小田峯遺跡 10号甕棺墓 福岡県朝倉郡筑前町 連弧文銘帯鏡(172φ)   推定AD1C-2C
立岩堀田遺跡 10号甕棺墓 福岡県飯塚市 連弧文銘帯鏡(180φ) 重圏銘帯鏡(154φ,178φ) 推定AD1C-2C
35号甕棺墓 連弧文銘帯鏡(181φ)
須玖岡本遺跡 D地点甕棺墓 福岡県春日市 連弧文銘帯鏡1以上 重圏銘帯鏡5
(167φ)(167φ)(173φ)
推定AD2C後半
猫塚古墳 竪穴式石槨墓 香川県高松市鶴市町 連弧文銘帯鏡(165φ)   推定AD4C-



『三國史記』「新羅本紀 第一」

(71-102-125-130)(57-80)
脱解尼師今
一云吐解時年六十二 (31) (71-102-125-130) 姓昔孝夫人
脱解多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里
初其國(多婆那國)王 娶女國王女爲妻 有娠七年 乃生(黄金)大卵
王曰 人而生不祥也 宜棄之
其女不忍 以帛裏並寶物置於中 浮於海 任其所往
初至金官國海邊 金官人怪之不取
又至辰韓 阿珍浦口是始祖☀赫居世在位三十九年也 (BC19)
時海邊老母 以繩引繋海岸 開 見之 有一小兒在焉 其母取養之
及壯身 長九尺 風神秀朗 知識過人
或曰 此兒不知姓氏 初來時 有一飛鳴而隨之 宜省字 以昔爲氏
又解韞櫝(内側が赤い木箱)而出 宜名脱解
脱解以漁釣爲業 供養其母 未嘗有懈色
母謂曰 汝非常人 骨相殊異 宜從學 以立功名
於是 專精學問 兼知地理 望楊山下瓠公宅 以爲吉地 設詭計 以取而居之 其地後爲月城
至南解王五年(08) 聞其賢 以其女妻之 至七年(10) 登庸爲大輔 委以政事
儒理將死曰 先王顧命曰 吾死後 無論子壻 以年長且賢者 繼位
是以寡人先立 今也宜傳其位焉

脱解,吐解,帥升 関連
AD 57 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬
後漢書
71 (01歳) 多婆那國王の子,女國王女の子(女國王の孫),脱解,吐解,姓昔 三國史記 新羅本紀 第一
102 (31歳) (脱解元年) 脱解尼師今立 時年六十二(31歳) 三國史記 新羅本紀 第一
107 (36歳) 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 後漢書
125 (54歳) (廉斯鑡)子孫數世 至安帝延光四年時故受復除 三國志烏丸鮮卑東夷傳
125 (54歳) (脱解)二十四年 秋八月 王薨 葬城北壤井丘 (死んだことにしている) 三國史記 新羅本紀 第一
126 (55歳) 婆娑尼師今立 三國史記 新羅本紀 第一
130 (59歳) 八月太君(解夫,脱解)以暑疾崩于日知宅(卞山)
太君足智多謀有 大功于社稷 又喜女色所
畜嬪妾千有余人 生子女七百人 不能盡知 自神以來初有之事也
(126-158) 婆娑尼師今紀





置於櫝中 浮於海 任其所往 多婆那國発で無動力で流れに任せて浮かべてあげると
初至金官國海邊 又至辰韓 阿珍浦口 表層流に流されて金海方面、さらには、半島南部東岸に到着する