第一次世界大戦
2001年7月3日 午後10時27分

第1次大戦とは


第1次大戦の戦場はほぼヨーロッパに限られていた。ヨーロッパのなかでも北フランスとロシア西部、バルカン半島で決して広い地域ではない。
問題は戦場となった地域でなく、世界全体に及ぼした影響である。この戦争はヨーロッパの戦争であるがヨーロッパ以外の国が大きく関与し、しかもその影響は決定的だった。

日本とアメリカである。両国とも本心では孤立主義を外交の中心にしていた。日本はその50年前まで実際鎖国を実行していた。アメリカは戦後再び孤立主義に戻る。ただ歴史は両国を再びヨーロッパの戦争に引き込む。第2次大戦である。しかし歴史を一国の経済力とマンパワーで表現するならば、第1次大戦の終了で現代世界はほぼ形を整えたといえる。パリ講和会議の5大国はイタリーとドイツが入れ替わっただけで今日のG5(日・米・英・仏・独)である。そして今日G5は世界のGNPの60%を占める。そしてその比率は上昇しているのだ。世界は多極化していない。5大国のなかが多少変わっただけだ。

20世紀は19世紀と比較して短い世紀だった。19世紀はフランス大革命(1789)に始まり第1次大戦まで続いた。そして実質の20世紀は1914年の第1次大戦で始まり、1992年のソ連の崩壊で終了した。そして20世紀の歴史はこのG5を中心に回ったといって過言でない。地球上のほとんどの国がこのなかの一国または数ヶ国に翻弄された。

そして大国のなかでも超大国の存在がある。超大国とは他の大国と独立して(外交)政策を決定しうる大国を指す。大国は他の大国または超大国の意向を無視しては外交政策は決定できない。逆説的だが小国は常に独自外交が可能である。元首が大国を非難できるのは小国の特権だ。現在はアメリカだけが超大国だと自認する。しかし歴史上なぜ唯一の超大国となったかと言えば、第2次大戦の結果、日・独を同盟国として獲得したせいだろう。

そして第2次大戦の原因はドイツ問題と日本問題である。両国ともヨーロッパまたは極東でローカルに圧倒的であったためだ。

ここでロシアと中国を無視しているのが奇異かもしれない。だが両国とも力は常に軍事力のみで発揮され経済、GNPでは何物でもない。ハードカレンシーで表現されたGNPが一国の購買力また市場を表している。両国の軍事力の源は面積と人口によるのだろう。だがその二つが経済の発展を妨げているのかもしれない。

戦争は科学技術の発展を促す面がある。だがこの戦争は化学を除いては必ずしも科学の発展に寄与していない。第2次大戦でエレクトロニクスと原子力が発展したのに比べ見劣りする。むしろその以前に科学が集中して発展していた。ラジオ・電話・飛行機・自動車・エレベーター付きの高層建築・高速印刷によるマスメディア等々である。すなわち現在に通じる殆どのものがすでに発明され実用化されていた。

この事はまた各国が使用した兵器に優劣があまりなかったことを意味する。新兵器として毒ガス・タンク・航空機が陸戦に登場したがいずれも決定的ではなかった。兵士の勇気と献身、また将軍の作戦が勝敗を大きく左右した。もちろん大量に消費される武器・弾薬は本国から補給されねばならず、その生産体制・補給体制が継戦能力を決定した。

戦争が終了すると、5大国とその周辺国だけにこの科学の発展・生産能力の拡充・生産技術の向上が一部の人間だけでなく大衆にむけて実用化された。その他の地域ではついにこの科学を利用した競争力のある民需産業が成立しなかった。人々はこれを植民地主義のためといい、ある人々はプロテスタンテイズムの欠落だといい、またある人々は共産主義のためだという。だが主要因は戦争に参加し勝利するなり敗北したりした結果が、参加国で共通の競争心なり協調心を産んだためではなかろうか。もちろんだからといって戦争に必ず参加すべきとはならない。

このように20世紀をほとんど決定づけた第1次大戦がなぜ起きたか疑問に思うのは当然だ。直後から戦争を必然的ならしめる要因を発見しようと努力が払われた。だが史料を集めれば集めるほど以前からヨーロッパ戦争のシナリオを描いていた、人物なり集団はいない。

