ヨーロッパ側の記録では、 この事件が起きたのは1542年となっていて日本側の記録である鉄炮記と一致しない。 鉄炮記は伝来から50年以上も後になって書かれたので、こちらが間違っている可能性も大である。
ポルトガル人は3人いたと伝えられるが、キリシタ・ダ・モウタ (喜利多陀孟太)、 ムラシュクシャ (牟良叔舎) の2人の名前しか鉄炮記に残っていない。 キリシタ・ダ・モウタのキリシタは Christian であろうが、ムラシュクシャは何だろうか。 なお、ヨーロッパの記録には、名前が書いてないそうだ。
漂着船の船将は王直というシナ人で、有名な倭寇の頭目だったが、 このときは五峰という変名を使っていた。 王直を名乗ったのでは捕ってしまうことを恐れたからだろうか。 シナ人の倭寇ということを不思議に思う人がいるかも知れないが、 室町時代に朝鮮沿岸や南シナで猛威を振った日本人倭寇は、 この時代には日本側の取締りによって勢力が弱くなっており、 倭寇の大半はシナ人だったという。
平成15(2003)年に出席した国際会議で、ポルトガルの発表者が導入部で日葡交渉史に触れ、 メンデス・ピントが日本に鉄砲を伝えたと言っていた。 会議から帰って調べたところ、メンデス・ピントは1652年来日で鉄砲初伝と関係はない。
ところが、メンデス・ピント本人が日本に最初に行ったのは自分だと書いているらしい。
その後、日本では大量の鉄炮が作られ、信長の時代には既に世界一の銃所有国だったという。 これを可能にしたのは日本の鉄砲鍛冶の技術が優れていたからだろう。
秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)で、朝鮮軍は日本軍の鉄炮により大打撃を受ける。 朝鮮には日本より早く鉄炮が伝わったが、早く伝来したのが却って災いし、 国産化した鉄炮の構造や性能は劣っていた。 名将李舜臣が日本銃を研究させ、同等の性能の銃の試作に成功したが、 大量生産には至らなかった。そこで、朝鮮側は投降した日本兵 (降倭、数千人いたという) を使って、鉄炮を作らせるとともに鉄炮打ちとしても使用した。 文禄・慶長の役での降倭の戦果は大きくないという。 しかし、文禄・慶長の役後、女真の侵略に対する防衛戦で戦功を立てたそうである。 降倭の一人、金忠善は日本名を沙也可といったが、司馬遼太郎は鉄砲鍛冶の雑賀 (さいが) ではなかろうかと「街道を行く」に書いていた。
国友鉄砲の里資料館のページによれば、鉄砲を複製した刀鍛冶八板金兵衛清定は、 最初の年にはネジの切り方が判らず複製できなかったが、 次の年にまた南蛮船がやって来て、これに乗船していた鉄工から学んだという。
別のページだが、八板金兵衛がポルトガル人に差し出した娘の名は若狭とある。 ただし、この事件が事実かどうかは不明としてある。
平成13年2月14日の朝日新聞に、火縄銃のネジの切り方が判ったという記事が出ていた。
記事からは、実証が出た訳ではなく、民間の研究者が推理したように読める。
雄ネジは、銃尾の部分に三角形の紙を巻き付けるとネジの形ができるので、
ネジの谷に当たる部分をヤスリで削ったと言う。雄ネジは当然そうするだろう。
むしろ、銃身の中に切る雌ネジの作り方の方が問題だと思う。
記事には切削工具を使ったのだろうとしか書いてない。
また、日本に伝来した火縄銃が東南アジアで製作されたものだとすれば、
東南アジアではどうやって製作していたのだろうか。
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First Written January 6, 1999
Transplanted to KSU Before May 31, 2003
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Last Update September 11, 2005
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