3ヶ月後の終戦記念日へ向けて届け「風船爆弾」
2003年5月13日 午前0時55分

弾む心 バンバンババン
あなただけに みつけて欲しい
いつだって どこだって 遠くても飛んで行けるさ

明日に何が見える
明日に何ができる

涙の秒読みはかぞえちゃいけない
涙の秒読みはかぞえちゃいけない

作詞:河口純之助・甲本ヒロト/作曲:河口純之助

風船爆弾

新聞記事全文           

 AP東京特派員はわが風船爆弾について次のように語っている。日本軍の高価なV-1号兵器「紙風船爆弾」はドウリットルの東京空襲の復讐として企画されたが、日米両国の黙殺にあって、簡単に放棄された。日本陸軍技術本部将校は二日特にAP記者に説明した。

 ドウリットルが東京の空を騒がしてから三年間、今年四月二十までに放射された風船爆弾は九千個に達し、いずれも東京に近い三拠点から行われた。この第一弾が完成し放射されるまでには二ケ年以上の歳月が費やされ、九百万円以上の費用が投ぜられた。実際に米大陸に到着したものはワイオミング州に着いたその第一弾のみであった。爆弾の効果に就いて重慶放送によるアメリカの情報を絶えず注意していたが、この爆弾についてその後何等の情報もなくついに風船爆弾の使用は無意味であるとの結論に達した。この爆弾の狙ったところは日米両国民に対する心理的効果であった。

 日本国内においてこの秘密兵器についての宣伝は特にされなかった。それはアメリカにおける実際の効果について確証を握っていなかったからだ。日本国民は新聞紙上で僅かに知った程度であった。山火事をおこしあるいは都市に落下せしめて民心の動揺を狙ったものであるが、爆弾はあまりにも小さく操縦の方法がないので、軍事施設の破壊が可能であるとは予期しなかった。爆弾には目玉がなく、爆発地点を選ぶ能力はないが米大陸の広さからいって、どこかに落下するであろうと思っていた。

直径三十フイート以上
 
日本の帝国主義者も一般国民も空襲の範囲からアメリカ人はずっと離れているから、直ちにアメリカ人のところまで到達できる武器を発見するための努力がはじめられた。同じような方法でこれより十年前にすでに知られていた風船爆弾の原理最高空の天気の状況を知る為に利用された。爆弾にも同じような考え方が用いられるという提案が軍の士官と民間の種々な方面から提出された。陸軍省では絶えず民間からも手紙を受け取っていた。その方面の技術部の士官達はその詳がを纏めていた。いろいろな実験の後これらの武器の製造が千九百四十四年の夏に始まった。その最初のものはその年の十一月に現われた。日本は風船に紙を使わなければならなかった程窮状にあった。

 その風船は直径が三十フイート以上であったが、非常に薄いものであった。そのため五枚の紙を膠で張り合わせてあったと士官達はいっていた。この部分は日本の一般人によって作られた。
 爆弾は造兵廠で特別に企画されたが、最大搭載量は六十ポンド、一発の重量は三十ポンドであった。使用された爆弾の三分の二は焼夷弾でその他は人名殺傷弾であった。これら爆弾の放射地点は東京の東北約六十マイルの大津及び勿生の海岸と東京の東方約二十マイルの一の宮の三ケ所であった。風船は海岸に広げられてガスを充填し爆弾を装置したのちに係留ロープ切断とともに空中高く舞い上がっていった。
地上部隊が時計仕掛で
 科学者達は既に創造してしまった風船爆弾は空に向かって一万ヤード上がり、強い東風に乗ってアメリカの西海岸まで直線距離五千マイル以上を時速百二十五マイルから百九十マイルで到達するものと考えられた。風船爆弾は上げられてから四十時間から五十時間たつと空中に向かって爆発するようになっていた。

風船爆弾を打ち上げる時は地上部隊が時計仕掛をする時附近の漁村の僅かな日本人がそれを見ていた。士官達のいうところによれば風船爆弾を打ち上げるには冬が一番よい時季でもあり、かつ天気の良い方がよいということである。それで五ケ月間に三つの打ち上げる場所で一日平均二十個の風船爆弾が打ち上げられた。天候の悪い時には時間を延ばしても打ち上げていた。士官達は悲しげに海軍の神風、または人間ロケット砲などに相応するところの名前をこの武器につけられなかったと説明していた。
  (※仮名使いは現代仮名にしてあります)         