奇妙なことにナポレオン戦争以降の19世紀で5大国では日本とアメリカを除いては、大規模戦争は起きていない。日米の関与したのは南北戦争と日露戦争である。普墺戦争にしても普仏戦争にしても短期間の狭い地域で起きた人的被害の少ない戦争だった。イギリスはヨーロッパ大陸にはワーテルロー以来100年近く兵をヨーロッパに送っていない。(クリミア戦争があるがヨーロッパの僻地で除外すべきだろう。)すなわちイギリスを巻き込むような大戦争は100年間ヨーロッパでなかったのだ。

これは当時のヨーロッパ内の外交が優れていたことを示す。少なくとも共通の文化のうえにたち、共通の貴族的上流階級に属し互いに尊敬もし敗者があったとしても大切に取り扱った。協商グループと中央同盟諸国で対立があったとしても王族間は皆縁戚で結ばれ、互いの軍事交流は今よりもはるかに盛んだった。

第2次大戦はヒトラーの「憎しみ」に象徴されるように、外交的信頼がない所で起きた。また特定の人種なり特定の思想信条をもつ人々を狙い撃ちにして計画的大量殺人を犯すことが同時に起きた。戦争行為とは別にして第2次大戦は善悪はあったといわざるを得ない。だが第1次大戦でどちらが良いとか悪いという問題はない。

また5大国をとれば第1次大戦以前と第2次大戦以降は共通性がある。すなわち文化・政治運営で同一基盤のうえになりたっていることである。また外交的な信頼関係が高いことも共通している。また国民はあっても、人種・民族の優劣などは両時期とも論じていない。戦間期は人種の純粋とかそのなかでの優性とかを尊重する現在からみると異常な時期だった。

戦争の開始と終了

全ての戦争回避にむけた外交 <http://ww1.m78.com/honbun/diplomacy.html> が失敗し戦争が始まった。しかしこの時軍人たちが考えていた戦争と実際は全く違った。軍人たちは長期戦を予想せず、3ヶ月以内に大きな会戦がどこかで行われ、すぐ決着をみると思っていた。頭には、セダンの包囲戦、ケーニッヒグレーツの会戦、ワーテルローの会戦など華々しい決戦で勝つことしかなく、翌月にはパリで、サンクトペテルブルグで、ベルリンで凱旋パレードができると信じていた。

日露戦争で、機関銃弾を避けるため塹壕が掘られ、何ヶ月もの間戦線が膠着したことは観戦武官の報告をみて知っていた。しかしこれと同じ事が起きるとは信じなかった。いや信じたくなかったと言った方がよいかもしれない。

ロシア軍人を除いて、ほとんどの軍人たちはそもそも植民地戦争を除いて戦争を経験したことがなかった。そして奇妙なことにロシア人は満州のことを早く忘れたい出来事としか考えなかったようだ。
60歳をこえた将軍たちはセダン包囲戦に従軍したが、それは士官学校を卒業して間もなく起きたはるか昔の思い出だった。

大陸各国の参謀本部は大戦争に備え、総動員 <http://ww1.m78.com/topix/%82%8D%82%8F%82%82%82%89%82%8C%82%89%82%9A%82%81%82%94%82%89%82%8F%82%8E.html> 計画を準備していた。これはナポレオンによって創始されたもので、国民皆兵の理念によっていた。そして時代は国民平等となりすべての成年男子は総動員がかかれば、自分がどの連隊に属し、どの階級でどういう仕事をするのか承知していた。

総動員は20歳台の男子を根こそぎ動員するもので、演習がきくものではない。また一部だけ動員することも困難だった。ある地域だけとか、この年齢だけとかという選択は煩雑なうえ、平等の精神に反するように思えた。そのうえ部分動員をかけ敵が総動員で応じたならば、結果は悲惨なことになる。

このようにして各国は総動員による全面戦争か平和かという選択しかなくなった。そしてナポレオンの時代と違い、すでに鉄道時代に入っていた。以前のヨーロッパの戦争はすべて輸送手段は馬に頼っていた。馬は道路でも野原でも走れるが、汽車は馬車より速いにしても線路のうえでしか走れない。

各国の参謀本部は総動員の対象となる軍隊をどのように鉄道で動かすか計画をたてた。この作戦計画は平時に練られた(当然である)。ところが総動員となると数十万台の鉄道車両が必要であり、また線路で行き先は決定されるからシュミレーション自体がある仮装敵国を前提にしなければ作業が膨大にすぎた。実際やってみると更に攻撃地点・目標・動員師団と前提を徐々に絞り込まざるをえなくなった。

