稗田地蔵堂遺跡 (ひえだ) 33.992139,130.930944 gsi gsi衛星モザイク wikimapia

山口県下関市大字稗田字地蔵堂(稗田南町) (ひえだ) (日吉?)
稗田 | ひえだ阿禮 | ありとか意富久邇阿禮比賣命とか多婆那王と関係ありでしょうか
弥生中期 - 箱式石棺 +連弧文銘帯鏡+ 蓋弓帽 2+管玉      AD1C〜
連弧文銘帯鏡 清白鏡 前漢鏡149φ銘帯 欠損 1969年出土 東博蔵
「潔清白□□□ □沄□之□□・・・・・・流澤 恐疎而日忘
懐糜美人窮 外承驩之可説・・・・・・・・霊京 願永思而毋絕」
(cf.立岩154φ「屑C白而事君 惌沄驩之弇明 伋玄錫之流澤 忘疏遠而日忘
懐糜美之窮 外承驩之可説 思窔佻之靈京 願永思而毋絕」
 (cf.南小路164φ「屑C白而事君 惌沄之弇明 伋玄而流澤
恐疏而日忘美之 外承可説 永思而毋絕」
 蓋弓帽 (石厳里201号墳)
王根墓(石巖里219号墳)
 

このような洗練された蓋弓帽は樂浪漢墓でも見たことが無い
三雲方面のと三脚日足+鳥文が共通

 

清白鏡 女性墓には副葬されていないか?

石寨山遺跡 雲南省昆明市滇池 連弧文  
三雲南小路遺跡 1号甕棺墓 福岡県前原市 連弧文13以上 (160φ-188φ) 重圏3 推定AD1C中葉
稗田地蔵堂遺跡箱式石棺墓 山口県下関市稗田 連弧文(149φ)   推定AD1C
二塚山遺跡      15号甕棺墓 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 連弧文(159φ)   推定AD1C-2C
東小田峯遺跡   10号甕棺墓 福岡県朝倉郡筑前町 連弧文(172φ)   推定AD2C
立岩堀田遺跡   10号甕棺墓 福岡県飯塚市 連弧文(180φ) 重圏(154φ) 重圏精白鏡(178φ) 推定AD2C
須玖岡本遺跡 D地点甕棺墓 福岡県春日市 連弧文1以上 重圏5(167φ)(167φ)(173φ) 推定AD2C後半
猫塚古墳      竪穴式石槨墓 香川県高松市鶴市町 連弧文(165φ)   推定AD4C-



『三國史記』「新羅本紀 第一」

(71-102-125-130)(57-80)
脱解尼師今
一云吐解時年六十二 (31) (71-102-125-130) 姓昔孝夫人
脱解多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里
初其國(多婆那國)王 娶女國王女爲妻 有娠七年 乃生(黄金)大卵
王曰 人而生不祥也 宜棄之
其女不忍 以帛裏並寶物置於中 浮於海 任其所往
初至金官國海邊 金官人怪之不取
又至辰韓 阿珍浦口是始祖☀赫居世在位三十九年也 (BC19)
時海邊老母 以繩引繋海岸 開 見之 有一小兒在焉 其母取養之
及壯身 長九尺 風神秀朗 知識過人
或曰 此兒不知姓氏 初來時 有一飛鳴而隨之 宜省字 以昔爲氏
又解韞櫝(内側が赤い木箱)而出 宜名脱解
脱解以漁釣爲業 供養其母 未嘗有懈色
母謂曰 汝非常人 骨相殊異 宜從學 以立功名
於是 專精學問 兼知地理 望楊山下瓠公宅 以爲吉地 設詭計 以取而居之 其地後爲月城
至南解王五年(08) 聞其賢 以其女妻之 至七年(10) 登庸爲大輔 委以政事
儒理將死曰 先王顧命曰 吾死後 無論子壻 以年長且賢者 繼位
是以寡人先立 今也宜傳其位焉

脱解,吐解,帥升 関連
AD 57 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫
倭國之極南界也 光武賜以印綬
後漢書
71 (01歳) 多婆那國王の子,女國王女の子(女國王の孫),脱解,吐解,姓昔 三國史記 新羅本紀 第一
102 (31歳) (脱解元年) 脱解尼師今立 時年六十二(31歳) 三國史記 新羅本紀 第一
107 (36歳) 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 後漢書
125 (54歳) (廉斯鑡)子孫數世 至安帝延光四年時故受復除 三國志烏丸鮮卑東夷傳
125 (54歳) (脱解)二十四年 秋八月 王薨 葬城北壤井丘 三國史記 新羅本紀 第一
126 (55歳) 婆娑尼師今立 三國史記 新羅本紀 第一
130 (59歳) 八月太君(解夫,脱解)以暑疾崩于日知宅(卞山)
太君足智多謀有 大功于社稷 又喜女色所
畜嬪妾千有余人 生子女七百人 不能盡知 自神以來初有之事也
(126-158) 婆娑尼師今紀





置於櫝中 浮於海 任其所往 多婆那國発で無動力で流れに任せて浮かべてあげると
初至金官國海邊 又至辰韓 阿珍浦口 表層流に流されて金海方面、さらには、半島南部東岸に到着する