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 このAP電の記者の記述は、日本の当事者から聞いた話として書かれていますが、実際はどうであったか、米国側のコメントを加えた形で書かないと正確な記事とはなりません。その範囲ではこのレポートは間違っています。

 後年、それに関する米国の雑誌記事を読んだのですが、米本土に到達した風船爆弾の數は数百個はあったような記憶があります。アメリカ本土に到達した地点を黒丸で表していた地図が載っていたのですが、ほぼ全土にわたって黒丸がついていました。風船爆弾は大変な脅威をアメリカに与えたのです。ただ、軍によって徹底した情報制限と管理がなされ極力情報漏失を防いだので、被害は勿論、住民達の不安動揺などについては日本軍に伝えられる事なしに終わったとのことでした。

 かって私は福島県小名浜町に住んだことがあります。そこは風船爆弾の打ち上げ地点である勿生(なこそ)の近くでした。そこで聞いた範囲では、風船爆弾の打ち上げは連日行われていたとの事です。立ち入り禁止区域があるわけでなし、誰でも邪魔にならぬ範囲の遠くからであれば自由に見物は出来たと言っていました。[--附近の漁村の僅かな日本人がそれを見ていた...]とする記述も何かしら作為を感じさせるような悲観的な記述の仕方です。

 風船爆弾は両国の国技館の中で作られました。昭和20年3月10日の東京大空襲の[前後]にわたってその建物が利用された、とあるので、際どい場所でありながらそれに代わる代替地はなかったのだと思われます。
 なお、それに携わった労働者は専ら[学徒動員]で集められた女子学生であったと聞いています。

 現在、両国にある[江戸東京博物館]に残された本物の風船爆弾が飾られてあります(間違いはないと思いますが)。ただ、見た限りでは直径30フイート(約10メートル)はなく、目見当では数メートルと小振りだったような気がします。

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 朝日新聞に載った風船爆弾の著書[吉野興一著]紹介--2000年11月12日(朝刊)評者・中野翠 氏

苦肉の策と思ったら周到な研究が背景に

風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録

 実は、先月中旬のNHK「ニュース10」での特集を見て以来、風船爆弾には興味をかき立てられていた。
 風船爆弾とは言うまでもなく、太平洋戦争末期に日本軍がアメリカに向けて飛ばした奇妙な爆弾のことである。原爆を持つ国に対して風船爆弾。「竹槍で本土決戦」というのと同じようなもの。敗色濃厚の日本軍はそんな荒唐無稽な思いつきにすがるほど追い詰められていたのだ----とばかり思い込んでいたのだが、意外にも風船爆弾は偏西風を巧妙に利用した兵器で、一発はオレゴン州で爆発し、六人の死者を出すという「戦果」も上げていたというのだ。

 私が最も興味をひかれたのは、風船の素材が和紙とコンニャク糊だったという事だ。今テストしてみても「引っ張られても裂けない強さ」において和紙はアルミ以上に優れていると言う。爆弾を積み込み、高度一万メートル以上の所を敵国へと向かう巨大風船----。なんと風雅でむごい怪兵器!と私は唸ったのだった。
 タイミングよく出版された本書は、期待を裏切らない、実に興味深いリポートだった。

 風船爆弾(暗号名は「ふ号」)はとっぴな思いつきではなく、そこに至るまで、十八世紀以来の偵察用気球の長い前史があったこと。日本にはアメリカよりも二十年も早く偏西風を発見した科学者がいたこと。当時の軍人と技師によって開発されたラジオゾンデ(高層気象観測用の電波発信器)は世界最先端のものだったこと----。まさに著者が言う通り、風船爆弾は「1944年当時の日本の国力の粋を集めた、巨大プロジェクトと言えるのである」。

 結局、風船爆弾は計9.300発が飛ばされ、そのうちの約1.000個がアメリカ大陸に飛来。西海岸だけでなく深く内陸部(五大湖周辺)にまで到達していたという。
 最後には重要な恐ろしい指摘も。当時の日本軍では、爆弾ではなく生物兵器を搭載さる作戦が少なくともも準備段階まで進められていたというのだ。入念な論証で、説得力があった。
 

 風船爆弾

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