このように作戦が鉄道で規定されるようになり、さらに作戦が外交を規定するようになった。なかでもドイツのシュリーフェンプラン <http://ww1.m78.com/honbun/schlieffen%20plan.html> がそのうち最も有名でかつ戦争自体を決定した。

戦争が終わるとこの戦争の結果は分かっていたという人間が現れる。しかし分かっていれば戦争にならない。また個々の戦闘の勝敗も分からない。無数の英雄の活躍と、司令官・参謀の叡智と失敗とで勝敗は分かれる。そしてその勝敗こそがあとの歴史を決定してゆくのだ。

シュリーフェンプランによって、戦争のイニシアチブはドイツがとることになった。ドイツ軍右翼120万人の大軍がベルギーを突破しパリを前面にしたところで、フランスの反撃がマルヌ川で炸裂した。明らかに劣勢とみられたフランス軍が奇跡の勝利を収め、ドイツ軍をエーヌ川まで押し戻した。

そこで両軍はにらみ合い、そして塹壕を掘り始めた。戦線は大西洋まで延びた。戦線は膠着しこれがこの後4年続いた。

西部戦線はその間将軍たちがあるいは突破を試みあるいは消耗戦を挑んだ。いずれも成功したとは言えない。計算によれば両軍とも30センチメートルに一人の兵士を配置したという。そして消費された砲弾は640万トンを越えた。一人当たり20発は最低発射されたことになる。

西部戦線が膠着した理由は、ただ機関銃や塹壕の威力というより、歩兵の機動力の限界による。ナポレオン時代は騎兵が突破兵器として使われたが、この時代では小銃の射程が伸び、無力と化した。砲弾をかいくぐり前進できるのは歩兵だけとなってしまった。ところが攻撃側の歩兵は徒歩でしか前進できないが、防御側は鉄道で目的地に到達できた。小突破が成功しても戦果の拡大はできなかった。

東部戦線では事情が異なった。ここでは鉄道の密度が低く、ローカルな戦略予備を撃破すれば攻撃側は相当前進できた。東プロイセンという鉄道網が張り巡らされた地帯を突起部としてもつドイツが終始有利な戦闘を進めた。

1917年ロシアの鉄道網が雪のため崩壊すると、ペテログラード(サンクトペテルブルグを改名)など都市で食料が途絶し暴動が発生した。最早旧態依然としたロシア帝政にこの困難を打開する力はなかった。ロシア革命 <http://ww1.m78.com/honbun/russia%20revolution.html> が発生した。11月ボルシエビキが政権を握ると、ついに連合国から離脱し単独講和を計った。東部戦線は消滅した。

ドイツは軍部が政権を掌握したが、軍事面ですら西部戦線では失敗の連続であり外交・内政を効率的に運営することは元来無理だった。軍部主導による無制限潜水艦戦の再開はアメリカの参戦を招いた。しかし軍部はあくまで妥協による平和に反対し、1918年3月乾坤一擲の大勝負に打って出た。

カイザー戦 <http://ww1.m78.com/honbun/kaiser%20battle.html> である。しかし大西洋にはついに到達できず、不要な突起部を作っただけで失敗した。連合国は8月逆襲に転じた。ドイツに最早抵抗する力はないとドイツ軍部は結論づけた。ドイツはアメリカの14ヶ条提案 <http://ww1.m78.com/topix/fourteen%20points.html> を受け入れ、休戦を乞うた。1918年11月第1次大戦は終了した。

イギリス人はこの戦争を「全ての戦争を終わらせる戦争」と呼んだ。しかし民主主義は戦争終結のための講和会議を成功させることに失敗した。民衆が講和条件として望んだものは誤りだった。日露戦争の講和条件をめぐり東京で暴動が起きたことを政治家は知っていた。自国で繰り返したくなかった。

ベルサイユ条約 <http://ww1.m78.com/honbun/versailles%20treaty.html> を経済学者ケインズはカルタゴの和平と呼んだ。しかもドイツはカルタゴより強かった。塹壕から戻った前線兵士が徐々にドイツの政治を掌握した。イギリスでもフランスでも事情は変わらなかった。そして元前線兵士も銃後の政治家同様失敗した。

第1次大戦はそれまでの戦争と同じように全ての戦争を終わらせることはできなかった。しかし戦争が英雄的なものばかりでなく悲惨なものである、という認識は広まった。第2次大戦が始まったときどの国民も第1次とは異なり熱狂しなかった。そして終了したときも戦果をソ連を除き領土や賠償金にもとめることはなくなった。それ以来、5大国(G5)相互による戦争は絶えてない。

第1次大戦はある意味でG5にとり第2次大戦より影響の大きい戦いだった。第2次大戦は緒戦と最終局面を除くと独ソ戦と日米戦だった。英仏の戦死者は第1次大戦の方が多かった。そして、日本を除き両陣営に変化はない。つまり第2次大戦は第1次大戦の後遺症といえる。第1次大戦が起きたことまたは問題解決の失敗により第2次大戦が起き終了し今日が成立しているのだ。

ここで何故第1次大戦が発生したか疑問に思うのは当然だ。前述の通り外交の失敗が第一の理由である。そして第1次大戦がはじまるまでの外交官の活動ないしはその失敗は現在ほとんどの先進国の外交官試験でやってはいけないことの代表として取り上げられている。外交官というのは難しい仕事だ。まづ自分の信条に反しても国益(国家・国民の利益)に忠実でなければならない。次に国益の判断は長期的視野にたたねばならず、国内の一部の勢力に偏ってはいけないことである。どのように外交官は失敗したのだろうか。

第1次大戦の直接の引き金になった出来事に興味あるかたはこのまま外交 <http://ww1.m78.com/honbun/diplomacy.html> にお進みください。

そして第1次大戦の起源すなわち発生する条件を探求するかたは起源論 <http://ww1.m78.com/honbun-2/the%20origin%20of%20the%20first%20world%20war.html> を参考にしてください。ただ起源はなにかその時代に始まり、史実の裏付けがある出来事・事態・制度でなければならない。たとえば起源が人間の闘争本能だといってもそれは戦争の起源かもしれないが、第1次大戦の起源とは言えない。

ここでは立憲制(普通選挙と議会の成立・国民の政治への関与)に基礎を置いた国民国家の成立が最大の要件で引き金はドイツのシュリーフェンプラン <http://ww1.m78.com/honbun/schlieffen%20plan.html> が引いたと仮説を置いたが、判断は起源論を先人がどのように戦わせたかを見てからでも遅くない。

第1次大戦は事実上20世紀の開幕となった。それはアメリカのヨーロッパ戦争への関与とロシア革命によるばかりでなく、残りの大国、日独英仏にとっても超大国の道を捨て、国家の平等という現実を認めることだった。当時の兵士はもちろん自国の発展と名誉を期待し国家の命令に忠実な若者だった。そして過去と異なり字が書けた。そして現在に至るも山のように手紙が残っている。そして戦争がこのやり方でよいのか真剣に悩んだ。彼らはまぎれもない同時代人なのだ。そして残酷な塹壕戦に曝されたが皆不思議な明るさを失っていない。それがまた今日の我々を勇気づける。兵士について知りたいかたは第1次大戦の兵士 <http://ww1.m78.com/honbun-2/soldiers%20in%20ww1.html> と塹壕 <http://ww1.m78.com/honbun-2/trench.html> に進んでください。

日本がどの文明に属しているのか、そしてその過去の歴史が現在にどう反映しているかはわからない。ただはっきりしているのは日本、ロシア、アメリカ、そして中心となって始めから最後まで戦った英独仏の現在生きている人々またこれから生きる人々は第1次大戦とその結果の第2次大戦また暗い戦間期の記憶を決して忘れ去ることができないという点だ。そしてあるいはその記憶がそれらの国に共通する文明と現在を作ったのかもしれない。

もしこれが事実だとすれば、倒れた無名の兵士が今日のこれらの国の文明を作ったことになる。なぜならば、彼らこそがそのうち一国を敗北させても文明的には無意味でありまたその敗北させようという行為に膨大な犠牲が必要なことを明らかにさせたのだ。

イギリスでは次ぎの死者を悼む詩が11月11日の休戦記念日に現在でも詠まれる。

They shall grow not old, as we that are left grow old:
Age shall not weary them, nor the years condemn.
At the going down of the sun and in the morning
We will remember them.
(written by Laurence Binyon)

倒れたものは、我々が歳をとるように、老いることはない。
歳月は倒れたものを傷めはしないし、年月がやつれさせることもない。
太陽が沈むときと朝、
我々は彼らを思い出す。
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時代おくれのドンキホーテ
私が夢ばかり見るせりやんです。
00000000@tkg.att.ne.jp
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